第1話 退散しましょ
茫然と街の雑踏を眺めていた。
一体いつからこうしていたのだろう。まったく思い出せない。
言いようのない不安が俺の口を開かせる。
「あの、すいません」
目の前を行き交う人々は、こちらを気にすることもなく素通りしていく。俺のことなどまるで見えていないかのように。
ふと油断した瞬間。
「危ない――!」
突っ込んできた自転車が、避けそこねた俺の身体を何の抵抗もなく通り抜けていった。
いよいよ不可解だ。
俺の話し声は周りに届かない。姿も見えず、触れることさえできない。
どう考えても答えは一つしか浮かばなかった。
「俺は……幽霊なのか……」
カーブミラーに映る景色の中には俺の姿だけが見当たらない。
俺はすでにこの世界の住人ではないのだと、生々しく突きつけられていた。
暗澹とした気持ちを抱え、俺はあてどなく街を彷徨っていた。
淡い緑に染まった並木道は、今の季節が春頃だと告げている。若葉を透かす午後の日差しはきっと暖かいのだろう。温度を失った俺の身体には何も伝わってこないけれど。
人や物をすり抜けてしまうのに、地面には立っていられるのも不思議だったが、そういうものだと納得するしかない。
身につけた服も、俺の皮膚から下に沈むことなく馴染んでいる。
スーツと革靴。俺は生前、会社員だった。入社3年目の24歳。同僚や上司の顔だってしっかりと覚えている。
それなのに、いざ自分の名前や家族のこととなると何も思い出せなかった。
震える手でスーツを探るのはもう何度めだろう。空っぽのポケットたちは何も語ってはくれない。
「俺は誰なんだ? 何がどうなって死んだ……?」
思わずつぶやいたとき、こちらを鋭く見つめる視線と目が合った気がした。
お寺の前にいたのは、僧侶の格好をした中年男性だ。もしや俺の姿が見えているのだろうか。
そんな淡い期待は即刻、別の感情で上書きされた。
「悪霊……退散!」
僧侶は大声を上げながら、まっしぐらに俺の方へ向かってくるではないか。
「悪霊? ……俺が!?」
ただならぬ形相に気圧されて、俺の足はひとりでに後退を始めていた。
僧侶は袈裟を振り乱し、数珠を握りしめて迫ってくる。見開かれた瞳からは一切の慈悲というものを感じない。俺という害虫を追い払おうとする冷徹な眼差しだった。
もし捕まったならどうなる。
「怨霊降伏! 邪気浄滅!」
「冗談じゃない!」
恐怖に駆られて逃げ出す俺がいた。何もわからないまま強制的に成仏させられるなんて御免だ。霊にだって選択の自由はある。
追いつかれそうになるたび、俺は人ごみをすり抜けて追跡をかわす。
「待てい! 悪霊!」
僧侶はしつこく追ってきていた。それほどに俺は危険な存在なんだろうか。考え出すと足取りが鈍りそうになる。
捕まってたまるか。俺が再び歩調を速めた直後。
腕が何か柔らかいものをかすめた。
「痛ぁい!」
「す、すいませ……――ん!?」
謝った後で俺は違和感に気づく。
立ち止まった女性が、俺を頭からつま先までまじまじと見つめていた。背は俺よりやや低いぐらい。服装はフリルブラウスにフレアスカート。雰囲気からしてせいぜい20歳前後だろう。
「え、ウソ。当たり判定ある人?」
とぼけたリアクションはともかく、お互いに干渉し合えるということは、彼女も俺と同じ霊に違いない。
などと考える暇もなく。
「悪霊退散――!!」
僧侶はすぐ近くまで接近してきていた。
「君も急いで逃げよう! 捕まったらマズい気がする!」
俺の呼びかけに、少女は目をぱちくりさせながら答える。
「……あー、私は大丈夫かも。多分あの人、あなたしか見えてないと思う」
「えっ?」
「それに逃げるならこっち!」
ストレートロブの黒髪がふわりと揺れた。
少女は俺の手を引いて、ビルの壁を通り抜けていく。体ごと物体の中に潜るのは初めてだったが、やはり抵抗は感じない。
一瞬の暗闇を抜けると、あれほどうるさかった僧侶の怒号はコンクリートの向こう側へそっくり消え去っていた。
「そうか! 最初からこうすれば……」
「ホントあわてすぎ。お兄さんはもっと大人の余裕が必要だね」
悪戯っぽく微笑みかける少女を見て、俺は恥ずかしさと苛立ちに混じった言い知れない気持ちが胸の中で波立つのを感じていた。
それが俺と彼女――シズエとの奇妙な日々の始まりだった。




