第二話 ベクティア・フランチェスカーという奇人、もとい親友
王都の東、王城のほど近くに広大な敷地を持つディレクト学園には、いくつかの施設が設けられている。
戦闘科・研究科の2つに棟が分かれた校舎。その中にはそれぞれの教室や図書館、共用の医務室、食堂などが用意され、生徒たちは各々に割り振られた授業や作業、実習をこなす。
校舎の外には戦闘科の生徒が鍛錬を行う訓練場や各個人の武器を保管する武器庫、研究科の生徒が使用する研究室のような各科の生徒のための施設……そして、生徒向けの寮が用意されていた。
女子寮の自室に戻ったナルメアは、部屋に備え付けてあるシャワーで訓練の汗を洗い流すと、あらかじめ用意しておいた制服に袖を通す。
本来なら、侯爵令嬢であるナルメアが自分の手で身だしなみを整えるなどあり得ないことだ。
体の洗浄や衣服の脱ぎ着、髪のセットや指先の爪切りに至るまで。
ずらりと揃った専属の侍女たちの手によって徹底的に磨き上げられ、家名に恥じない姿となって表舞台に立たされるのは、貴族の一つの役割でもある。
だがこの学園には、そんな身の回りのことをしてくれる侍女はいない。
もちろん貴族の生徒の中には屋敷から何人かの侍従を連れてきている者もいるのだが、ナルメアはそうはしなかった。
そもそも学園の外——戦地に赴くことが頻繁にある戦闘科に所属するナルメアにとって、戦いですぐ乱れ汚れる自分の身を他人を使ってまで整える意味を見出せなかったというのが主な理由だった。
……残りの理由としては、屋敷にいた頃から他人に何から何まで世話をされるのが性に合わず悩んでいたから、というごく個人的な物であり、その悩みは学園に在籍して一年が過ぎた現在も解消されていない。
戦闘科の生徒に支給されるスラックスを履き、プチプチとブラウスのボタンをとめ始めたその時。
ガチャリとサムターン式の鍵がひとりでに回り、ナルメアがあ、と思う間もなくバァンッとドアが弾けんばかりの勢いで開け放たれた。
「ご・き・げ・ん・ようですわーーー!!!」
ドアの先にいたのは一人の少女だった。
太陽の光を集めたかのような輝く金髪を肩甲骨の辺りまで伸ばし、毛先から10センチあたりでカールさせている。
鍛えられた筋肉の目立つナルメアとちがい華奢で、異様に爛々と輝くアイスブルーの瞳と「溌剌!!」という言葉を具現化したかのような明るすぎる笑顔さえ見なければ、深窓の令嬢といった言葉がピッタリと当てはまった。
そんな少女の姿を見て、ブラウスのボタンをとめ終わったナルメアは軽くため息をつく。
「……ベティ、せめてノックをしてくれないかしら」
少女――ベクティアは後ろ手にドアを閉めると、言葉ではなくニコリと(楚々とした、令嬢らしい笑みで)微笑むことで返事を返し、そのままツカツカと大股気味にナルメアの前まで歩み寄った。
まるで自室であるかのような堂々たる振る舞いだが、もちろんここはナルメアの自室であり、ベクティアの部屋はこの部屋から4つ先である。
返事を返す気がないその様子に、はぁ、と再びため息をついたナルメアをよそに、ベクティアは薄桃色に艶めく唇を開く。
「……時にメア。つかぬことをお聞きしますが、今朝の訓練後のシャワーはもう済まされました?」
二人の身長差的に大分上の方にあるナルメアの目と視線を合わせ、先ほどまでとは打って変わった真面目な声色で問うベクティアに、ナルメアは一瞬聞かれている意味や理由がわからなかったものの、少し悩んだ後、ありのままの事実を答えることにした。
「え、ええ。ちょうどさっき……」
「あ゙あ゙あ゙ーーー!!!」
ナルメアの声を途中で遮る形で、小さなベクティアの体から発せられたとは思えない声量の雄叫びとも悲鳴ともつかない声が部屋中に響く。
ビクリと肩を跳ねさせたナルメアの前で、ベクティアはまるでこの世で一番不幸だとばかりに頭を抱え絨毯のひかれた床に座り込む。
そのまま制服が汚れるのもセットした髪が乱れるのも構わず仰向けになり、バタバタと手足を動かして憤りを表現しつつ、ぎゃおーんと、文字通りぎゃおーんと叫んだ。
「なんってこと!!このベルティア・フランチェスカー一生の不覚!!!もうちょっと早く到着しさえしていれば、メアのあんなところからそんなところまで余す所なくじっくりゆっくり丁寧にねちっこく洗って差し上げましたのに!!!」
