第三章-1 契りの刻
婚姻は、驚くほど静かに執り行われた。
大聖堂ではなく、玉座の間でもなく。
重厚な机の上に並べられた書類に、互いの名を記すだけ。
それが、セレスティア皇国の皇女と、ルーク・アリスターの結婚だった。
立ち会ったのは、宰相や数名の重臣のみ。
祝福の言葉も、華やかな音楽もない。
(これで……私は、ルーク・アリスターの妻)
胸に去来するのは、安堵よりも緊張だった。
この婚姻は、愛ではない。
国を守るための、選択。
「……形式は、これで終わりです」
書類を整えながら、宰相はそう告げた。
「この後、殿下は現在の後宮から陛下の居室へと移っていただきます。
アリスター卿もそちらへ移っていただきますので、しばらくの間、お二人でお過ごしください。」
そう伝えると宰相や重臣たちは部屋から去っていった。
「お疲れではございませんか、殿下」
その声音は落ち着いており、どこまでも丁寧だ。
「不本意であれば、夜のことは無理をなさらなくて構いません。
私は今の部屋でも問題ありませんので。」
その言葉に、アリーシャは思わず顔を上げた。
「……それでは意味がありません」
静かな声。
――それは誰かに強いられたわけでは無い。
自分で選んだ以上、背負うと決めた言葉だった。
「国のため、兄の遺志のため…….、そして、この婚姻を確かなものとするため、白い結婚のままでは意味がありません。」
一瞬、ルークの瞳が揺れた。
「……本当に、よろしいのですね」
「はい」
*
その夜。
初夜の準備を終えたアリーシャは寝室にてルークをまっていた。
程なくして重厚な扉が開けられ、シャツにズボンといったラフな服装のルークが現れる。
「殿下、婚姻は形式的なもので終わりましたので、せめてこれを」
ルークはアリーシャに白いバラとブルースターで束ねられた花束を差し出す。
花の香りに緊張で硬くなっていた身体が少しだけ解れる。
(花言葉は…分かった上で、よね?)
「ありがとうございます。
とても嬉しいです」
ルークはアリーシャの前で右膝を突き、頭を下げる。それは騎士が君主へと忠誠を誓うポーズだ。
「今は、信じなくて構いません。
それでも――あなたがこの国と共に立つとき、私は必ずあなたの隣におります。
あなたが声を上げるその時、私は誰よりも先に、それを受け止める者でありたい」
求める言葉ではなかった。
何かを誓わせるための言葉でもない。
ただ、彼が選んだ道を、静かに差し示すための言葉だった。
その言葉を聞いた瞬間、アリーシャは息を吸うのを忘れた。
隣にいる、――それは、守るでも、導くでもない。
ただ、逃げ道を塞がずに、共に立つという宣言。
(……どうして)
これまで、皇女として「慎ましさ」だけを期待されてきた。
だが――、自分の「声」を前提にされたことは、一度もない。
ルークはアリーシャの左手を取り、その手の甲へと静かに口付けた。
そこだけが熱を帯びているようだった。
そしてゆっくりと立ち上がり手を離す。
「――今日は、このまま休みましょうか。」
声は低く、穏やかだった。
「あなたの覚悟が定まるまで、俺は――触りません」
アリーシャは一瞬、言葉を失った。
疑念は、まだ消えていない。
この人は、本当に誠実なのか。それとも――。
だが。
アリーシャはナイトドレスを静かに脱ぎ落し、一糸纏わぬ姿で、ルークの前に立つ。
唇を噛みしめ、顔を上げる。
「……覚悟は、できています」
その声は震えていたが、逃げなかった。
ルークは、一瞬だけ息を呑む。
――アリーシャが覚悟を決めたのならば、受け止めるのは自分の役割だ。
ゆっくりと彼女の頬に手を添え、きつく結ばれた唇に、己の唇を重ねた。
夜は、静かに更けていった。
最初から最後まで、慈しむような手つきで、ルークは触れていた。
痛みも感じたが、それ以上に温もりに包まれているような感覚。
(……この方は……)
身体が感じる喜びを確かに感じている。
だが、心は疑いと、不安の中にあった。
それでも――
この夜を境に、戻れない場所へ来てしまったことだけは、確かだった。




