二つ目 (3)
額に何かが触れた気がして、リーリエは目を醒ました。ゆっくりと視線を巡らせると、朝日が差し込んできているのが分かる。窓際に、カイブツが立っていた。
「……カイブツさん」
「起きたか。……おはよう」
「あ、はい、おはようございます……」
そう目を擦って、リーリエは顔をあげ――――息を飲んだ。
精悍で野性味にあふれながら、理性的で穏やかな、そんな青年が、そこに立っていた。確かにカイブツには違いない。だが、まるで別人のように、その姿から目が離せなくなった。
「……何だ小娘」
怪訝そうにカイブツが言って、リーリエははっとして目を逸らした。
嗚呼、そこに立っているのはカイブツなのだ。神々に呪われ、敵国の幾千の兵を蹴散らすような。だというのに、自分は一度も彼を恐れたことはない。それは契約をしている立場故でもあろうが――――
「カイブツさんは、優しいんですね」
やはり、彼の気質にあるだろう。
「……優しくない」
ふい、とカイブツも視線を逸らした。
「優しかったらカイブツになぞなっていない」
「えっ?」
カイブツは手早く着替えると、さっさと部屋を出て行った。
「カイブツになった……つまり、昔は違った……?」
リーリエは口元に手を当てる。
カイブツが何者かは、英雄の抒情詩にある。そしてカイブツが持つ契約の指輪については、あらゆる伝承を集めた歌集にある。カイブツは不老不死で、人々を脅かし、気まぐれで村を襲った。そうしているうちに力を増して、それを恐れた神々が大英雄アスランに討伐を命じ、アスランは神の祝福を受けた剣で、決して消えない傷をカイブツに刻んだ。力を削られたカイブツは牢に閉じ込められ、人間と契約する時以外は――――
「王妃様?」
背後からかかった声に、はっとしてリーリエは立ちあがる。着替えを持った女中が、怪訝な顔をして立っていた。
着替えをしながら、リーリエはまた俯いて考えを巡らせる。
あの牢で見た、黒い液体。生臭さ。あれが、治らない傷が腐ったものだろう。痛覚があるのならば当然その痛みが続くのだ。いっそ腐りきって死んでしまえば楽だろうが、彼は不老不死で、あの牢にいる間決して死ぬことは叶わず、傷は腐り続ける。
『お前の願いを叶えるまでの間、ワシは牢から自由になれる。ワシの報酬はそれだけだ』
確かにカイブツはそう言った。
――――ならば、その僅かな自由の時間くらいは。
廊下に出ると、そこでカイブツは待っていた。リーリエは手を伸ばし、組んでいたカイブツの手を掴む。
「……何だ」
「いいえ、何でも」
カイブツが歩き出し、リーリエはカイブツの腕を抱え込んだ。
早々に仕事を片付けた午後、リーリエを小脇に抱えてカイブツは城下に降りていた。
「……カイブツさん」
「何だ」
「この抱え方止めてくれませんか?」
リーリエは腰を抱えられていて、その爪先はずるずると引きずられている。荷物のようにリーリエを抱えるカイブツの姿に、怪訝な視線も集まっていた。
「……ふむ。ならこうか」
「ひゃっ!」
ぐるん、と体が回転して、軽々とリーリエは舞い上がる。そのまま、腰と両足を支えられて横抱きにされた。
「これなら良いな」
「お姫様抱っこじゃないですかー!」
リーリエはばたばたと腕を振りまわす。
「歩きますからー!」
「また興味のあるものの前で一々立ち止まられては敵わん」
カイブツの言葉に、リーリエはふくれっ面になってふいと顔を背けた。
「……いいじゃないですか、たまのお出かけなんですから」
「視察だと言っておろうが。これも仕事だ」
「仕事、仕事って。少しは妻を顧みてくれてもいいんじゃないですか」
少し拗ねたようにリーリエが言うと、カイブツは鼻を鳴らした。
「お前が望んだから結婚してやっただけだが」
「……やっぱり、嫌ですか?」
上目遣いで、探るようにリーリエはカイブツを見上げた。
「契約の内容に関してワシは何の感情も持っていない。願われたからやる。それだけだ」
「……カイブツさんは、願うこととかないんですか?」
リーリエの言葉に、カイブツの目が一瞬揺らぐ。だが足は止めず、リーリエを抱きかかえたまま黙々と人ごみの中を歩いていた。
「……誰に、何を願うという」
「わ、私に! 契約で、私ばかり願いを叶えてもらうのも、」
「そういう契約だ。ワシはあの牢から出ていられる。それだけでいい」
「でも……私の願い以上のことを、カイブツさんはしてくれています」
リーリエは怪物を見上げ、その服を掴んで真剣な表情になった。
「私の願いは、戦争を終わらせること、そしてカイブツさんと結婚することです。カイブツさんを案山子にしようとしました。……でも、あなたは王になってくれた。そして、私を……救って、くれました。姫や王妃という役割以外の私でいられる時間なんて、ありませんでしたから」
ずっと忘れていた、役割を持たないただの自分。姫として国を思い、王妃として国を支える。それは正しいことだ。そのために頑張ることはできる。必死になることもできる。自分を犠牲にだってできる。だが――――ふと、頑張れなくなる時が来る。
倒れ込んでしまいそうになった自分を、このカイブツが受け止めてくれたのだ。
「……小娘」
「はい」
カイブツの視線は遠く、都を囲う壁の向こうを向いていた。リーリエはその視線を辿るが、首を傾げてまたカイブツを見上げる。
「お前の三つ目の願いを叶えるまで、ワシはあの牢には戻らん。だが契約が終われば全て終いだ。ワシはまた牢に戻り、来るかも分からん次の契約者を待つ」
ふっ、とカイブツの口元が笑う。
「ワシに情を移させるな」
それは、自嘲するような、涙を堪えているような――――酷く人間臭い笑みだった。
「……カイブツさんは、私を好きになってくれますか?」
「情を移させるなと言ったであろうが」
「わっ!?」
カイブツはリーリエをまた小脇に抱え直すと、やや足を早めて歩き出した。
「……だって私は好きですもん」
引きずられながら、リーリエは唇を尖らせた。
嗚呼、好きだ。口に出して確信した。彼の正体が何であろうと、例え契約で作られた関係だろうと。
このカイブツが、自分は好きなのだ。




