第19話:原因不明の高熱と、シキの分析結果
その日の朝の教室は、いつもよりずっと静かで、ひどく息苦しかった。
数日前まで学園を覆っていた「原因不明の貧血事件」の空気は、あの日、俺が異界の図書室で吸精鬼どもを全滅させたことで完全に消え去っていた。
クラスメイトたちはすっかり健康的な顔色を取り戻し、「最近、なんか空気美味しいよね」などと呑気な会話を交わしている。
だが、日高清春の心の中には、鉛のように重い不吉な予感がどっしりと居座っていた。
「……遅い」
清春は、自分の席からチラリと、教室の入り口付近を見た。
いつもなら、登校するや否や「おっはよー、キヨッち!」と無駄に大きな声を上げ、甘い香水を漂わせながら背中に飛び乗ってくるはずの悪友。
猫宮珠希の姿が、ホームルームの開始五分前になっても見当たらないのだ。
彼女は遅刻の常習犯ではあるが、それでも朝のチャイムが鳴るギリギリには、パンを咥えながらでも滑り込んでくるのが日常だった。
しかし、今日に限って、彼女の持つあの「陽だまりのような、どこか野性的な熱」の気配が、学園のどこからも感じられない。
「…………」
視線を教室の前方に移すと、図書委員の八束綾が、自分の席に座ってじっとこちらを見つめていた。
分厚い眼鏡の奥の瞳は、清春と目が合った瞬間、とろんと熱っぽく濁り、彼女の頬がサァッと赤く染まる。
彼女は自分の手首(昨日、清春の袖を握りしめていた手)を鼻先に近づけ、スーッと深く息を吸い込んでは、恍惚とした吐息を漏らしている。
完全に、清春の「匂い」に脳を焼かれた発情状態だ。
昨日から、彼女の清春に対する視線は、もはや「クラスメイトを見る目」ではなく「自分の命綱(精神安定剤)を監視する目」へと変質してしまっていた。
事なかれ主義の平穏な日常は、すでに内側から腐り落ちている。
それに加えて、この胸のざわつきはなんだ。
ガラガラッ、と教室の扉が開き、担任の教師が入ってきた。
「えー、席につけ。出欠を取るぞ。……あー、今日は猫宮が欠席だ。朝、家の人から連絡があってな。昨日の夜から、原因不明の急な高熱を出して倒れたらしい。まったく、あいつは普段から遊び歩いてるから……」
教師の事務的な報告が、清春の鼓膜を冷たく叩いた。
「……っ」
高熱。原因不明。
その言葉を聞いた瞬間、清春の心臓が、ドクン、と嫌な音を立てて跳ね上がった。
昨日の放課後、家庭科室での彼女の言葉がフラッシュバックする。
『今夜、あたし一人で潜入配信やろうと思ってんの!』
『絶対バズると思わない!?』
「まさか……」
清春は、机の下で両手を強く握りしめた。
嫌な汗が背筋を伝い落ちる。
あの旧校舎には、昨日まで吸精鬼の群れが巣食っていた。それは俺が殲滅した。
だが、シキは確かに言っていた。「防衛本能を刺激され、より強大に凝縮された特級の怨念が眠っている」と。
あいつは、本当に行ったのか。
あの無邪気な好奇心だけで、本物の地獄の蓋を開けてしまったというのか。
午前中の授業が、全く頭に入ってこなかった。
ノートの文字がミミズの這った跡のように歪んで見える。
昼休みのチャイムが鳴るや否や、清春は弁当にも手をつけず、誰にも見つからない旧校舎との渡り廊下の陰へと駆け込んだ。
「シキ!」
清春はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を強く叩いた。
『はい、マスター。心拍数の異常な上昇を検知。猫宮珠希の欠席に関する情報照会ですね?』
画面が点灯し、緑色の波形が冷徹に揺れる。
「あぁ。あいつ、昨日本当に旧校舎に行ったのか? 高熱って、ただの風邪じゃないんだろ!?」
『推測の通りです。彼女の症状は、医学的なウイルス感染などではありません。極めて強力な「呪い」による、魂の腐敗と肉体の強制シャットダウンです』
シキの合成音声は、どこまでも平坦で、だからこそ恐ろしかった。
『昨夜の午前零時。猫宮珠希の動画配信アカウントから、突発的なライブ配信が開始された痕跡を確認しました。しかし、配信は開始からわずか数分後、旧校舎の奥……立ち入り禁止の特別教室の前で、深刻な電波障害と霊的磁場の乱れによって強制切断されています』
「なんだって……」
『切断直前のキャッシュデータをサルベージしました。音声のみですが、再生しますか?』
「……再生しろ」
清春がゴクリと息を呑むと、スマホのスピーカーから、ザザザッというひどいノイズ混じりの音声が流れ始めた。
――『……ここ、だ。……だめ。ここを開けちゃ、絶対にだめ……っ』
珠希の、何かに操られているような、虚ろで怯えた声。
続いて、古びた扉が、ギィィィィッという耳障りな音を立てて開かれる音。
――『ひっ……!? いや……っ、来ないで……! 助けて、誰か……っ!』
その絶叫を最後に、グチャリ、という気味の悪い水音が響き、音声は完全に途絶えた。
「…………っ」
清春は、胃の奥からせり上がってくる吐き気を必死に飲み込んだ。
あの明るくて、いつも無遠慮に距離を詰めてきて、俺の作ったお菓子を誰よりも美味しそうに食べてくれた少女が。
暗闇の中で、得体の知れない化け物に首を絞められ、絶望の中で意識を失った。
