一
仮想現実の江戸でも、月は当たり前に夜空に懸かっている。もちろん、本物の衛星ではないと理性では判ってはいるが、迫真性は充分だ。
健一の鼻腔に、微かに潮風が海の匂いを運んでくる。柔らかな波が、月の光に煌き、船着場際に、発光性のプランクトンが、微光を残している。
気温はそう低くはないが、健一は身震いを抑え切れない。寒いはずはない。季節はまだ、夏だ。
しかし健一は、自分の奥歯が、かちかちと細かく鳴るのを止められなかった。
「暗いなあ……」
思わず呟くと、隣に立っている鞍家二郎三郎が低く囁き返した。
「あんた【遊客】だろう? 暗視モードにすれば、どうだね?」
忘れていた! 健一は、慌てて自分の視界を〝暗視モード〟に移行させる。
【遊客】の特殊能力として、視覚を様々に変更できるというのがある。夜でも、少しでも明かりがあれば、増幅して昼間のように、見渡せる。今夜のように月が懸かっていれば、眩しいくらいだ。
途端に、それまで真っ暗だった視界が、真昼のように明るくなる。しかし、視界に色はついていない。完全に白黒だ。
空に浮かぶ月は、昼間の太陽のように、強く輝いている。あまりの眩しさに、健一は視線を海面に戻した。
横浜に、健一は来ていた。
健一のほか、永子、二郎三郎が顔を揃えている。
「時間は?」
健一は、二郎三郎に尋ねた。
二郎三郎は、ぐいっと腕を伸ばして、手首を見る。ちょっと健一を見て、ニヤッと笑った。
「腕時計なんか、あるわけないだろう?」
健一は、ガクッとずっこけた。
ちぇっ、悪い冗談だ!
「もうすぐ、四つだな……。亥の刻だ」
当たり前のように二郎三郎が答えたので、健一は面食らった。江戸の時制はよく判らない。健一の顔つきを見て、二郎三郎は詳しく答えてくれた。
「つまり夜中の、十時過ぎだよ。約束まで、もうすぐだ」
「そうか」
健一は、もう一度、海面に目を戻した。
周囲には、ほとんど人家らしきものは見当たらない。ただ、海岸から遠く、横浜の出島が海へ突き出して、ぽつりぽつりと照明が灯っている光景が見えるだけだ。
出島からは、唐人町がごちゃごちゃと甍を寄せ合うように、建物が密集している。こちらは住人が寝静まっていると見えて、人の活動はまるで感じられず、明かりも灯ってはいない。
健一は針鼠の仙蔵と、ここで待ち合わせをしていた。
目的は、仙蔵が持っている、西洋渡りの薬である。表向き、健一は、江戸仮想現実で、悪党仲間と付き合いがあって、仙蔵の薬を悪党相手に売り捌く目的があると、説明している。
仙蔵はあまり健一の説明を信用していないようだったが、それでも健一が蓄えている、関所支給の百両には充分すぎるほどの、敬意を払っている。
つべこべ説明しようが、百両は、百両だ。仙蔵にとって、百両は目も眩む大金だろう。
背中から、永子が低く健一の注意を喚起した。
「来たみたいよ」
永子の言葉に、健一は海面に注意を戻した。
ちゃぱり、ぽちゃりと水面を艪が掻く微かな音がして、小船が接近してくる。
健一は、視覚を望遠にさせた。即座に、視界がぐーっ、とズームになり、遠くに浮かんでいる小船が視界一杯に広がる。
【遊客】の視覚は、便利である!
やはり仙蔵だ。小船の艫ちかくにどっかりと陣取り、数人の手下が用心おさおさ怠りなく、じっと前方を凝視していた。
健一の胸に、凍りつくような恐怖がずっしりと居座った。こんな場面は、仮想体験劇で何度も撮影しているが、今回は芝居ではない。相手は本当の、悪党なのだ。
危険が迫っても「カット!」の声が掛かるわけがない……。
自分に何ができるだろう?
ちらりと背後を振り返って、永子を見ると、内心の恐怖など一切感じさせない、平静な態度を保っている。
隣の二郎三郎は悠然と、腕を組んで、真っ直ぐ背を伸ばしている。こんな場面、何度も御馴染みだと、言わんばかりである。
健一は密かに、自己嫌悪を感じる。ここでは自分は、完全にお荷物だ……!
小船が船着場に舳先を着け、船頭が舫いを巻きつけた。総ては無言で行われている。
仙蔵の手下たちは、ひらりと船着場に躍り上がると、ずらりと肩を並べ、仙蔵が上陸するのを待っている。
やや億劫そうな物腰で、仙蔵が舟から船着場に足を移した。肥満しているせいで、身動きは大儀そうである。
健一を見る仙蔵の瞳が、ぼうっと光を湛えた。仙蔵もまた〝ロスト〟したとは言え、健一と同じ【遊客】だ。視覚を暗視モードにしているのだろう。
仙蔵は、ニヤリと片頬だけで笑って見せた。
不思議と、仙蔵の笑い顔は悪党には相応しくなく、無邪気なものだった。
健一は大きく、息を吸い込んだ。
今度こそ、自分から第一声を上げてみせる! そう何度も、永子に頼りきりなんか断固するものか!
「ブツは、どうした?」
思いがけず、健一の声は、自分でも驚くほどはっきり発声できた。少なくとも、素人芝居ではなさそうだ……。
「ブツは……ねえ!」
仙蔵は顎を挙げ、短く答える。
隣で、二郎三郎が怒りを顕わにするのを、健一は感じ取っていた。ずらりと並んだ、仙蔵の手下たちが、一斉に及び腰になる。
二郎三郎が発した、【遊客】の気迫が、江戸NPCである手下たちに影響したのだ。
「何だと……。あんた、約定はどうした?」
仙蔵はジロリと二郎三郎を見やった。
「こっちこそ聞きたい。あんたは誰だね? 前回、健一さんと、お永姐さんが尋ねてきたときは見ない顔だが……?」
「俺は……まあ、相談役だ。それより、約定では、ここで受け渡しするはずだな」
二郎三郎は、まるで動揺を見せず、質問で返す。仙蔵はひくひくと唇を痙攣させた。
「どうも、あんたらは信用できねえ……。おいっ、野郎たち!」
仙蔵が健一たちの背後に向け、大声を上げた。
健一は、くるっと仙蔵に背を向け、振り向く。
と、健一の視界に、むくむくと周囲の草叢から、何人もの人影が姿を現すのが目に入った。
「二郎三郎さん……」
声を掛けると、二郎三郎は「うむ」と重々しく頷く。
「どうやら、こっちは【遊客】らしいな」
健一の奥歯が、さらに激しく、細かく震え出す。ずしんと、鳩尾から肛門に向かって、氷柱のような恐怖が貫いた。
唐人町には、立ち往生【遊客】の町がござんす……。
源三の言葉が胸に蘇る。
今、健一たちに迫ってくるのは、〝ロスト〟した【遊客】たちなのだ!