(……今の彼女の姿を見て、これが5歳の子供でも不審者でもなく、王国に名だたるフランチェスカー伯爵家の令嬢だと分かる人が何人いるだろう……)
何がそんなに悲しいのか、ついにはおーいおいおいと泣き真似までやり出した自身の親友に、ナルメアは何度目かのため息をはいた。
「前々から、何度も言ってるけど、一緒にお風呂には入っても流石に体までは洗わせないわよ?」
そう言いながらクローゼットのハンガーから取り出した黒い生地に金糸の刺繍が上品に輝くジャケットを羽織るナルメアを、顔を覆った指の隙間からチラリと……いやガッツリと見ながら、ベクティアはむくりと上体を起こした。
そのいやに澄んだアイスブルーの目に涙はなく、代わりに何故かメラメラとした情熱が立ち上っている。
「うぅ……無理だとは分かっていたとしても、その根本に冷めない情熱があるのなら、人は挑むことをやめられないのですわ……」
「こんなことで言ってほしくないセリフね、それ」
はぁ、と、また息が漏れる。
……ため息で幸せが逃げるという俗説があるが、だとしたら今のやり取りで逃げていった幸せはいかほどになるだろう。
ふとそんな思いがナルメアの頭によぎったが、すぐにふるふると頭を横に振ってそれ以上は考えないようにした。
「さっ、気を取り直して、今日のヘアセットのお時間ですわよ、メア!!」
「……お願いします」
先程までの醜態は何処へやら。
上機嫌なベクティアに促されるまま、ナルメアは姉のラティーシャから贈られたドレッサーの前に置かれた椅子に座った。
ピカピカに磨かれたガラスと錫製の鏡面に、重厚な色合いのダークオークの天板。
上部と左右に取り付けられた光魔法の込められた魔石によって、蝋燭がなくとも明るく照らしだせるそれは、市場で買えば平民の農夫が2ヶ月働いて稼ぐのと同じくらいの値がつく高級品だ。
最初はこんな値段の張るもの貰うわけにはいかない、と固辞したナルメアだったが、どうしても受け取らせたいラティーシャの(計算された)寂しげな顔と「このドレッサーの魔石はね、私が光魔法を込めたの……。私にはこんなことしかできないけれど、危ない所へ行ってしまうナルメアへせめてものお守りがわりに、と思って……。だめ、かしら?」という言葉(最後にこてん、と首を傾げる仕草付き。横で見ていたアルベルドは「うわぁ……」と顔を顰め、その後ナルメアから見えない位置でラティーシャに思い切り足を踏まれた)に負け、ありがたく受け取ることにした。
「今日は特に動く日ですもの。しっかりとして解けない、かつメアの魅力を引き立てる髪型に仕上げていきますわね!まあどんな髪型のメアも凛々しくて愛らしくて素敵ですけれど!!」
ベクティアはどこから取り出したのか、ヘアブラシやコーム、髪用油に火属性の魔石を使った高級品のヘアアイロンなどをどちゃどちゃとドレッサーの天板に並べたかと思えば、鼻歌まじりにナルメアの髪をまとめていく。
髪をすいて一つにまとめるのが精一杯のナルメアと違ってその手際は見事なもので、大まかな髪をまとめた髪束と何本かの三つ編みを作ったかと思えば、一本の三つ編みをコームで髪束の中にぐいぐいと押し込み、また別の三つ編みを髪束の根元に巻き付け、と、ヘアセットやメイクなどに詳しくないナルメアにはわからない作業を次々と行っていった。
その手つきはどう考えても熟練の侍女か流行りの美容師にしか見えないが、ベクティア・フランチェスカーはれっきとしたこの国の伯爵令嬢である。
ベクティアとナルメアの出会いは9年前、まだ彼女らが8歳の幼い少女だったころまで遡る。
当時のナルメアはスキルのことが国中の貴族に広まり、行く先々で陰口や嘲笑を浴びる毎日だった。
ナルメアの家——グッドハード家は、国から侯爵の位を与えられている。
国の貴族たちの中でも高位に位置するが、それでも……否、だからこそ、口さがない人々は悪意をぶつけてくる。
姉や母など、家族が共にいる時は全力で守ってくれるものの、幼いナルメアと違い大人の貴族である家族にはどうしてもナルメアから離れなくてはならない時もある。
そんな時ナルメアはいつも、囁き笑いや噂話から逃げるように人を避けて隠れていた。
ある日の茶会でのことだ。
共に来た姉が挨拶回りのため泣く泣く(本当に目尻に涙を溜めながら)離れた後、ナルメアはいつものように人目を避けるようにして屋敷の庭園を歩いていた。
