祈りと静寂の葬送
独房は清められ、整えられていた。
あのときと変わらぬ空間。
けれど、そこに広がる空気だけは、静かに、確かに変わっていた。
石壁には香が焚かれ、淡い光が灯されている。
血の気配はもうない。
ただ、ひとつの命が終わったということだけが、空気の底に微かに残されていた。
ミレクトは、白布に包まれ、横たえられている。
あの瞬間と変わらず、眠るように穏やかな表情のまま。
まるで、微笑んでいるかのように見えた。
その場にいたのは、イリナ、ラグナス、そしてカティアの三人。
誰も声を上げなかった。
言葉を選ぶことが、ここでは無粋に思えた。
一輪ずつ、白い花を手に。
三人は順に、彼のもとへ歩み寄る。
最初に進み出たのは、カティアだった。
イリナとミレクトの関係も、
彼がどう死んだのかも、彼女は知らない。
この城に侵入し、命を脅かした魔族として投獄された情報しか与えられていなかった。
それでも、カティアの視線は澄んでいた。
赦しと慈愛に満ちた、まさに“聖女”の眼差し。
そのまま、彼女は白い花をそっと捧げ、胸元で手を組む。
短い祈りの言葉が、静かに空気の中に溶けていった。
「……最期に、イリナと出会えたことで……彼も救われたのでしょうね」
それは、噂に聞いた内容を信じた言葉だった。
イリナが彼のもとに通い、罪を悔い改めさせようとしていたという、
城の者たちが好意的に解釈した、善意の虚構。
だがその言葉がまったくの見当違いというわけでもなかった。
イリナは、静かに目を伏せたまま何も言わなかった。
けれどその胸の奥で否定は、しなかった。
ミレクトは確かに、救われていた。
それがどのようなかたちであれ、何によってであれ、
彼が最期に見せたあの表情が、それをすべて語っていた。
次に花を捧げたのは、ラグナスだった。
黙したまま、花を彼の胸元に置く。
その手つきは、まるで何かを託すように、慎重で、深かった。
彼は言葉を持たなかった。
ただ、ミレクトが残したものを見つめ、
その死が誰かの胸にどれほど深く残ったのかを、誰よりも知っている者として、
静かに頭を垂れた。
最後に、イリナが進み出る。
白い花が、手の中でわずかに揺れた。
けれど、彼女の足取りは迷わなかった。
花をそっと彼の胸の上に置く。
かつて命を奪ったその胸に、今、花を捧げる。
その指先は、あの日のように震えてはいなかった。
ただ静かに、やわらかく、彼の頬に、最後のひと撫でを与える。
その頬は、もう冷たくなっていたが、
彼の中にあったすべての熱が、イリナの心に、確かに残っていた。
ミレクトの死を見送ってからというもの、
ラグナスはふとした瞬間に、思考の淵に沈み込むことが増えた。
静寂の中、炎の揺らぎや風の気配を感じながら、
意識がどこへともなく漂っていく。
そんな時間が、いつのまにか日々のなかに溶け込んでいた。
その原因は、ひとつではなかった。
もう一つのきっかけは、
カティアが風邪で寝込んだ、あの数日間にある。
喉の痛み、微熱、浅い呼吸。
何の変哲もない、季節の変わり目に訪れる人間の病。
けれど、ラグナスにとっては初めて真正面から突きつけられた、
人間という種の命の“脆さ”だった。
それは、あまりにも現実的で、確実な未来を示していた。
カティアは、やがて死ぬ。
彼女の命が尽きたそのとき、
ラグナスは、“残された側”になる。
共に過ごす時間よりも、
彼女を失った後に生きる時間のほうが、遥かに長いのだ。
それだけではない。
カティアの命は、休戦の時を示す“砂時計”でもある。
彼女が生きている限り、戦はない。
だがその心臓が止まった瞬間からラグナスは再び、魔族の王として戦争の先頭に立つ。
人間の国を焼き、
カティアが命を賭けて守ろうとしたものを、
自らの手で壊していくのだ。
それは、あまりにも皮肉だった。
その未来の予感が、
彼の心に、ゆっくりと、けれど確実に黒い影を落としていく。
(……私に、それができるのだろうか)
その問いは、答えを求めるというよりも、
自らの中に澱のように沈殿していく感情の形だった。
