少女に出会うまで:前編
――生きなさい! これは命令よ!
目を閉じれば思い出す、愛しい人の声。いや、目を開けていても、デビットの耳にはあの時の天使の声が鮮明に残っている。
「おい! そこのガキ、いい加減に帰れ!」
怒鳴られ、石を投げられた。もちろん、少年ながらに様々な修羅場を潜り抜けてきたデビットが、その石を避けられないはずがない。ひょいっと避けて、デビットはまた頭を地につけた。
「どうかお願いします! シェイン伯爵にお目通りを!」
小汚いシャツと背丈に合っていない短いズボン。貴族の屋敷に近づくにはあまりに不釣合な格好で、デビットは毎日頭を下げていた。
すべては、自分を生かした少女―アレグレット・メーデルに釣り合う男になるために。
公爵令嬢である彼女に、デビットが近づくためには、それ相応の身分と立場の後ろ盾が必要になる。自らが貴族になることは不可能だ。だとすれば、使用人として近づくしかない。しかし、その使用人の作法でさえ、簡単に身に着くものではない。それに、デビットはアレグレットの前に立つ時、完璧な姿でありたいのだ。愛する女性の前で、粗相はしたくない。
(シェイン伯爵は、庶民のような生活をしている変わり者だ。身分を鼻にかけているような、俺の嫌いな部類の人間ではないはず……)
デビットが毎日通っている、シェイン伯爵家の当主は、変わり者だという噂だ。庶民の生活に興味を持ち、時々領地の民と同じような生活を送っている。
つまり、貴族でありながら働いていたりするのだ。ホコリまみれになって、水仕事もやって、体力仕事にも手を出しているという。庶民の感覚を知っているシェイン伯爵ならば、デビットのことも受け入れてくれるのではないか。そう、期待をかけていたのだが。なかなか本人に会うことがかなわない。屋敷の使用人が、デビットを拒絶しているのだ。そもそも、今シェイン伯爵がこの屋敷にいるのかどうかも疑わしい。シェイン伯爵は、ふらふらとどこにでも自由に旅に出てしまう人物らしいから。
(ここはもう諦めて、町を探そうか)
会いに行きたい少女のために、デビットは軽い頭を下げ続ける。愛する少女のためならば、どんなことでもしてみせる。耳に残る彼女の声が、デビットを奮い立たせる。自分は、何としてでも生きなければならないのだ。
懲りずに石を投げつけて悪態をついてくる使用人にぺこりと頭を下げ、デビットは立ち上がった。
町へ行こう。
そして、手当たり次第にシェイン伯爵のことを聞いて回るのだ。
「シェイン伯爵? さっき物売りの真似事をして道を歩いてたよ」
「伯爵さまなら、大道芸人に興味を持ったらしくて役者の練習してたけど……」
「あの変わり者の伯爵なら、水路の工事の指揮をとってるのを見たなぁ」
どこにいた、ここにいた、という情報を得て急いでその場所に向かっても、そうするとシェイン伯爵は別の場所に行っている。最終的には、もう屋敷に帰った、とかいう情報を耳にする。デビットはこの調子でシェイン伯爵を追っては捕まえられずにいた。
「どんだけ移動すんだよっ!」
はぁはぁ、と切れ切れになる息を整え、デビットは夕陽を睨みつけた。また、今日も空振りだ。そのうち日が落ちて、朝がくる。今、デビットは教会に保護されていた。病院から紹介された、優しくてあたたかい場所。食べ物も、着るものも、読み書きだって神父様やシスターたちが教えてくれる。それでも、デビットには物足りない。生きる為に生きることはもうやめたのだ。今の自分には、求めるものがある。何も手にできずに、天使に近づく方法も得られずに終わる一日が憎かった。悔しい。彼女に生かされたこの身は、もう彼女のためだけにしか存在したくないのに。ずっと孤独だったデビットは、誰かの中に自分の居場所を求めたかったのだ。
「おやおや、少年。何をそんなに睨んでいる?」
飄々とした声が、上から降って来た。夕陽を背に立つ男は、薄い笑みを浮かべてデビットを見下ろしていた。
「誰だ、お前」
「あれ? おかしいな。私を捜していたのではないかね?」
わざとらしく人差し指をこめかみにあて、ぐりぐりと動かす。その言葉を聞いて、デビットは瞬間的に悟り、土下座した。
「シェイン伯爵さま! どうか、どうか俺をあなたの屋敷で雇ってください!」
ようやく会えた。この男が、探し求めていたシェイン伯爵。なるほど、変わり者だという話は本当だ。首回りにはド派手なピンクの襟巻が、その背には翼を模した張りぼてが、その身体を包む服は金色だった。しかしそんな格好をしていてさえも、彼は気品にあふれていた。美しい立ち姿、人を魅了する綺麗な顔、深緑の瞳はデビットを見て楽しそうに輝いている。
「何故か、理由を聞かせてくれたまえ」
何かの舞台からそのまま降りてきたようなシェイン伯爵は、台詞めいた口調で声を響かせた。
「愛する人に相応しい人間になるためです!」
使用人として、側にいられればそれでいい。声が聴けて、気配を感じられるのなら、どんな立場でも構わない。
「面白い。詳しい事情は、そこの小屋でしようか」
そう言ってシェイン伯爵が指したのは、興業で訪れているサーカスのテントだった。
*
「ほう、メーデル家の娘か。たしか、アレグレットと言ったかな」
「はい。それはもう天使のように可愛らしく、それでいて強い光を持った美しい方です。俺の命は、もうアレグレット様のもの。しかし、今の俺では彼女の前に立つことはできません」
「そういうことなら、貴族社会を知ることも必要だな……使用人として、と言っていたが、君は面白いから養子にしてやろう」
新しい玩具を見つけた子どものように、ぎらりと目を輝かせ、シェイン伯爵はとんでもないことを言い出した。
「まず、言葉遣いから改めなければならないな」
「……はいっ!!!」
この日から、貴族とは縁のなかったデビットは、変わり者のシェイン伯爵の養子となった。