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聖女を愛した魔王は、私に死を望んだ  作者: 源泉


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刻まれていく影

魔力も、音も、外へ漏らさぬ独房。

世界から隔絶されたその場所に、イリナは久しぶりに足を踏み入れた。


最後にこの部屋を訪れたのは、ミレクトの葬送の日。

白い花を手向け、静かに彼を見送った以来だった。


今やこの場所に囚われる者はなく、見張りの兵の姿もない。

扉の軋む音も、誰に知られることなく、空気に溶けて消えていく。

閉ざされていた空間には、わずかな気配が残されていた。


ミレクトのものだ、とイリナは思う。


最期に触れた体温。

薄れゆく吐息。

その瞳に映っていた自分――

ただ一心に、イリナを見つめ、求めていた、あのまなざし。


足を止め、壁に背を預ける。

目を閉じれば、あの日の空気が静かに蘇る。


刃を滑らせた指先の震え。

滲む血の温もり。

穏やかに笑んだ彼の唇。


けれど――

今、この場所にいるのは、もう彼ではなかった。


ベッドの縁に腰を掛けているのは、ラグナスだった。


そこにあるのは、かつての魔王の威光ではない。

だが崩れてもいない。

肩の力を抜いたその姿勢には、静かな覚悟が宿っていた。


イリナは、深く青い瞳と髪を持つその男を見つめながら、思う。

――美しいまま、ここにいる。


視線を落とし、手にした短剣の重みを確かめる。

馴染んだはずのそれが、今はまるで異物のように、ひどく冷たかった。


ラグナスの表情は穏やかだった。

その眼差しにあるものが、哀しみか、安堵か――

イリナには、もう分からなかった。


けれど、ひとつだけ分かっていることがある。


この手で彼を殺すことは、

誰かの記憶に、彼を“永遠”として刻む行為になるのだということ。


それが彼の望んだ死であり、イリナが与える、たったひとつの贈り物。


静かに、空気が沈んでいく。

まるで、再び命が終わる準備が、部屋そのものに始まりつつあるようだった。


「時間がかかると思うわ。どれくらいか、私にもわからない」


イリナの声は、穏やかに落ちた。


ミレクトは、戦いの果てに捕らえられ、

ラグナスは、自らの意志でこの場に座っている。


どちらも、死へと向かうために。


「……構わない」


ラグナスは、短くそう答えた。

その声音に、焦りもためらいもなかった。



「ミレクトは……毎日、少しずつ傷の治りが遅くなっていったの。

魔力が尽きているせいだって、自分で言っていたわ」


イリナは、あの夜を思い出していた。


刃で肌を裂き、毒を流し、

ゆっくりと命の限界を探るように、彼の身体を削っていった日々。


決して一撃で終わらせることのない、

それは、緩やかな終焉の儀式だった。


「……それについては、考えてある」


ラグナスの声は短く、けれど確かに答えていた。


多くは語られなかった。

だがその身体には、確かに“消耗”の色がにじんでいた。

憔悴だけではない、深く根を張る枯渇の気配。



この独房は、魔力を遮断し、わずかに吸い取る構造で作られている。

魔力を血のように体内に巡らせ、肉体と精神を支えている魔族にとって、

この空間は静かに蝕む毒そのものだった。


ミレクトは、だからここで、すり減るように死んでいった。



回復も叶わぬほどに、魔力の尽きた身体。

最期のとき、あの笑顔の奥に宿っていたのは――


――人間としての、死。


イリナは、そっと目を伏せた。


あの一瞬、ミレクトは確かに“人”として終われたのかもしれない。

すべてを捨てて、ただ、イリナの手の中に還っていけたのかもしれない。


イリナが思考の中に沈んでいたその沈黙を、

説明を求める合図と受け取ったのだろうか。


ラグナスが、口を開いた。


「……魔力を溜める道具がある」

低く抑えた声だった。


「それを使えば、人に知られず、魔力を減らすことができる」


それは、誰にも悟られず、

王としての役目を崩さぬままに自身を“弱らせる”方法だったのだろう。


ラグナスは計画していた――

魔王である自分が、いかにして“死に近づく”かを。




イリナは、静かに手を伸ばした。

その指先に握られた短剣の刃を、

確かめるように――

ラグナスの手の甲へと、そっと滑らせる。


鋼の切っ先が触れ、

ひどく静かな音が空気の奥で震えた。


白い肌。

深い青の髪と瞳。

その中に、初めて――赤が、滲んだ。


鮮やかなその色は、まるで異物のように、

彼の身体から静かに零れ出す。

この世界に本来存在しなかったはずの「終わり」の色。

それが、確かに今――ここに在る。


魔族は、魔王を殺すことができない。

それはすなわち、ラグナス自身もまた、

自らの命を終わらせることができないということだった。


けれどイリナは、人間だ。

神の枷の外に立つ、ただ一人の“例外”。


この赤は、その存在がもたらした証。

魔王の血は、イリナの手によって、

はじめてこの世界に流れ落ちたのだった。



それは、あまりにも静かで、

あまりにも長い死の始まりだった。


短剣は深くは刺さない。

皮膚のすぐ下をなぞるように、

傷が癒えぬ程度の深さで、

赤をにじませていく。


音も、声もない独房のなかで、

刃の通る音はまるで幻のように、

空気の中へ、霧のように溶けて消えた。


魔族の身体は強靭だ。

たとえ傷を負っても、

それを支える魔力がある限り、再生してしまう。


けれど――

この部屋は、魔力を遮断し、じわじわと吸い取っていく。

再生の源であるはずの力が、少しずつ、静かに蝕まれていく。


加えて、彼の首に下げられた黒い石の飾り。

魔力を蓄えるというその石は、常にラグナスの内側から力を吸い取り続けていた。

まるで、生を封じるための祈りの道具のように。


イリナは、黙ってラグナスの傍に座る。

夜ごとに繰り返される、“死の儀式”。


短剣の刃は、

まるで祈るように、その肌をなぞる。

赤い線が、静かに咲く。

一線、また一線。


時には、毒が使われた。

人間の命を即座に奪うような猛毒でさえ、

ラグナスにとっては、舌先を痺れさせる程度の刺激でしかない。


けれど、イリナは諦めなかった。

その報告を受けた翌夜には、また別の毒を手にしていた。

探るように、確かめるように。

まるで死に届く階段を、ひとつずつ踏みしめるように。


そして、数日が過ぎた。


ラグナスは、何も言わなかった。

苦痛も、叫びも、怒りもない。

ただ、目を閉じ――

受け入れる者の静けさで、イリナの刃を迎え続けた。


彼の身体に刻まれた無数の紅は、

やがて癒えなくなっていった。

それは魔力の再生が追いつかぬことを示し、

終わりの気配が、ゆっくりと肌に宿り始めていた。


だが、削られていたのは彼だけではなかった。


刃を持つイリナの内側もまた、

確かに何かを失っていく。


夜を重ねるたびに、

イリナの瞳の奥に宿るものが、わずかに色を変えていく。

彼を見ているのか――

それとも、その向こうに、

もうこの世にいない男の面影を重ねているのか。


それは自分でもわからなかった。


ただ一つだけ確かなのは、

この、死へと向かう夜の繰り返しこそが――

ラグナスが願った“救い”そのものなのだということだった。



残り3話

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