第7話:穏やかな隠居生活と、最愛の妻の笑顔
近代化の熱気と喧騒に包まれた帝都の中心部から馬車で一時間ほど離れた、洛北の緑豊かな郊外。
比叡山の山並みを遠く借景に望み、清らかな小川のせせらぎが絶え間なく聞こえる静かな土地。四季折々の花が咲き乱れるように計算し尽くされた広大な日本庭園の奥に建てられた、上質な総ヒノキ造りの平屋の邸宅。それが、大日本帝国初代内閣総理大臣という重責から完全に解放され、政界を引退した俺の新たな住処だった。
初夏の穏やかな昼下がり。
手入れの行き届いた縁側で暖かな日向ぼっこをしながら、庭の木々に落ちる木漏れ日の中でうとうとと微睡んでいると、背後のふすまが衣擦れの音とともに、滑るように静かに開いた。
「あなた様。お茶の用意ができましたよ」
カラカラと銀の鈴を転がすような、俺が初めて出会ったあの日からいつまで経っても変わらない、優しく心地よい声。
俺が振り返ると、歳を重ねてもなお、凛とした美しさと少女のような気品を保ち続けている最愛の正室・熙子が、黒漆塗りの盆を持って現れた。
その頭部には、上質な椿油で手入れされた美しい黒髪が結い上げられ、初夏の日差しを柔らかく反射して、絹のように艶やかな輝きを放っている。
その黒髪の輝きを見るたびに、俺の脳裏には、かつて【絶対記憶】で読み込んだ史実の残酷な記録がフラッシュバックする。
史実における明智光秀は、主君を次々と変えて浪人生活を長く続け、美濃や越前で極度の貧困に喘いでいた。連歌会を催すにあたり、客をもてなす酒や肴を買う金すらなかった光秀のため、熙子は自らの命とも言えるその美しい黒髪を切り売りして金を工面し、夫の面目を保った。
そして、光秀が信長に仕えて幾多の過酷な戦場を駆け回り、ようやく出世の糸口を掴んで近江の坂本城主となった頃には。これまでの絶え間ない貧困による過労と心労が祟り、光秀が天下を獲る大舞台を見る前に、彼女は若くして病に倒れ、この世を去ってしまう運命にあったのだ。
「武士の妻たるもの、夫のために苦労をするのは当然」という中世の狂った自己犠牲の美学によって、彼女は史実の歴史の中で静かに殺されたのである。
だが、今の彼女はどうだ。
ふっくらとした頬には健康的な赤みが差し、最高級の西陣織の絹で仕立てられた涼しげな着物をまとい、世界で一番幸せそうな、花がほころぶような笑みを浮かべている。栄養状態も極めて良好で、現代の医学と衛生知識によって、彼女の体を蝕むはずだった病の影は一切ない。
俺が不慮の事故で前世の命を落とし、この戦国時代という血生臭く理不尽な世界に転生して。歴史の歯車をへし折るために、時にはマムシ(斎藤道三)を騙し、魔王(織田信長)と結託し、天才(羽柴秀吉)の心をへし折りながら、血反吐を吐くような孤独な戦いを続けてきた最大の理由。
それは、天下人という権力でも、歴史に名を残す名誉でもなく、ただ一つ。
この最愛の妻の、この笑顔と美しい黒髪を、何があろうと永遠に守り抜くためだったのだ。
「ありがとう、熙子。……とても良い香りだ」
「ふふっ。堺の今井宗久殿の商会から取り寄せた、南蛮の極上の茶(紅茶)にございます。あなた様が以前、紙にレシピを書いてくださった『焼き菓子』も、厨房の者と一緒に分量を量って、たくさん焼いておきましたよ」
縁側に並んで座り、二人でゆっくりとティータイムを楽しむ。
かつての、いつどこで刺客に首を獲られるか、いつ大軍に城を囲囲まれるか分からない、ヒリヒリとするような戦国の世では絶対に考えられない、穏やかで、満ち足りた時間。
一口かじるとサクッと崩れる、バターたっぷりのクッキーの甘さと、アールグレイの芳醇で爽やかな香りが、口の中に優しく広がっていく。
「本当に美味しいよ、熙子。まるでお店で出せるような、いや、本場のヨーロッパの職人が作ったそれ以上の出来栄えだ」
「本当ですか? 嬉しい……! 今度は、あなた様が仰っていた、卵と砂糖を泡立ててふわふわに膨らませる『すぽんじ・けーき』という南蛮の甘味にも、ぜひ挑戦してみますね!」
俺の些細な褒め言葉に、無邪気に喜んで身を乗り出してくる熙子の横顔を見つめながら、俺は深い安堵と、言葉にできないほどの幸福感に包まれていた。
この穏やかな時間のために、俺は生きてきたのだ。すべてを投げ打ってでも、あの血塗られた歴史を書き換え、この世界線を守り抜いた価値があったと、心の底から思えた。
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