第18話:好奇心の代償
深夜、午前零時。
学園の旧校舎は、昼間の退屈な姿とは似ても似つかない、巨大な「墓標」へと成り果てていた。
窓ガラスは月光を撥ね返し、まるで死人の瞳のように冷たく淀んでいる。
風もないのに、どこかでガタガタと古い建具が鳴り、湿り気を帯びた空気は、まるで生きた怪物の吐息のように重たく肌にまとわりついてきた。
「……うわっ、マジで真っ暗。……キヨッちがビビるのも、ちょっと分かんないでもないかも」
静寂を切り裂くように、場違いに明るい声が響いた。
旧校舎の廊下。懐中電灯の光を前方に向け、片手に自撮り棒を握りしめているのは、猫宮珠希だった。
彼女は、普段の学校生活で見せるのと同じ、ルーズな制服姿に茶髪のポニーテールという出で立ちだった。だが、その手元にあるスマートフォンの画面には、動画配信サイトのライブチャットが猛烈な速度で流れている。
『たまちゃんマジで行ったの!?』
『旧校舎の吸血鬼、マジで出るらしいから気をつけて!』
『空気ヤバくない? 画質ザラついてるよ……』
「あはは! 大丈夫だって。ほら、みんな見てよ。廊下の端までなーんもいない。吸血鬼なんて、あたしが自撮り棒で退治してあげるからさ!」
珠希は画面に向かって、いつものように無邪気なVサインを作ってみせた。
だが、その指先は、自分でも気づかないほどに僅かに震えていた。
彼女には、生まれつきの「予感」があった。
それが何なのか、彼女自身も正確には理解していない。ただ、人よりも少しだけ、世界の「裏側」に漂う気配に敏感なのだ。
いつもなら、この旧校舎の入り口まで来た段階で、「あ、これガチでヤバいやつだ」と判断して引き返していただろう。
しかし。
今夜の彼女は、何かに強く引き寄せられていた。
それは、昼間に清春(♂)の近くで嗅いだ、あの「甘くて、冷たくて、ジンジンする匂い」の残滓。
あの匂いをもう一度嗅ぎたい。あの匂いの正体に触れたい。
そんな、本能の奥底から湧き上がる抗いがたい渇望が、彼女の恐怖心を麻痺させ、暗闇の奥へと足を運ばせていた。
「……よし。次は、例の『開かずの理科室』に行ってみよっか!」
珠希は、自分を奮い立たせるように明るく振る舞い、さらに廊下の奥へと足を進めた。
一歩、足を踏み出すたびに。
懐中電灯の光が届かない闇の向こう側から、誰かが自分を見つめているような感覚が強まっていく。
それは、視線というよりは、物理的な「重圧」だった。
空気の密度が一段と増し、肺の奥が焼けるように熱いのに、指先は氷のように冷え切っていく。
「……あれ。なんか、急に寒くなってきた?」
珠希は、自分の腕をさすった。
彼女の全身の産毛が、一斉に逆立っている。
頭のてっぺんから、見えない尻尾の先までを、冷たい針で刺されるような悪寒が駆け抜ける。
チャットの文字が、急に止まった。
画面が不自然にノイズで波打ち、スマートフォンのスピーカーから、「ザザッ、ザザザ……」という砂嵐のような音が漏れ始める。
「え、うそ。電波悪い……? 格安SIMだからかなぁ……」
珠希は苦笑いしながら、画面を指で叩いた。
だが、その時。
――カサリ。
背後で、紙が擦れるような、小さな音がした。
「……っ!」
珠希は、弾かれたように振り向いた。
懐中電灯の光が闇を切り裂く。
そこには、何もない。
古びた掃除用具入れの扉と、埃まみれの床があるだけだ。
「……なんだ、風か。もー、ビビらせないでよ……」
珠希は、大きく安堵の溜息を吐き出した。
だが、彼女は気づいていなかった。
自分が立っている足元の影が、不自然なほど長く、そして「蠢いている」ことに。
廊下の突き当たり。
そこには、かつて大きな火災があり、現在は立ち入り禁止となっている特別教室の扉があった。
扉には、幾重にも古びた注連縄が巻き付けられ、呪文のような文字が書かれた御札が、剥がれかけた状態で何枚も貼られている。
珠希の鼻腔を、強烈な匂いが打った。
清春の匂いとは違う。
それは、腐った肉をさらに煮詰めたような、そして、ひどく冷酷な「憎悪」を煮詰めたような、邪悪な匂いだった。
「……ここ、だ」
珠希は、何かに取り憑かれたように、その扉の前に立った。
スマホの配信は、すでに完全に途絶えている。画面は真っ黒になり、懐中電灯の明かりだけが、注連縄を不気味に照らし出している。
――開けなさい。
――ここを開けて、私を解放しなさい。
頭の中に、何千人もの怨嗟の声が、重なり合って響いてくる。
「……だめ。ここを開けちゃ、絶対にだめ……っ」
珠希の理性が、全力で拒絶を叫んでいる。
だが、彼女の手は、勝手に動いた。
自分の意志ではない。
扉の向こう側にある「何か」が、珠希の中に眠る無防備な妖力を逆利用し、彼女を操り人形のように操っているのだ。
バリッ、と。
古びた注連縄が引きちぎられた。
何枚もの御札が、まるで黒い雪のように舞い落ち、地面に触れる前に黒い煙となって消えていく。
珠希が扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと、それを回した。
ギィィィィィィィィィィィィッ……!!
