第8話:大商人の野望と、世界への切符(改稿版)
「素晴らしい手腕だ、宗久殿。私の設計した未来の技術を、こうして完璧に現実の『形』にしてみせるとは。……貴方を私の最大のパトロン兼、実行の要に選んだ私の目に、狂いはなかった」
堺の港の一角、外界から完全に遮断された巨大秘密ドック。
その奥に設けられた執務室で、俺(光秀)が扇子を広げて満足げに微笑むと、今井宗久は床に額をこすりつけるように深く頭を下げた。
この秘密ドックの隠蔽工作は見事だった。
宗久は、堺の港湾の広大な一角を大枚を叩いて買い占め、周囲を高い塀と屋根で完全に覆い隠した。そして表向きには、『破損した南蛮船を引き受け、解体・修理するための専用施設』という看板を掲げたのだ。
これならば、南蛮由来の鉄や大量の木材、特殊な部品が次々と運び込まれようと、中で南蛮人の技師たちが歩き回っていようと、周囲の商人や他国の間者たちからは「また今井の旦那が、南蛮船の修理で一儲け企んでいるのだろう」としか思われない。
その巨大なカモフラージュの殻の中で、俺の集めた船大工、鍛冶師、鋳物師たちが、誰の目にも触れることなく、日本の歴史上類を見ない『装甲外輪ガレオン船』を建造し続けていたのである。
「もったいなきお言葉にございます、明智様。この今井商会の全財力と人脈、そして私の命すらも、明智様が描く途方もない未来の絵図面のために捧げたもの。……器も、兵站も、水夫たちも、すべては完璧に整っております」
宗久はそう言って頭を下げたまま、しばらく沈黙した。
だが、やがて顔を上げた彼の瞳には、俺に対する絶対的な服従の色だけでなく、堺の頂点に君臨する大商人特有の、鋭く冷徹な『眼光』がギラリと光っていた。
「……しかし、明智様。商人の性として、どうしても一つだけ、腑に落ちぬことがございます。お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「構わん。言ってみろ」
宗久は、ドックの暗闇に浮かぶ漆黒の巨船『NOBU号』の方をチラリと見てから、口を開いた。
「これほど莫大な金と労力、そして明智様の神仏のごとき知恵を注ぎ込んで……一体、何をなさるおつもりで?」
宗久の問いは、極めて真っ当なものだった。
「もし明智様が、あるいは上様(織田信長)が、この日の本の天下を完全に統一するために船を造るというのであれば、これほどのバケモノ船は『過剰』に過ぎます。日本の沿岸や瀬戸内海を制圧するだけなら、毛利が持つような大型の安宅船に鉄板を張り、大砲を乗せるだけで十分すぎるはずです」
宗久の言う通りだ。日本国内の海戦において、外洋の荒波を乗り越えるための竜骨構造や、何ヶ月も無補給で走り続けるための保存食(ビスケットや柑橘類の果汁)など、完全にオーバースペック(無用の長物)である。
「風を無視して進む外輪も、何千キロという途方もない距離を航海するための死の病(壊血病)の特効薬も、日本の海を渡るだけなら全く必要ありませぬ。……明智様は、この船を、どこへ向かわせるおつもりなのですか? そして……一体、誰が乗るのですか?」
宗久は、息を呑んで俺を見据えた。
「まさか、明智様ご自身がこの船に乗り、日の本を捨てて異国へ渡られるとでも……?」
「まさか」
俺は声を立てて笑い、首を横に振った。
「私はどこへも行かない。この日の本の歴史のバグを修正し、法と議会による『永遠の平和なシステム』を構築して、愛する妻と共に静かに暮らすのが私の夢だからな。……私が、この国(鳥籠)の『新しい管理人』になるのだ」
「では、誰が……」
俺は少しの間沈黙し、やがて静かに、口を開いた。
「まだ明言はできない。……だが、宗久殿。この船は、戦の道具や、商いのための船ではない。この狭い日の本に収まりきらない『ある御方』を、海の外へ送り出すための【箱舟】だ」
「ある、御方……」
宗久の瞳孔が、収縮した。
この狭い日本に収まりきらない御方。明智光秀が、国家予算の半分にも匹敵する途方もない富と、数年の歳月を注ぎ込んでまで『日本から外へ逃がさなければならない』ほどの、巨大な存在。
宗久の天才的な頭脳が、一つの「あり得ない結論」に到達し、その全身の血の気がサッと引いていくのが見えた。
(まさか……天下布武を掲げ、天下を目前にしている、あの『魔王』を……!? 明智様は、上様をこの船に乗せて、日の本から追放するというのか……!?)
