二つ目 (2)
詰み上げられた書類を片付けながら、リーリエは眉間にしわを寄せた。
「王妃様、お休みになられては? 次の会議まで間がありますし」
側近の青年が、心配そうに眉根を寄せた。
「駄目よ、仕事が溜まっているもの……晩餐会の準備は?」
「進んでおります」
「ドレスを選ばなくてはね。隣国の将軍は何色がお好きかしら」
「……王妃様、」
側近の表情に、リーリエは苦笑いをこぼす。
「大丈夫。カイブツさんの分まで働くと言ってカイブツさんに玉座を与えたのは私だもの」
「ですが……お耳をお借りします。王妃様、お言葉ですが」
側近は声を潜め、リーリエに耳打ちする。
「彼のことを良く思っていない大臣も多く、」
「当然じゃない」
「いえ、その、会議の場にあの方がいることで、王妃様の意見に口を出しづらいと……」
「私が、彼を後ろ盾にしていると? そんなことあのカイブツはしてくれないわ」
「しかし、大臣様はそう見ていません」
側近の言葉に、リーリエは唇を噛む。
「……あの方がもし何もしてこないと分かれば、王妃様が軽んじられる可能性も」
「あの方は優秀な案山子よ。それ以上でもそれ以下でもない。あの方と私は夫婦だけれども、あの方の脅威がなくなったときに私まで軽んじられる云われはないわ」
リーリエは机に両手をつき、身を乗り出した。側近は身を引き、「ご無礼を」と頭を下げる。椅子にやや乱暴に座り直し、リーリエは頬杖を付いた。
国王の仕事は、書類上の国政だけではない。戦争の後始末、貴族との付き合い、王都の統治、軍備、地方の視察、他国との外交。王妃には、その他国との外交に含まれる晩餐会で、他国の将軍や王を接待するという仕事がある。
カイブツの一方的な蹂躙で終わった戦争の後始末は、他国との条約を結ぶことから始まった。姫として国政に触れて来てはいたが、法のことにはまるで疎かったリーリエは、その仕事の大部分を大臣達に委任する形になっていた。
「……しんじゃう」
机に突っ伏してリーリエは呻く。机に積み重なる書類の数は日に日に増していた。
ふわ、と甘い香りがしてリーリエは顔を上げた。目の前に、カップが差し出されていた。受け取って中を覗けば、たっぷりと湯気の立つホットチョコレートが置かれている。
「あ、ありが……カイブツさん!?」
差し出していた相手を見上げて、リーリエは思わず声を大きくした。カイブツは「ふん」と鼻を鳴らし、窓枠に寄りかかって自分のカップを傾ける。
「あ……何だか、お久し振り、ですね……」
「お前が王妃になってひと月だ。……王と王妃の兼任などすぐに音を上げると思ったが」
「そうはいきません。約束ですから」
「……そうか」
「あ、カイブツさん、今日の会議は三の刻からです。居眠り、今度はしないでくださいね?」
「善処する」
カイブツが視線を逸らし、期待できないな、とリーリエは溜息を吐いた。浮かべていた愛想笑いも引っ込んで、書類に向き直ってカップを置く。
「小娘」
「何です? すみませんが、今忙しくて……」
「書記官を一人借りたい」
やや苛立ったリーリエの言葉を気にする様子もなく、カイブツは言った。
「……はあ、ご勝手に」
リーリエはやや投げやりにそう言った。
頭が痛くなるような書類を一つ一つ片付けていると、時計の針が異様に速く感じられる。カイブツが出て行ったのはどれほど前だったか。取り急ぎの書類をまとめて、リーリエは側近に引っ張られて会議室へと向かう。
ああ、自分の方が寝てしまいそうだ。椅子に座って険しい大臣たちの顔を見上げながら、リーリエは目を擦った。
「……では、本日の会議を始めましょう。議題は――――」
議長の声が遠くなり、いけない、とリーリエは自分の頬を叩いた。
「――――と、今季の農民への税金はこのようになっております。王妃、ご意見を」
「え……あ、はい……えっと、これは昨年と同じということですけれど……戦で田畑を焼かれた者達には無理なのでは……」
「いいえ、このひと月の調査で可能であると結論付けたうえでの案です」
「……はあ、」
でも、と言おうとして、言葉が出ずにリーリエは口をつぐんだ。確かにこのひと月自分は城に引き籠って仕事をしていた。もし現地を見て可能だと結論付けられたのならば、それは正しいのでは――――
「では、この案は成立ということで」
「待て」
