悼まれるための死
夜の帳が深く城を包む頃、ラグナスは一人、イリナの前に立っていた。
炎の灯る室内。影が揺れ、床に落ちる彼の姿は、かつての威厳よりも、どこか儚さを帯びて見えた。
「イリナ」
低く、けれど迷いのない声だった。
「……私を、殺してほしい」
イリナは何も答えなかった。
ラグナスの言葉が意味するものを、最初から理解していた。 それでも沈黙は、何より強い拒絶のように場を支配する。
「いずれ私は、彼女を、カティアを失う」
彼の言葉は続く。淡々とした響きの奥に、確かに熱が滲んでいた。
「それでも私は生き続ける、何百年も。彼女のいない世界を、独りで歩き続ける。そんな未来に、私は耐えられそうにない」
「……」
「それが、ただの弱さだと言うのなら、笑ってくれて構わない」
イリナは、ゆっくりと顔を上げた。
ラグナスの目は、彼女を真っ直ぐに見ていた。
その瞳に宿るのは、かつて戦場に立っていた王の眼差しではない。
死に場所を求める、一人の男の色だった。
「……断るわ」
その言葉は短く、冷たく響いた。
けれど、そこにこそ彼女の深い迷いがあった。
「カティアが、悲しむ」
そう告げたイリナの声は、どこまでも静かだった。
「あなたが死ねば、彼女は泣く。きっと、それは取り返しのつかない傷になる」
ラグナスは黙っていた。 否定も、反論もない。
ただ、苦笑のようなものが、唇にうっすらと浮かぶ。
「……そうだな」
それからというもの、ラグナスは何度も、イリナのもとを訪れた。
そのたびに同じ言葉を告げる。
「殺してくれ」
「君にしか、頼めない」
日を追うごとに、彼の声は疲れていった。 かつて誰よりも凛としていた背が、少しずつ沈んでいくのが、わかった。
食事も、睡眠もまともにとっていないのだろう。 その頬は痩せ、目元の影は深くなるばかりだった。
そんな姿を前にして、イリナは次第に言葉を失っていった。
拒絶するたび、彼の顔から光がひとつ消えていく。
それでも彼は、毎日、確かに言葉を重ねてくる。
「君の手で終わりたい」
その言葉の向こうにあるものを、イリナは知っていた。
ミレクトの最期を看取った手で、今度はこの男の終わりを形作ってほしいと。
ラグナスは、そう願っているのだと。
沈黙の中、イリナの中で何かが揺らぎ始めていた。
愛した者の死を、この手に抱くことができるのか。
それは哀しみか。 贖いか。
あるいは癒えぬ記憶の上に、別の痛みを重ねる儀式なのか。
イリナは、答えを出せずにいた。
次の日もラグナスはイリナの元をおとずれた。
彼はひどく疲弊していた。
それは確かだった。
けれど、その背は決して屈していなかった。
言葉の端ににじむ理性も、崩れていなかった。
それが、なおさらイリナの胸をざわつかせた。
「……魔王である私の命は、魔族には奪えない。君にしか頼めないことなんだ」
低く落とされた声は、どこまでも静かだった。
その沈黙の底に、深く乾いた渇きのようなものが滲んでいた。
「……あの子に、私の死を刻んでほしい。悼み、想い、忘れずにいてほしい」
その言葉に、イリナの胸が微かにざわめいた。
――私に、死を託すというのではない。“彼女”の記憶に、残るための死を望んでいるのか。
「……ならば、カティア様に殺してもらえばいいわ」
冷たい声だった。
感情を押し殺した、淡々とした響き。
「望みどおり、きっと深く、記憶に刻まれる」
けれど、ラグナスは首を横に振った。
その動きには、穏やかで、優しすぎる拒絶が宿っていた。
「カティアの手を……汚したくはない。
彼女に“殺す”という重さを、背負わせたくないんだ」
それは、優しさだった。
イリナにも、それはわかっていた。
けれど同時に、それは告げられた宣告でもあった。
「お前の手は、もう汚れているのだから、さらに血を重ねても構わない」
――そう、言われた気がした。
イリナは、そのとき理解してしまった。
この人にとって、私は“殺す者”でしかない。
自らの手を穢さずに済ませるための、
都合のいい“道具”として、選ばれたのだと。
期待など、していなかった。
けれど、どこかで願ってしまっていた。
死を託されるという選択に、
ほんのわずかでも、私が“特別”だからだと信じたくなっていた。
それが、今。
粉々に砕け散った。
胸の奥に、ひびが走る音がした気がした。
「……そう」
低く、短く。吐き出すように。
イリナは、ラグナスの方へと視線を向ける。
その瞳には、波ひとつない凪があった。
なにもない、静かな絶望の色。
「わかったわ」
言葉は淡々としていた。
けれどその意味は、あまりにも重かった。
「あなたに、死を与えてあげる」
それは赦しでも、慈しみでもない。
ただひとつの“応答”。
壊れてしまった関係の、最後に残された唯一の“結び”。
ラグナスはその言葉に、ただ静かに目を閉じた。
その表情には、驚きも迷いもなかった。
まるで、ようやく救いに触れた者のような、
安らかな影が、その口元に差していた。
イリナは、その微笑を見ても、何も返さなかった。
その表情の奥に、自分の影などひとつも宿っていないことを――
もう、痛いほどわかっていたから。
それはすべて、カティアのためのものだったのだ、と
ようやく、はっきりと理解したのだから。
あと少し。




