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皇国のアリーシャ  作者: 岡井チマ
第一部 
7/103

第三章-1 契りの刻

加筆修正しました。

 婚姻は、驚くほど静かに執り行われた。大聖堂ではなく、玉座の間でもなく。重厚な机の上に並べられた書類に、互いの名を記すだけ。それが、セレスティア皇国の皇女と、ルーク・アリスターの結婚だった。

 立ち会ったのは、宰相や数名の重臣のみ。祝福の言葉も、華やかな音楽もない。


(これで……私は、ルーク・アリスターの妻)


 胸に去来するのは、安堵よりも緊張だった。この婚姻は、愛ではない。国を守るための、選択だ。


「……形式は、これで終わりです」


 書類を整えながら、宰相はそう告げた。


「この後、殿下は現在の後宮から陛下の居室へと移っていただきます。アリスター卿もそちらへ移っていただきますので、しばらくの間、お二人でお過ごしください。」


 そう伝えると宰相や重臣たちは部屋から去っていった。


「お疲れではございませんか、殿下」


 その声音は落ち着いており、どこまでも丁寧だ。


「不本意であれば、夜のことは無理をなさらなくて構いません。私は今の部屋でも問題ありませんので。」


 その言葉に、アリーシャは思わず顔を上げた。


「……それでは意味がありません」


 驚くほど、冷静な声だった。――それは誰かに強いられたわけでは無い。自分で選んだ以上、背負うと決めたのだ。


「国のため、兄の遺志のため…….、そして、わたくしがこの婚姻を受け入れた以上、形だけで終わらせるわけにはいきません。」


 一瞬、ルークの瞳が揺れた。


「……本当に、よろしいのですね」


「はい」



 *



 その夜、初夜の準備を終えたアリーシャは寝室にてルークをまっていた。婚姻を受け入れると決めた時から、この夜が来ることはわかっていた。アリーシャは皇女だ。初夜の意味も、何を行うのかも教育されてきた。けれど、覚悟を決めたことと、恐れが消えることは別だ。この先、自分が何を失い、何を得るのか――まだ、何ひとつわからなかった。

 程なくして重厚な扉が開けられ、シャツにズボンといったラフな服装のルークが現れる。


「殿下、婚姻は形式的なもので終わりましたので、せめてこれを」


 ルークはアリーシャに白いバラとブルースターで束ねられた花束を差し出す。花の香りに緊張で硬くなっていた身体が少しだけ解れる。


(花言葉は…分かった上で、よね?)


「……ありがとうございます。とても嬉しいです」


 ルークはアリーシャの前で右膝を突き、頭を下げる。それは騎士が君主へと忠誠を誓うポーズだ。


「今は、信じなくて構いません。それでも――あなたがこの国と共に立つとき、私は必ずあなたの隣におります。あなたが声を上げるその時、私は誰よりも先に、それを受け止める者でありたい」


 求める言葉ではなかった。何かを誓わせるための言葉でもない。ただ、彼が選んだ道を、静かに差し示すための言葉だった。その言葉を聞いた瞬間、アリーシャは息を吸うのを忘れた。

 隣にいる、――それは、守るでも、導くでもない。ただ、逃げ道を塞がずに、共に立つという宣言だった。


(……どうして)


 これまで、皇女として「慎ましさ」だけを期待されてきた。だが――、自分の「声」を前提にされたことは、一度もない。

 ルークはアリーシャの左手を取り、その手の甲へと静かに口付けた。そこだけが熱を帯びているようだった。そしてゆっくりと立ち上がり手を離す。


「――今日は、このまま休みましょうか。」


 声は低く、穏やかだった。


「あなたの覚悟が定まるまで、俺は――触りません」


 アリーシャは一瞬、言葉を失った。心が揺れていないわけではなかった。この人をまだ何も知らない。それでも――ここで背を向けたくはなかった。


 アリーシャはナイトドレスを静かに脱ぎ落し、一糸纏わぬ姿で、ルークの前に立つ。唇を噛みしめ、顔を上げる。


「……覚悟は、できています」


 その声は震えていたが、逃げなかった。ルークは、一瞬だけ息を呑む。――彼女が覚悟を決めたのならば、受け止めるのは自分の役割だ。ゆっくりと彼女の頬に手を添え、きつく結ばれた唇に、己の唇を重ねた。


 夜は、静かに更けていった。ただ、夫となる男を受け入れる、それだけだと思っていた。けれど、彼は一つひとつ確かめるようにしか触れてこない。まるで、わたくしが何に恐れ、何を受け入れようとしているのか――そのすべてを、何度でも確かめるように。最初から最後まで、慈しむような手つきで、ルークは触れていた。この手が無理に奪うためのものではないと、触れられるたびに少しずつわかってしまう。それが、かえってアリーシャの胸を激しく揺らした。

 痛みも確かに感じたが、それ以上に温もりに包まれているような感覚。この方にすべてを委ねたいわけでは、まだない。それでも、この方の前でだけは、怯えて閉じるだけの自分でいたくなかった。逃げずに受け止めたいと、初めて思った。

 身体が感情を置き去りにして、喜びを確かに感じた。

 それでも――この夜を境に、もう昨日までと同じ場所には戻れないのだということだけは、確かだった。


このエピソードのR編が、ムーンライトノベルズに掲載しています。アリーシャの心理描写を濃く描いてます。

大人の方はぜひご覧ください。

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