遮ったのは、低い声だった。会議室に即座に緊張が走る。
「……国王陛下?」
椅子に座って頬杖を付いていたカイブツが、ゆっくりと、机に置かれた紙に手をやった。ひと月沈黙を守り続けたカイブツの行動に、大臣たちの顔色が変わる。
「……小娘……王妃の言う通りだ。この数値が昨年と同じならば見通しが甘い」
「え……いや、しかし」
「調査と言ったな。どのような調査をした」
カイブツの鋭い視線が、発言をした大臣に向く。
「それは、その……敵軍に焼かれた村へ赴き、そこで以前のような生活が戻ってきていると確認したということで、」
「敵軍はまさかご丁寧に田畑だけを荒らしたわけではあるまい。家、家畜、水路、倉庫の備蓄に農機具。畑があれば農業ができる訳ではない。分かっておろうが? 冬の備えどころか全てを失った農民に昨年と同じだけの税を払えと?」
「しかし、税を軽減するにも前例のないことで」
「例がなければ作れ。今、ここで」
たん、とカイブツの指が机を叩いた。
「……それと」
カイブツはちらりとリーリエに視線を向け、足を組んで背もたれに体を沈めた。
「王妃を与しやすしとして侮るのは勝手だが、ここにいる小娘は、お前達の半分も生きていない。だがこのひと月国を支えている。……国王の仕事と王妃の仕事を一手に担い、ひと月経っても愛想笑いができる猛者だけがこの小娘を嗤え」
カイブツの言葉に、リーリエは驚いたようにカイブツを見上げた。
「……ひと月も頑張ったのだ、ワシとて褒美くらいくれてやる」
カイブツはリーリエに小声で言うと、ばん、と机を叩いて立ち上がった。
「ワシはこの王妃に願われてこの玉座を貰い受けた。ならばせいぜい王らしくしてやるとも……次の会議からワシは容赦をしない。忘れるな。ワシは神々に呪われているかも知れんが、粗野で暗愚で知恵のない獣ではない」
青ざめた大臣達の顔をゆっくりと見回し、カイブツは机についていた手を持ち上げた。
「期待しているぞ人間ども。精々この王を案山子にしようと足掻くがいい」
会議が終わり、カイブツは真っ先に会議室から出て行った。会議を記録していた書記官の一人が、慌ててその後を付いて行く。
「国王様、記録をご覧になりますか?」
「要らん。晩飯まで図書館に行く。案内せい」
「はい」
書記官はずれた帽子を直し、早足でカイブツの後を歩いていた。リーリエは重い体を椅子から持ち上げると、その背を見送り、唇を噛む。
「王妃様、その……」
「あ、ああごめんなさい。まだ仕事があったわね」
「いえ、本日の仕事はおしまいになっています」
「えっ?」
「すみません、国王様の命令で、この後は図書館に来るようにと……」
その言葉に、穏やかだった心に一気にさざ波が立った。足早に図書館に向かうと、薄暗い図書館の中に、白いカイブツの姿は浮かんでいるように見えた。
「来たか、小娘」
分厚い本を積み重ねたものを軽々と持ち上げ、カイブツは本棚の間を縫って机へと向かう。リーリエはつかつかとカイブツに近付いた。
「……会議でのこと、まず感謝します」
「ん? ああ」
「ですが、助けてと願った覚えはありませんし……あれではまるで私があなたを利用しているようではありませんか。失礼ですが、案山子は案山子であってくれればいいんです」
リーリエの噛み付くような言葉に、カイブツの傍らにいた書記官が青ざめる。だがリーリエは構わず続けた。
「いいですか。私は忙しいとは思っていましたけれど、決して無理をしてはいませんでした。ああしてあの場で庇われては私が無理をしていると言うようなものではないですか」
「気の強い小娘だな」
「ちゃんと聞いてください!」
「聞いている、聞いている。お前は少し休め」
「だから無理はしていないと」
「ワシにはワシの意志がある。ワシはお前の付属品でもなければ物言わぬ案山子でもないぞ小娘」
カイブツはリーリエの言葉を遮った。そして、大きな手でリーリエの顔を掴む。
「お前に願われて動いたのではない。勘違いするな。ワシは王の真似事をしてやっているだけだ。お前がワシに人間の真似事をさせて、結婚なぞさせて、玉座を与えたから仕方なくな。お前が三つ目の願いを言わないようだから、動いてやったのだ」
分かったか。そう念を押してからカイブツはリーリエを離した。頬を撫で、リーリエはぽかんとしてカイブツを見上げる。
「分かったら黙ってそこに座って本を読め。口に出してだ」
