再び訪れる、夜
その夜も、変わらずに繰り返された。
命を削るためだけに交わされる、ふたりの静かな儀式。
毒を含ませた短剣の刃が、ラグナスの肌を静かになぞる。
今夜の毒は、蛇から採られたもの。
血の凝固を妨げ、わずかな傷でも止まらずに流れ続けさせる。
そんな効果を持つ毒。
致命傷にはならない。
だが、確かにいつもよりも長く、血は溢れた。
白い肌を、赤が染めていく。
その色は、夜の闇の中でなお鮮やかで。
血が失われるごとに、彼の顔は少しずつ色をなくしていくはずなのに――
ラグナスの瞳には、新たな色が宿っていた。
イリナは、ふとその光に目を止めた。
それには、見覚えがあった。
ミレクトが、最期に彼女を見つめたときの目。
死にゆく間際でさえ、イリナを信じ、委ね、慈しむように見つめていた、あの光。
それとよく似ていた。
かつてイリナが、ラグナスに向けて望んだ、叶わぬ願い。
あの人の瞳に、自分という存在を“特別”として宿してほしいと、心のどこかで希っていた想い。
それが、そこにあるのかもしれない。
けれど、今
イリナの心は、何も動かなかった。
怒りも、悲しみも、悦びも。
かつて胸の奥を焼いたはずの感情のすべてが、今はただ沈黙していた。
目の前で命を削ることだけが、唯一の現実。
それ以外のすべては、もう遠い夢の残滓のように、掴もうとしても指の隙間からこぼれ落ちていく。
毒を含ませた刃をそっと置く。
まだかすかに赤を宿すそれは、静かに冷たい床に触れ、音もなく息を潜めた。
次に、イリナの指先が小さな瓶へと伸びる。
掌に収まるほどの、小さなガラス瓶。
中には、透き通るような水。
――花を生けていた水だった。
清らかに見えるその液体は、見た目とは裏腹に、確かに毒を含んでいた。
可憐な白い花弁に、毒を思わせる影など一切ない。
だがその花は、根から茎まで、すべてが猛毒を孕んでいる。
摂取すればまず、軽い吐き気と腹痛。
やがて鼓動は乱れ、脈は弱くなる。
意識は霞み、視界がぐらつき、最後には呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が、音もなく崩れていくように。
それは、静かに死へ向かわせる毒。
猛ることなく、苦しむこともなく、
まるで眠りに落ちるように命を奪う。
瓶を傾け、わずかな雫を、ラグナスの唇に垂らす。
甘い香りが、かすかに空気を揺らした。
この毒に気づく者は少ない。
目に見える凶器ではないからだ。
けれど確かに、それは彼の命を削っていく。
イリナは、ふとその花の花言葉を、思い出していた。
――再び訪れる幸せ。
皮肉にも、いまこの毒が与えるものは「終わり」なのに。
それでも、どこかでその言葉が、ほんのかすかに胸を打った。
“再び”
“幸せ”
それが誰に訪れるのか。
あるいは誰のための祈りなのか。
イリナには、もうわからなかった。
ラグナスの体は、静かに蝕まれていた。
けれどそれは、喉元を裂くような痛みでも、咆哮をあげる苦しみでもなかった。
ただ胸の奥に熱がこもり、指先に微かな痺れが広がる。
鼓動が浅く、細くなっていくその感覚は、まるで内側から溶けていくような不安定さだった。
けれど、死には至らない。
毒は確かに働いている。
血の巡りを鈍らせ、再生の力を静かに絡め取っていく。
だがラグナスの呼吸はまだ続いていた。
魔力の尽きかけた体を、細い糸で繋ぎとめるように。
イリナは、それを見つめていた。
感情はなかった。
ただ、変化の兆しを探すように、観察する目。
ラグナスの唇がかすかに動く。
その言葉は声にならず、息の中に沈んでいく。
それでも彼は拒まない。
刃を。毒を。イリナの手を。
イリナの視線が、ふと揺れた。
脳裏に浮かんだのは、あの白い花。
光の下で微かに揺れる、あまりにも可憐なその姿。
どこにも毒を思わせる影はなかった。
花弁は薄く、透けるように清らかで、
触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。
イリナは、その姿にカティアを重ねた。
清らかで、傷ひとつ知らぬようなその横顔。
誰かを殺す理由も、誰かを恨む理由も持たず、
ただ祈るように生きる、あの少女。
けれどその姿が、あまりにも無垢であるがゆえに、
いくつもの心を静かに壊しているのだと、イリナは今ならわかる。
まるで毒を秘めたあの花のように。
知らずに人を蝕むことがあるのだ。
善意で、祈りで、愛で。
イリナの手は、動かなかった。
毒の瓶は、置かれたままだった。
その蓋すら開けられることなく、冷たい空気の中に沈んでいる。
ただその夜、イリナは何もせず、ラグナスの傍らに座っていた。
音のない空間に、時間だけが静かに流れていく。
灯りも言葉もないまま、ただ互いの存在だけが確かにそこにあった。
ラグナスの青い瞳には、微かに熱が宿っていた。
それは発熱や苦悶ではなく、内からじわりと滲み出る体温のような、静かな光。
イリナはその瞳を見つめながら、
ふと、あの霧の夜を思い出していた。
研究という名のもとに、ミレクトの命を削っていた日々。
死に向かう体を観察しながら、
イリナはその中にラグナスの面影を重ねていた。
けれど今、目の前にいるのはラグナスでありながら、
その姿に、どこかミレクトの影が揺れて見えた。
記憶が逆流しているようだった。
過去と現在が交わり、どちらが誰だったのか、輪郭が曖昧になっていく。
“殺す者”としての自分の手だけが確かで、
それ以外のすべては、ただの幻に思えた。
この矛盾に満ちた夜のなかで、
イリナの心はただ静かに、深く沈んでいた。
夜はまだ終わりそうになかった。