住み込みの庭師たちが腕によりをかけて作り上げた見事な細工の植木も、みずみずしく咲き誇る色とりどりの薔薇たちも、沈んだナルメアの心を照らし出してはくれない。
胸の中にモヤモヤと漂う暗いものを吐き出すように大きくため息をついた時。
「——この、野蛮なスキルの恥晒しが!!!」
「っ!!?」
突然飛んできた怒鳴り声に、思わずびくりと肩を跳ねさせる。
「野蛮なスキル」、「貴族の恥晒し」。
それはナルメアが何度も浴びせられてきた言葉だった。
襲いくる次の罵声から身を守るように、咄嗟に身をかがめて蹲る。
だが、いつまで経っても続く言葉はなかった。
「……?」
恐る恐る顔を上げる。
辺りを見回してみるが、辺りには茂みと薔薇たちがあるばかりで、どこにも人の姿はない。
「——まえが——こ——穢らわしい——」
またどこかから声が聞こえる。
しかしよくよく聞いてみると、声はここから少し離れた所から聞こえているようだった。
声に誘われるように庭園を進むにつれ罵声の中に水音が混じりはじめ、やがてナルメアは開けた場所へ出た。
アーチ状に切り揃えられた薔薇の木に、優美に水を吹き上げる噴水のある小さな広場のような場所だ。
その噴水に追い込むようにして、数人の子供たちがナルメアより少し背の低い淡いピンク色のドレスに身を包んだ少女を取り囲んでいる。
取り囲む子供たちも皆上等なドレスやスーツを着込んでいるので、おそらくナルメアと同じように今日の茶会に参加した貴族の子息たちなのだろう。
ナルメアが広場を囲う茂みの影に隠れるようにして様子を伺っていると、ずい、と囲まれた少女へと詰め寄った黒いスーツの少年が「聞いてるのか、ベクティア!!!」と少女を怒鳴りつけた。先程から聞こえていた罵声はこの少年のものらしい。
「お前が生まれた事で一族にどれだけ迷惑がかかったと思っている!?お前の家だけじゃない、同じ一族だというだけで僕たちまで野蛮人扱いされるんだ!!」
鼻を膨らませながら怒鳴りつける黒いスーツの少年に追従するように、周りの子供達も「そうだそうだ」「お前なんかと一緒にされていい迷惑だ」と口々に言い募る。察するに、彼らは詰められている少女——ベクティアの親族で、親や大人の目がない今、日頃からの鬱憤をベクティアを虐げることで発散しようという腹積りなのだろう。
それに対してベクティアは言い返すでも怒りを露わにするでもなく、何も言わず黙ったまま、ただただ自分の足元に視線を落とし続けている。
それに気をよくした親族の子供たちがさらに罵声を重ねても、苛立ち混じりに地面を踏み鳴らしても、その細い肩を突かれても、ベクティアは決して口を開くことはない。
その小さな背中が抱える思いを、ナルメアはよく知っていた。
投げつけられる罵声が平気ないわけじゃない。
自分ではどうにもならない事を理由に、理不尽に嘲られることに対する恨みや怒り、心の柔い所をザクザクと切り付けられることへの苦痛や悲しみが頭の中で渦巻いているはずだ。
それでも何も言えないのは——言わないのは、きっと彼女もそれを受ける事がそう生まれてしまった自分に対する罰だと思っているから。
(こんなスキルを持った自分なんて価値がない。危険で野蛮で貴族の恥晒しで、家族や周囲にも迷惑な存在——そんなの、言われなくたって分かってるよね。他人なんかに言われたくなんてないわよね)
(だって——一番そう思っているのは、私たち自身なんだから)
ガサッ
「お前など——ッ!?誰だ!!」
弾かれたように立ち上がる。
腕やスカートに当たった茂みが音を立て、その音にその場にいた全員の視線がナルメアに注がれる。
「…………」
ナルメアは何も言わず、突き刺さる視線に身じろぎすらせず、ただ静かに彼らに近づいた。
背筋をピンと伸ばして緩く手を組み、澄み切った青空のような淡い青のドレスの裾を揺らしながら歩くナルメアの姿に、スーツの少年や取り巻きの子供達は無意識に後ずさる。
無理もない。
この場にいる誰よりも、ナルメアの侯爵家という家格は高い。
家格を尊び自身の家と国の利益を追求する、貴族の子として当然の教育を受けている彼らにとって、ナルメアのような格上の貴族に一人を大人数で取り囲み罵倒するなどといった醜態を見咎められたのは想定外の不運だった。
——陰でどれほど嘲笑われていようと、罵倒されていようと、ナルメアはこの国の貴族の中でも上澄に位置する侯爵令嬢なのだ。