「はい?」
「ワシは字が読めん」
カイブツの言葉に、リーリエは目を丸くした。
字の読み書きを覚えたカイブツは、本格的に国王としての仕事を開始した。リーリエの執務机に詰み上げられていた書類は全て、新しく用意されたカイブツの執務机に移った。それを淡々と片付けるカイブツの隣に座り、リーリエは手持無沙汰になって刺繍をしていた。
「……暇になったというのに不満そうだな」
「何だか情けをかけられた気分です」
「事実情けをかけてやったんだ。驕れ。このワシを、契約の指輪に願ってもいないのに動かしたんだ」
「何だか小馬鹿にされているようで嫌です」
「そうか」
承認するだけの書類に判を押し、書類をひと山片付けてカイブツは立ちあがる。
「どちらへ?」
「視察だ」
「えっ」
「城下に行ってくる」
カイブツは窓を開いて窓枠に足をかけると、思いだしたようにリーリエを振り返った。
「来るか?」
「へっ?」
「ああ、そうしよう」
カイブツはリーリエの返事を聞かず、その腰を掴んで肩に担ぐと、そのまま窓から飛び出した。
ベッドの上で、リーリエはカイブツの上に座ってその両手を掴んでいた。その下で仰向けになり、カイブツは苦々しい顔でその手を押し返そうとしている。
「お前には恥じらいというものが無いのか小娘」
「夫婦ですから」
「ワシとお前では子は成せんと言ったであろうが……おい待て待て待てその細腕の何処にそんな力が」
「夫婦! ですから!」
「世継ぎなら養子を貰って来い!」
「そういう問題じゃありませんから!」
リーリエが押し勝って、カイブツの両手がベッドに押し付けられる。
「……夫婦の務めは、果たさないと……私は王妃なんですから」
「……小娘」
カイブツが溜息をつき、両手をベッドの上で大きく回す。リーリエはそれに振り回され、カイブツの体の上に倒れ込んだ。
「きゃあっ!」
「お前は役目に縛られ過ぎだ」
唐突に、優しい声音でカイブツが言う。
「……国の為に命がけで岩山を登り、国の為に神々に呪われた存在と契約し、国の為に数少ない願いを使い、国の為にワシに身を捧げ……立派な姫だ。立派な王妃だ。……だが、さぞかしつまらない人生であろうな」
リーリエは驚いたように息を飲んだ。背中を優しく撫でさするのは、紛れもなくカイブツの手だ。
「……昔、お前のようなご立派な王がいた。お前が好きな英雄アスランとやらだ……嗚呼、あいつに憧れているのならばお前は立派な王妃になれるだろう。女王になれるだろう。……だが、ただの小娘にはなれんだろう」
「……ただの、私……?」
顔を上げると、カイブツは目を閉じ、「ああ」とだけ答えた。
「……一つ、お前が聞きたい話をしてやろう。それを子守歌に寝るといい」
カイブツが身を捻り、リーリエはベッドに横になる。
「……じゃあ、その指輪の話を」
リーリエは、カイブツの手――――その白い指にはまっている銀色の輪を指差す。同じデザインで、大きさが異なるものはやはりリーリエの手首にはまっていた。
「いいだろう……あの牢に入って間もないころの話だ。一人の女神が、ワシを訪ねてきた……牢に入る前に一度だけ会ったことがある女神だ」
リーリエにシーツをかけ、カイブツは静かに語り出す。
「ワシは世界の終末、天地と冥界の境界が崩れて再び創造が始まるまでの混沌、その日が訪れるまでただあの岩山を眺めているようにとあそこに閉じ込められた。それを憂えた女神が、この指輪を神の祝福として置いて行った……神々がワシをあそこに縛り付けておく呪いから、ひとときばかり逃れるように」
リーリエは黙って聞いていたが、カイブツの声は次第に小さくなり、それと共に瞼が重くなってきた。
「……全てを呪って怪物になり果てたワシに、救いが訪れるように」
さりっ、とカイブツの指先がリーリエの髪をなぞる。リーリエは既にほとんど眠りに落ちていた。
「だから……ワシは、束の間の自由を与える契約者を、優遇する。あの女神の祝福が、ワシを永遠の退屈からしばし引き剥がす。……それだけで救いだ」
最後の一言が呟かれる頃には、リーリエは眠っていた。カイブツは静かに身を起こし、乱れていた服を直してベッドから立ち上がる。
「……だから、お前は俺を愛そうなどと思わなくていい。自分の願いの為に、俺を利用すればいい」
囁くような声は、衣擦れの音にかき消えていった。