第6話 「お待たせいたしました上様!」魔王と天才軍師、約束の海で合流す
天正十年(1582年)、夏。
ルソン沖の海域に立ち込めていた硝煙が海風に流され、夕陽に赤く染まった波間に、二隻の漆黒の装甲蒸気船がゆっくりと横付けされた。
「お待たせいたしました、上様!!」
羽柴秀吉の腹の底から絞り出したような絶叫が、静寂を取り戻した海に響き渡った。
装甲蒸気船同士を繋ぐ分厚い木製の渡り板が架けられると、秀吉は一目散にその板を駆け抜け、『NOBU号』の甲板へと飛び移った。
そこで彼を待っていたのは、南蛮の最高級のビロードで仕立てられた豪奢なマントを羽織り、沈みゆく夕陽を背にして立つ、絶対的な破壊のカリスマ――織田信長であった。
「ふははははは! 猿! 随分と遅かったではないか!」
信長は、かつて日本全土を恐怖で支配したあの鋭い眼光を細め、秀吉に向かって豪快に笑いかけた。
「申し訳ござりませぬ、上様! 山崎の泥沼で、明智殿という底知れぬ化け物にこってりと絞られておりましたゆえ! こうして海を渡るまでに少々手間取りましたわい!」
秀吉は甲板に膝をつき、深く頭を垂れた。だが、その声に悲壮感や敗北者の惨めさは微塵もない。むしろ、最高に厄介で強大なライバルに叩き潰されたことを、どこか誇らしげに語るような清々しさすらあった。
もしここで秀吉が「上様が生きておられたとは!」などと見当違いな驚きを見せれば、信長はひどく落胆しただろう。だが、秀吉は光秀から『本能寺の真実』と『信長の世界進出』を完全に聞かされた上で、自らの極上の野心を燃やしてこの海へやってきたのだ。
「ふん。あの十兵衛に正面から挑んで、無事に生き残っただけでも褒めてやる。あ奴が俺の用意した本能寺という舞台の裏を完全に書き換え、近代兵器とやらで暴れ回ったと聞いた時、俺は腹を抱えて笑ったぞ。俺が天下布武を掲げて切り開いた日本という箱庭を、あ奴はたった数日で『法律と経済』の国に塗り替えおったのだからな」
「御意。わしの神速の機動も、兵たちの士気も、あの男の繰り出す未知の鉄の塊の嵐の前には、ただの児戯にすぎませんでした。あの方の才能と知識は、わしらのような乱世の野蛮人とは次元が違いすぎます」
秀吉が顔を上げると、信長は満足そうに頷き、ポンと秀吉の肩を叩いた。
「だからこそ、日本はあ奴にくれてやったのだ。俺もお前も、ちっぽけな島国で身内同士の殺し合いをするような器ではない。……この果てしない大海原と、そこにふんぞり返る白人列強ども。これこそが、俺とお前の野心をぶつけるに相応しい新たな盤面よ!」
信長が腕を広げて果てしない世界を指し示すと、秀吉は目をギラギラと輝かせて強く同調した。
「ガハハハハ! 全くでございます! 上様がこの海の向こうでわしを待っておられると知った時、わしの心は再び炎のように燃え上がりましたぞ! 極東からやってきたこの秀吉が、上様の黄金の右腕として、大航海時代とやらを根底からひっくり返してご覧に入れます!」
魔王と天才軍師。
かつて戦国の世を蹂躙した最強のタッグが、本能寺の変という歴史の特異点を経て、日本の枠を飛び出し、世界の海で再び結成された瞬間であった。
「ははぁっ……! う、上様におかれましては、ご健勝であらせられ……ぐっ、胃が……」
秀吉の後ろから、顔面を土気色にした黒田官兵衛が進み出て、甲板に這いつくばるように平伏した。彼は信長の放つ圧倒的な覇気と、周囲の海に散乱するスペイン艦隊の無惨な残骸を見て、極度の緊張から胃痛を再発させていた。
「おお、官兵衛か。相変わらず貧相なツラをしておるな」