『分析結果を報告します。彼女が封印を解いたのは、かつてこの土地で非業の死を遂げた無数の魂が癒着して生まれた、特級怨霊「餓鬼の揺り籠」です。……彼女は今、その怨霊から放たれた強力な呪いの毒を体内に注ぎ込まれ、魂を少しずつ消化されている状態です』
「消化って……。じゃあ、あいつは今、生きたまま喰われてるってことか!?」
『概念的にはその通りです。高熱は、彼女の肉体が呪いという名の猛毒を排出そうと、必死に免疫反応を起こしている証拠です。しかし、人間の力では到底抗いきれるものではありません』
「御子柴は! 生徒会長は動いてないのか! あいつ、退魔師の家系なんだろ!?」
清春は、すがるような思いでシキに問い詰めた。
『御子柴天音は事態を把握し、昨夜から旧校舎の完全封鎖を行っています。しかし、特級怨霊が形成した強固な結界を外部から破壊するには、彼女の「犬神」の力をもってしても、最低でも数日の時間を要するでしょう』
「数日……」
『はい。そして、それが問題なのです。……マスター。猫宮珠希の魂が呪いに耐えきれず、完全に融解して生命活動が停止するまでのタイムリミットは、現在のバイタル低下速度から計算して……残り、四十八時間です』
四十八時間。
シキから告げられたその数字は、あまりにも短く、無慈悲な死刑宣告だった。
「四十八時間って……明後日には、死ぬってことじゃないか……」
『御子柴天音の結界破壊が間に合う確率は、十パーセント未満。事実上、猫宮珠希の死は確定事項と言えます。……推奨アクション。マスターはこれまで通り「事なかれ主義」を貫き、クラスメイトの不幸な病死を悼む準備をすることです』
「……ふざけるな」
清春の口から、低く、震える声が漏れた。
事なかれ主義。
そうだ、俺は他人のトラブルには巻き込まれたくない。
自分の平和な日常を守るためなら、多少の犠牲には目を瞑って、息を潜めて生きていくと決めていたはずだ。
あいつが勝手に心霊スポットに行って、勝手に呪われたんだ。俺の責任じゃない。
俺が助けに行かなくても、誰も俺を責めはしない。
そう自分に言い聞かせようとした、まさにその時だった。
ドクン!!
清春の下腹部の奥底で、泥のように重たく、そして煮えたぎるような熱が爆発した。
――ふざけないで。
脳髄の最も深い場所から、鈴を転がすような、酷く冷酷で、サディスティックな女の声が響き渡った。
――私の許可なく。あの騒がしい小動物を、壊そうとしている泥濘のカスがいるというの?
清春の体温が、一気に急上昇する。
背筋にゾクゾクとするような悪寒と、強烈な「快楽」にも似た万能感が駆け巡る。
それは、大妖怪『白鐘の姫』としての、極限の「縄張り意識」と「独占欲」だった。
猫宮珠希。
いつも自分の作ったお菓子を嬉しそうに食べ、無防備な胸を押し付け、甘い匂いを振り撒きながらすり寄ってきていた、あの生意気で愛らしい雌。
自分がいつか、その柔らかな首筋に噛みついて、自分の匂いでドロドロに染め上げてやろうと、無意識のうちに「唾をつけていた」獲物。
それを、どこぞの薄汚い怨霊どもが、勝手に手を出して、勝手に喰い殺そうとしている。
許せるはずがない。
神のような美しさと力を持つ、最恐の捕食者としての傲慢なプライドが、その事実を絶対に許容しなかった。
「……あぁっ、くそっ、熱い……っ!!」
清春は、壁に背中を預け、自らの胸を強く掻き毟った。
制服のシャツが乱れ、その下にある肌が、まるで高熱を出したように赤く上気している。
理性が、男としての「逃げたい」という恐怖が、女の妖怪としての「蹂躙したい」という強烈な欲求によって、塗り潰されていく。
あの怨霊どもを、塵一つ残さず氷砕してやりたい。
そして、呪いに侵されて息も絶え絶えになっているあのギャルの唇を塞ぎ、私の甘い猛毒で身体の内側から直接「消毒」してやりたい。
恐怖と快楽で泣き叫ぶ彼女を組み敷いて、二度と私以外の何者にも触れられないように、永遠の首輪を刻み込んでやるのだ。
『マスター。脳内ホルモンの異常分泌を確認。テストステロン値が急低下し、代わりに大妖怪特有の「発情」および「支配欲」の数値が臨界点を突破しようとしています』
シキの音声が、どこか楽しげな響きを帯びて脳内に届く。
「……黙れ。……分かってる」
清春は、荒い息を吐きながら、血走った目で窓の外の旧校舎を睨みつけた。
事なかれ主義の俺は、ここで死んだ。
四十八時間。
生徒会長の退魔術が間に合わないなら、俺が、俺の中の『化け物』を解き放って、あの怨霊ごと旧校舎を力でへし折るしかない。
「……シキ。今夜だ」
『今夜、ですね。推奨アクションへの変更を受理しました。夜間潜入ルートの策定および、御子柴天音の結界のバイパス経路を検索します』
「あぁ。……あいつ(猫宮)の首輪は、俺のものだ。……勝手に持っていく奴は、絶対に許さない」
清春の口からこぼれたのは、もはや平凡な男子高校生のセリフではなかった。
それは、獲物を奪われた女王が発する、絶対的な殺意と執着の宣言。
夕闇が迫る中、清春の身体からは、あの図書室で綾の理性を狂わせたのと同じ、甘く、冷たく、そして酷く淫らな「毒」の匂いが、抑えきれずに微かに漏れ出し始めていた。
夜の帳が下りる時。
特級怨霊と、最恐の蛇神による、一人の少女を巡る凄絶な「奪い合い」が、幕を開けようとしていた。