蝶番が、地獄の底で鳴り響くような、凄まじい悲鳴を上げた。
扉が開いた瞬間。
中から噴き出してきたのは、風ではなかった。
それは、質量を持った「真っ黒な泥」のような呪いだった。
「ひっ……!?」
珠希は、その衝撃で後ろに吹き飛ばされた。
懐中電灯が手から離れ、床を転がって遠くの闇を照らし出す。
暗闇となった理科室の中から、ドロリ、ドロリと、何かが這い出してきた。
それは、形を成さない巨大な怨念の塊。
何百、何千という人間の顔が表面に浮かんでは消え、その一つ一つの口から、呪詛の言葉を撒き散らしている。
特級怨霊――『餓鬼の揺り籠』。
かつてこの学園で非業の死を遂げた者たちの魂が、空間の歪みによって結びつき、何十年も封印され続けていた、本物の化け物。
「アァ……。新シイ、肉……。新シイ、器……」
怨霊の塊から伸びてきた、真っ黒な触手が、床に倒れ込んだ珠希の首筋へと這い寄った。
「いや……っ、来ないで……! 助けて、誰か……っ!」
珠希は、涙を流しながら後ずさりしようとした。
だが、怨霊の放つ凄まじい威圧感の前に、彼女の体は金縛りにあったように動かない。
彼女の中に眠る野性の本能が、死を悟り、身体を硬直させてしまっていた。
冷たく、ねっとりとした触手が、珠希の喉元を締め上げる。
「あ、が……っ、んぐっ……!」
呼吸が止まる。
視界が真っ赤に染まり、意識が急速に遠のいていく。
触手の先端から、ドロリとした黒い「呪い」が、珠希の毛穴を通して体内へと侵入し始めた。
それは、魂を腐らせ、死に至らしめる毒。
珠希の美しい肌の上に、黒い血管のような呪いの刻印が、じわじわと広がっていく。
「ギ、……ギ……、キヨ……っち……」
意識が途切れる寸前。
珠希の脳裏に浮かんだのは、いつも美味しいお菓子を焼いてくれる、あの事なかれ主義の男子高校生の顔だった。
あの、甘くて、冷たくて、安心する匂い。
もう一度、あれを嗅ぎたかった。
もう一度、あのお菓子を、笑いながら食べたかった。
珠希の瞳から光が消え、彼女の身体は、黒い怨念の海の中に沈み込んでいった。
スマートフォンの懐中電灯が、最後に一瞬だけ明滅し、そして完全に消えた。
旧校舎には再び、死のような静寂が戻ってくる。
だが、その静寂は、以前のそれとは違っていた。
珠希の好奇心によってこじ開けられた「門」からは、今も絶え間なく、邪悪な呪いが溢れ出し続けている。
学園を飲み込もうとする、特級の呪い。
そして、その中心で命の灯を消されようとしている、一人の少女。
この絶望的な事態に、あの事なかれ主義の少年が、いかにして理性を捨て、最恐の「姫」として降臨することになるのか。
運命の歯車は、凄まじい速度で破滅へと向かって回り始めていた。




