第二章-1 運命の夜
それは、あまりにも静かな出立だった。ケイネス・セレスティア王が地方視察へ向かう朝、王城はいつもと変わらぬ表情を装っていた。
だが、アリーシャの胸には、言い知れぬ不安が影のようにまとわりついていた。国王が城を離れることは滅多にないが、ケイネスは皇国の隅々まで、民の声を直に聞くため地方まで足を運ぶことも少なくなかった。それでも……
(どうか、兄様がご無事で…)
大聖堂での祈りは、いつもよりも長くなった。セレスティア皇国の平和と繁栄。そして、兄王の無事。それらを一つひとつ胸に刻むように祈る。
アリーシャは侍女を連れ、王城の門へと向かった。アリーシャには専属の侍女が二人いる。ネリーとアンナ、二人とも幼少期からずっとアリーシャに支えてくれている。その二人の後方、護衛騎士のエリアス・フェルナーが離れずついてくる。
馬車の前には、近衛騎士隊長はじめ隊員たち、同行する数名の貴族が控えている。その中一人にふとアリーシャの目が留まった。黒髪は短く切り、引き締まった体躯と清潔感のある装い。静かに、しっかりと地に足を付けた佇まい。赤みを帯びた茶色の瞳が、冷静に周囲を見渡している。 新興貴族であり、2年前に子爵位を授かったばかりの青年。
以前ケイネスから彼の話は聞かされていた。宰相の推薦で、王城勤めをしており何度か言葉を交わしたそうだが、いつでも冷静を保っており、広い視野を持っていると。功績をあげれば爵位を上げてもいいと言っていたが、目にするのは初めてだった。周囲が出立の緊張に包まれている中で、その人だけが妙に静かだった。――ルーク・アリスター
(…あの方がそうかしら。…感じのいい方)
不思議と好感を覚えた。
「アリーシャ、見送りに来てくれたのか」
近衛騎士隊長と行程の確認を行なっていたケイネスはアリーシャに気づいて声をかけた。アリーシャはケイネスのもとへと近づいた。
「兄様、此度の視察は二.三日で戻られると伺っております。近衛隊の皆様もおられますし、何事も無いとは思っておりますが、どうかお気をつけて」
「心配性だな。すぐ戻るよ」
そう言って笑う兄は、アリーシャの頭を撫でる。ケイネスにとっては9歳も年齢が離れており、ただ可愛いだけの存在の妹に心配されれば撫でずにはいられない。しかし、公衆の面前で、された方にしたら赤面してしまうのは当然であった。
「――兄様!幼子では無いのですから、おやめください!」
ケイネスの手を振り払うが、はははっ、と笑い返されてしまった。二人の周囲には暖かな雰囲気に包まれた。
「陛下、そろそろ出立のお時間です」
近衛騎士隊長のヴァン・クライブがケイネスへと声をかける。出立の用意は整ったということだ。ケイネスは馬車に乗り込むと、一団は視察へ向けて動き出した。アリーシャはなぜか言いようのない不安に胸を締めつけられる。思わず、馬車の窓に手を伸ばした。
「兄様……」
一瞬、ケイネスは振り返り、優しい眼差しを向ける。その光景が、最後になるなど…、この時、誰も思っていなかった。