だが、俺は宗久のその推測を肯定も否定もしなかった。
ただ、懐から折りたたまれた分厚い和紙を取り出し、宗久の目の前の机にバサリと広げた。
「……っ!? これは……?」
宗久が驚愕の声を上げる。
それは、俺が現代の記憶を元に精密に描き出し、南蛮の商人から買い取った海図のデータと擦り合わせた、『世界地図』だった。
当時の日本人の世界観といえば、「本朝(日本)」「唐(中国)」「天竺」の三つの国(三国)で世界が構成されているという、極めて狭いものだった。
だが、目の前に広げられた地図には、日本が芥子粒のように小さく描かれ、その隣には巨大なユーラシア大陸が広がり、さらに海を隔てて「新大陸」や「アフリカ」、そして大航海時代を牛耳る「南蛮(ヨーロッパ諸国)」の姿が克明に描かれていた。
「宗久殿。これが成功すれば、貴方はこの狭い日の本での利権争いなどという、ちっぽけな遊びから抜け出せる」
俺は、扇子の先で、地図の上の広大な海(太平洋からインド洋)をなぞった。
「あの箱舟に乗る御方は、その強烈な破壊衝動とカリスマをもって、必ずや海を越え、異国の王たちを震え上がらせて新たな版図を築く。あの鉄の装甲とライフル砲があれば、南蛮の無敵艦隊など児戯に等しいからな」
俺は、宗久の肩に手を置き、悪魔の囁きのように甘く、そして途方もなく巨大な『欲望の果実』を提示した。
「その暁には。……私と、その箱舟に乗る御方の名の下に、今井商会に『世界との独占貿易権』を約束しよう」
「せ、世界との……独占貿易権……!!」
宗久は、雷に打たれたように激しく痙攣し、地図を見つめたまま息を荒げた。
「日の本の絹や銀を異国へ売り、異国の香辛料、金、未踏の地の珍品を、すべて宗久殿の商会だけが独占して日の本へ持ち込む権利だ。南蛮人から仲介料を取られるのではなく、我々自身が海を支配し、富の源泉そのものを握る。……堺という小さな町で、会合衆のトップに立った程度で満足している器ではないだろう?」
「せ、世界……! 地球という、この巨大な星の、すべての富を……!!」
宗久の老練な目に、凄まじい商魂の炎がギラリと、爆発的に燃え上がった。
ただの国内の流通網を牛耳るだけでなく、海を渡り、地球規模で富を動かす。のちのヨーロッパにおける「東インド会社」のような、国家の枠を超えた超巨大な特権多国籍企業。
生粋の商人であり、富の極致を追い求める天才にとって、これほど血沸き肉躍る、魂を焦がす「究極の投資話」はこの世に存在しなかった。
「……私の見込んだ通り、明智様は、神仏すらも凌駕する底知れぬお方だ……!!」
宗久は、感極まったように声を震わせ、床に額がめり込むほど深く、力強く平伏した。
もはや彼の心の中に、武士への驕りも、この計画への疑念も微塵もない。あるのは、この途方もない未来の景色を自らの手で掴み取るための、狂気的なまでの忠誠と熱狂だけだ。
「この今井宗久、明智様が描くその地球規模の野望に、私の全財産と、この命を賭けましょう! ……承知いたしました。船と水夫は、いつでも出航できるよう、あの黒い石(石炭)を山のように積み込み、大阪湾の沖合で完璧な状態で待機させておきます! ……最高の吉報を、お待ち申し上げておりますぞ!」
「ああ。頼んだぞ、宗久殿」
俺は深く平伏する宗久を残し、秘密ドックの執務室を後にした。
潮の香りと、鉄と油の匂いが混じり合う薄暗いドックの中。
俺は、静かに波間に浮かぶ漆黒の巨大船『NOBU号』を、一人で見上げた。
表向きは、南蛮船を修理するための港湾施設。
だが、その奥で作られていたものは、決してただの船ではない。
(……ここは港ではない。この狂った歴史の歯車を破壊し、天下の魔王をこの国から解き放つための、『巨大な檻の出口』だ)
魔王・織田信長を世界へ放ち、俺がこの国を平和な法治国家へ創り変えるための、物理的な準備は、これで完全に整った。
あとは、国内をまとめるための最強の「共犯者」を引き込み、俺が完全な悪役となるための『最後の舞台(本能寺)』を整えるだけだ。
俺の脳内にある『絶対記憶』の知識チートと、長年積み上げてきた資本、そして人間の業が複雑に絡み合い、歴史上最大の謀略が、静かに、だが確実にその完璧な輪郭を現し始めていた。
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