それはカティア自身を貶めるに等しい行為ではないか。
彼女の“存在”そのものを裏切ることではないか。
そして、そうして魔族の未来を導くことが、
果たして正義と呼べるのか。
そんな迷いが、彼の中に確かに生まれ始めていた。
魔王という立場は、捨てることができない。
それは「王」としての責務以前に、
神に選ばれた者としての“役目”だった。
古くから語られてきた神託の理。
“その代の魔王が生きている限り、次の魔王は選ばれない”
魔族にとっては常識とも言えるこの理が、
強固な枷となって、ラグナスの背にのしかかる。
魔王が命を落とした後は、
数百年、あるいはそれ以上にわたり、
次の神託は下らない。
実際、ラグナス自身が選ばれるまでの間、
世界は長い“空白”に耐えるしかなかった。
魔族の神は、争いを糧に種としての強さを育てるという。
混沌の中で生まれた力を、
絶対的な存在。
すなわち「魔王」という一点に収束させ、
それによって魔族を統率させる。
それが、この世界の理。
魔王とは、ただ力を持つだけではならない。
知識、胆力、そして……選ばれるに足る“人格”。
神はそれらを見極め、選び出すという。
けれど。
ラグナスは、今となっては、その神託さえも破綻していると思わざるを得なかった。
彼自身の中に、
「魔王」としてあるべきものが、
少しずつ欠け落ちているのを感じていた。
魔族が抱える、漠然とした“人間への憎しみ”。
それは魔族という種を内から燃やす焔のようなものだった。
だがその火は、今のラグナスにはもう灯っていない。
気づいていた。
それは、カティアを目にしたあの日から始まっていたのだ。
彼女をこの城に閉じ込め、
言葉を交わし、
やがて心を通わせていくうちにその焔は確かに静かに、消えていった。
聖女、カティア。
その存在そのものが、
まるで魔族を内部から崩壊させる“呪い”のようにさえ思えた。
だがそれでも、ラグナスは彼女を拒めなかった。
神の選びし者であるはずの自分が、
神を裏切るように、人間の娘に心を囚われていた。
それは、皮肉にも神託の構造を壊す“病巣”そのものだった。
そして、それを誰よりも理解していたのが他ならぬラグナス自身だった。
先代の魔王は、人間の勇者によって討たれた。
さらにその前の代も、同じ末路を辿った。
けれど、ラグナスの代になってからというもの、
“勇者”を名乗る者の話は一度として耳にしていない。
たとえどこかで生まれていたとしても、
いまは休戦の協定のもと、
人間がこの城に攻め入る理由はどこにもない。
つまり、ラグナスの“死”は
どう考えても、カティアとの別れの“あと”に訪れる。
彼女がいなくなったあと、
誰もいない長い時を、ただ生き続ける未来。
その想像に、ラグナスは言いようのない虚無を感じた。
そして、その静けさのなかに、ある“欲”が、ふいに芽を出す。
――自分の死を、愛する者に悼んでほしい。
消える瞬間、その名を呼んでほしい。
残された誰かの心に、自分の不在が痛みとして残っていてほしい。
たとえそれが、癒えぬ傷となっても。
そんな欲望が、確かに胸の奥に宿っていた。
だが、魔王である自分は、魔族の手で殺されることはない。
それは魔族の神による祝福。
となれば、自分の最期は、
永く、静かで、誰にも知られないまま、
忘れられていく“消失”なのだろうか。
そのとき、ラグナスの脳裏に浮かんだのは、ミレクトの最期だった。
安らかで、満たされた表情。
この世を離れることに、悔いすらない微笑み。
そして、それを見つめていたイリナの顔。
深く、深く、彼を胸に刻み、
何も言わずに、ただ静かに涙を流していた。
その光景が、妙に鮮明に蘇った。
誰かの中に、永遠に残る死。
想いの深さが、消えていく命に“重み”を与える。
それは、死すらも羨ましく思えるほどに、美しかった。
ラグナスは、静かに息を吐いた。
自分の死が、誰かの心に爪痕を残す未来。
それを望んでしまうことが、罪であるような、
けれど否定できないほどの本音であるような――
そんな曖昧な感情が、胸の奥に沈んでいた。