もし今の事をナルメアの両親……グッドハード侯爵たちに告げ口でもされれば、自分たちだけではなく自分たちの家にまで不利益が及びかねない。
静かな湖畔の水面のように凪いだナルメアのミントグリーンの瞳が、スーツの少年と取り巻きたちを射抜く。
そして音を発する事なく、薄桃色の唇がある言葉を形作った。
『う せ な さ い』
「……っい、行くぞお前たち!」
まるでそれが合図だったかのように、少年たちはナルメアの横を通り抜けてそそくさと広場を走り去っていく。
それに一瞥をくれる事もなく、ナルメアはただ一人残った少女、ベクティアに歩み寄った。
リンチから解放されたからなのか、はたまた別の理由からか。
地べたにへたり込んだ少女が、少し頬を赤らめてナルメアを見上げた。
太陽を背負い、艶めくピュアレッドの髪を靡かせるナルメアの姿には、まさしく国を代表する令嬢らしい気品と美しさがあった。
「大丈夫?割って入るのが遅くなってごめんなさい……。ほら、手を貸すわ」
「な、ナルメア様のお手を煩わせるなど……!」
目の前に差し出されたナルメアの手を掴むことすら恐れ多い、と、ベクティアは自身の髪が乱れるのも構わずブンブンと首を横に振った。
それに軽く微笑んだナルメアは、拒否するベクティアに構わずその細い手を握ると、ぐい、と引き寄せ立ち上がらせる。
「わ、とっ。あ、ありがとうございます、ナルメア様……」
「ナルメアでいいわ。その代わり、と言ってはなんだけれど、私もあなたのことをベクティア……ベティと呼ばせてもらっていいかしら」
バランスを崩しそうになったベクティアを支え、少し土埃のついたスカートを取り出したシルクのハンカチで払う。
そして、ナルメアは再び美しく笑った。
「ねぇベティ、私とお友達になってくれる?……私たちはきっと、同じ事で悩み苦しめるはずだから。その時あなたがいてくれたら、私は一人じゃないって思えると思うの」
「は、ひゃい……!!こ、こちらこそ、お願いします……メア!」
これが、ナルメア・グッドハードとベクティア・フランチェスカーの出会いになる。
友人となり交流を持ちはじめた二人は頻繁に手紙でのやり取りを重ね、家族にも言えず自分の内に抱えて置けない悲しみや怒りをお互いに慰め合った。
それまではただ嘲笑われて陰口を言われるだけだった茶会や舞踏会も互いがいると思えば足がすくむことはなく、堂々と「令嬢としての自分」へ偽る事ができた。
同じスキルを持つことでの苦しみを知っているからという理由で始まった付き合いではあるが、順調に絆を深めた二人は、いまではかけがえない親友同士になっている。
……ただ一つナルメアにとって想定外だったのは、歳を重ねる事にベクティアの親愛がより深く、より重くなっていった事だ。
自分の服や髪に頓着しないナルメアが、今朝のように突然やってきたベクティアの着せ替え人形のようにされるのをはじめとし、週5のペースで開催される二人きりのお茶会、親同士の商談にかこつけた月8のお泊まり。
特に学園に入ってからは、お互いの科は違うもののある理由からほぼ毎回共に戦場に出向き、その際には寝食を共にすることも多く、現在ではベクティアと一緒にいない時の方が珍しいくらいだった。
そしてついにはナルメアの婚約者である第3王子に対して会うたびに令嬢らしい微笑みと愛らしい姿に似つかわしくない刺々しい言葉で威嚇する始末。
相手は王族ではあるがそれ以上に奇人なため全くお咎めはないものの、自分のナルメアの時間を邪魔するからと第3王子に食ってかかるのは、当然「普通の友人関係」ではありえない事だ。
あり得ない事だが、ナルメアはその異常さに気づく事ができない。
幼い頃からスキルのせいで見知らぬ他人から悪意を向けられ続け、家族や屋敷の使用人、領地の皆くらいとしかまともな交流をせず、友人と呼べる相手もベクティアと第3王子の従者の二人だけだったナルメアは、「普通の友人関係」がよく分からなかった。
少し引っ付きすぎているかもとちらと思っても、相手に「親友なら当然のこと」といわれてしまえば「そういうものか」と流されてしまう。
……そもそもナルメアと深く交流する人物はナルメアに対し、家族や友人や婚約者、使用人含めてほぼ全員が、とても普通とは言えない距離感で接しているため(主に近すぎる、甘やかしすぎる、執着しすぎるの3点セット)、彼女に「普通」を教えてくれる人がいないに等しいのだが。