信長は鼻で笑った。
「たった十五隻の南蛮船の群れに突っ込んだくらいで、そのような顔をするな。十兵衛が用意したこの『NOBU号』の装甲は、あの程度の鉄球を何百発浴びようが傷一つ付かん。俺にとっては、退屈しのぎの的当て遊戯に過ぎんわ!」
「た、退屈しのぎで無敵艦隊の一部を消し飛ばされたのですか……。もはやこの世の理が狂っております……明智殿の異常な発明と、上様の狂気が合わされば、ヨーロッパなど数年で地図から消滅してしまいますぞ……あいたた……」
官兵衛は懐から光秀直伝の『特製胃薬』を取り出し、震える手で粉薬を直接口に流し込んだ。
「上様。お初にお目にかかります」
胃痛でうずくまる官兵衛の横から、一切の感情を交えない冷徹な声が響いた。
分厚い帳簿と算盤を小脇に抱えた若きエリート官僚、石田三成である。
「ほう? お前が十兵衛の言っていた、『数字のバケモノ』か」
信長は興味深そうに三成を見下ろした。
光秀からの事前の手紙で、信長はこの若きエリートの異常な計算能力について知らされていたのだ。
「はっ。石田三成と申します。以後、この海外遠征軍のすべての兵站と物資管理、ならびに南蛮人から巻き上げる資産の計算を担当させていただきます」
三成は一切の物怖じをせず、信長の威圧的な目を真っ直ぐに見返して言った。
「ちなみに上様。先ほどの戦闘で上様が海の藻屑にされたスペインのガレオン船十五隻ですが、仮にあの船を拿捕し、無傷で積荷の香辛料や銀を接収していれば、日本円にしておよそ三万貫(現在の価値で数百億円)の純利益が見込めました。上様の『退屈しのぎ』の代償としては、少々コストパフォーマンスが悪すぎます。次回からは、撃沈ではなく拿捕を優先されるよう、強く進言いたします」
「なっ……お、お前! 上様に向かって何を恐れ多いことを!」
遅れて乗船してきた清正と正則が血相を変えて三成を怒鳴りつけたが、信長は一瞬キョトンとした後、腹の底からルソンの海を震わせるほどの大爆笑を上げた。
「ふははははは!! 傑作じゃ!! 俺の戦い方にいちゃもんをつけてくる奴など、十兵衛以外に初めて見たわ! なるほど、あ奴が『こいつの計算には一厘の狂いもない』と太鼓判を押すだけのことはある! 気に入ったぞ、三成! お前がその帳簿で、ヨーロッパの富をすべて俺の懐に集めてみせろ!」
「承知いたしました。一銭の取りこぼしもなく、徹底的に回収してみせます」
三成は眼鏡の奥をギラリと光らせ、深々と一礼した。
信長のカリスマ。秀吉の野心と人たらし。官兵衛の知略。そして三成の悪魔的な計算能力。
明智光秀によって日本から「出力」されたこの危険分子の群れは、互いの長所を異常な次元で補い合う、まさに大航海時代を蹂躙するための最悪の『極東のバグ軍団』として完成しようとしていた。
「あら、ずいぶんと賑やかになったわね」
その時、NOBU号の船長室の重厚な扉が開き、一人の女性が優雅な足取りで甲板へと現れた。
夕風に美しくなびく見事な黒髪。ヨーロッパの貴婦人のような豪奢なドレスを身にまといながらも、その手には極東の細工が施された見事な扇が握られている。
織田信長の正室にして、天下の裏工作を牛耳る女スパイの長――帰蝶(濃姫)であった。
「き、帰蝶様……!!」
秀吉が目を見張り、再び深く頭を下げた。
本能寺の変の直前、光秀が密かにプロデュースして信長の元へ送り届けた彼女もまた、この黒船に乗って夫と共に外の世界へ出ていたのだ。
「お久しぶりね、秀吉殿」
帰蝶は妖艶な笑みを浮かべ、扇で口元を隠しながら秀吉を見下ろした。
