第一章 皇女の祈り
王城の奥深く、大聖堂には朝の静謐が満ちていた。
高い天井を支える白い柱、色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が、石床に柔らかな模様を描いている。
アリーシャ・セレスティアはその中央に跪き、静かに両手を組んでいた。
…これが、毎朝の日課。幼い頃から変わらぬ、わたくしの祈りの時間。
(どうか…セレスティア皇国に、平和と繁栄を)
声には出さず、心の内で唱える。
セレスティア皇国は大国に囲まれた小さな国だ。
北山連峰を背に頂き、自然豊かであったが、突出した産業や強みがあるわけではなかった。
大昔には大国であった歴史があるが、かつての威光は失われている。
今は中立の姿勢を守ることで辛うじて他国とのパワーバランスの最中に存続しているといえる。
ひとたび均衡が崩れれば、飲み込まれるのは容易いだろう。
だからこそ、祈らずにはいられなかった。
祈りを終え、ゆっくりと立ち上がる。
その横顔は、まだ18歳の少女のものだが、瞳には年相応ではない憂いが宿っていた。
大聖堂を出ると、回廊の先に兄の姿が見えた。
国王ケイネス・セレスティア。アリーシャのたった一人の兄であり、この国の柱。
朝の政務へ向かう途中なのだろう。
簡素だが品位ある衣装に身を包み、側近たちと歩いている。
「アリーシャ」
声をかけられ、アリーシャは足を止め、一礼する。
「兄様……おはようございます」
「おはよう。祈りが終わったのか」
微笑みを浮かべるその表情は、穏やかで、民に慕われる王そのものだった。
ケイネスは、民に近い目を持つ青年王だ。
上位貴族の前でも臆することなく意見を述べ、決して驕らず、常に国全体を見ている。
アリーシャは、そんな兄を心から尊敬していた。
「兄様、後程少しお聞きしたいことがあるのですがお時間頂いてもよろしいですか?」
そう伝えると兄王の表情が微かに曇る。
私が言わんとしていることをすでに察している顔だ。
「アリーシャ。何度も言うが、お前は……政治に関わらずともいい」
ケイネスは側近たちもいるこの場で、それを許すことはしなかった。
兄は優しい。
だからこそ先手を打って釘を刺してきた。
アリーシャが先日の朝議のことで気になるところがあったのだろうとわかっていた。
以前から、こっそりと政務の資料や議事録を見ていることを知っていた。
否定されるのもいつものことだ。
「お前は姫として、穏やかに生きればいい。男の領分に口を挟むな」
そう言われることは予想していたはずなのに、心の奥がざわめく。
それは、この国に深く根付いた思想。
女はおとなしく微笑み、男を立てよ。
政治は男の領分であり、女が口を出すべきではない、と。
「……はい、お許しください」
兄を失望させたくない。
そう思いながらアリーシャはその場を辞した。
足音が、回廊の奥へと遠ざかっていく。
その小さな背中を、ケイネスは憂いた目でしばらく見送っていた。
その日の午後、アリーシャは書庫にいた。
ここには皇国の歴史や地理、過去の議会での議事録などが残されている。
あまり人が来ないため、分厚い議事録を机に広げ、静かに頁をめくる。
表向きには許されていない行為だが、兄は暗黙のうちに黙認している。
知識を得ること自体は許してくれていた。
(けれど……議論の場に出ることも、意見を述べることも許されない。
今日みたいに質問することさえ)
それでも、知りたい。
国の現状を。民の暮らしを。
兄が、どんな重圧を背負っているのかを。
皇国の中枢にいれば、いくら政治の場から遠ざけられていたとしても、耳に入ってくることもある。
今、国内で二つの派閥が対立を強めていること。
他国の圧力には外交で対応していこうとする中立派。
圧力には軍事力を強化して対抗していこうとする右派。
ケイネスはじめ、皇国内の中枢は中立派が多数を占めているが、一部貴族では右派が増えてきている。
ケイネスは中立派・右派のバランスを取りながら、脆い均衡をなんとか保っていた。
文字を追う指先に、知らず力がこもる。
この国を愛している。
それは、紛れもない事実だった。
夜。
自室の窓から、王都の灯りを見下ろす。
静かな闇の中、遠くで鐘の音が鳴った。
(もし……わたくしが男であったなら)
考えてもしかたない、わかっている。
それでも、思わずにはいられない。
(もし、王子であったなら。
兄の隣に立ち、この国の未来を共に語れたでしょうか)
答えは出ない。
出してはならない。
だから、祈る。
今日も無事に一日が終わったことに。
明日もまた、皇国が平穏であるように。
それが…今のわたくしに許された、唯一の願いだった。