「それにしても、あの生真面目な十兵衛が、よくあんたたちみたいな荒くれ者を綺麗にまとめ上げて、ここまで送り届けてくれたものだわ。本当にあの人は、昔から世話焼きなんだから」
「ははっ。明智殿の御配慮には、我ら一同、ただただ感服するばかりでございます。して、帰蝶様におかれましては、この南蛮の海はいかがでございますか?」
「最高よ」
帰蝶は、血塗られたルソン沖の海を眺めながら、うっとりとしたため息をついた。
「日本の退屈な奥の院に閉じ込められているより、百倍楽しいわ。こっちの南蛮の王侯貴族どもは、みんな欲深くて単純だから、少し私が裏で糸を引いてやるだけで、面白いように自滅していくの。私の『裏工作』の腕が、世界規模で試せるなんて……十兵衛には本当に感謝しなくちゃね」
美しき顔に、隠しきれない暗黒のサディズムを滲ませる帰蝶。
彼女もまた、この世界を自らの遊び場として楽しむ気満々であった。信長という最強の暴力の裏で、彼女がヨーロッパの宮廷にスパイを放ち、情報戦を仕掛ければ、どんな大帝国も内部から崩壊するだろう。
「おおーい! あんたたち、無事かい!」
そこへ、秀吉の乗ってきた船の方から、元気な声が響いた。
薬湯の入った鍋を抱え、エプロン姿のまま渡り板を渡ってきたのは、秀吉の正室・ねねである。
「ねね! お前、上様の御前であるぞ!」
秀吉が慌てて取り繕おうとするが、帰蝶は嬉しそうに目を細めた。
「あら、ねねじゃないの。よくこんな長旅を耐え抜いたわね」
「帰蝶様! お久しぶりでございます! いやあ、男どもが船酔いだの退屈だのとやかましくて、私がしっかり手綱を握ってやらないと、ここまで来られませんでしたよ!」
ねねは豪快に笑いながら、帰蝶に駆け寄った。
「まあ、それはご苦労だったわね。さあ、女同士で積もる話もあるわ。私の船室で、極上の紅茶でも飲みながらゆっくり話しましょう。これからの『お茶会外交』の打ち合わせもしなくちゃいけないしね」
「はいっ! 喜んで!」
男たちが野心と暴力で世界を蹂躙しようとしている裏で、妻たちもまた、彼女たちなりの戦い(後方支援と外交)の準備を完璧に整えようとしていた。
「さて、猿」
信長が再び海を見据え、口元に凶悪な笑みを刻んだ。
「お前たちという最凶の軍団と、十兵衛が用意したこの鉄の船、そして近代兵器。すべての手札が揃った。ここから先は、ただの退屈しのぎではない。本物の『天下布武』の続きだ」
信長は、西の空に沈みゆく太陽――ヨーロッパの存在する方角を、白檀の扇子で鋭く指し示した。
「まずは、天竺と中東を力でこじ開け、大航海時代とやらで世界を食い物にしているスペインの『無敵艦隊』を、文字通り海の底へ沈めてやる。俺たちを野蛮人と見下す白人どもに、極東のバグの恐ろしさを骨の髄まで刻み込んでやるのだ!」
「ガハハハハ! 承知いたしました! わしの『人たらし』と佐吉の『数字』、そして上様の『武力』があれば、ヨーロッパなど半年でひっくり返せましょう! さあ、野郎ども! わしらの新しい天下の幕開けじゃあ!!」
秀吉の絶叫に、清正、正則、そしてすべての将兵たちが、ルソンの海を震わせるほどの壮絶な雄叫びを上げた。
「「「うおおおおおおおおおおっ!!!」」」
明智光秀が未来の知識によって日本から解き放った、戦国最強の怪物たち。
彼らが合流したこの日、天正十年(1582年)夏。
のちにヨーロッパの歴史書において『極東の悪魔の飛来』として記録される、大航海時代を根底から破壊する未曾有の世界蹂躙劇が、ここに完全なる幕を開けたのである。




