二
「金を寄越しな! 命だけは、助けてやる──ああ、お前たちは【遊客】だから、〝ロスト〟だけは許してやると言ったほうが良いか!」
仙蔵が頭を振り立て、吠えた。
二郎三郎が肩を竦める。
「ふん! それが狙いか? 薬は端っから、持ってくるつもりはなかったんだな?」
「当たり前だ! いきなり俺の縄張りに入り込んで、商売がしてえからブツを出せなど、信用できるけえ! 何か、企みがあるに違いないが、それを調べる必要なんか、ない!」
仙蔵の叫びに応じて姿を現した【遊客】の悪党に、健一たちは周囲を完全に封鎖されている。
多分、取り巻いている【遊客】たちは、仙蔵と同じく、江戸仮想現実で〝ロスト〟した【遊客】たちだ。
もはや現実世界に戻る術はなく、自暴自棄となって、悪党仲間に加わっているのだ。
【遊客】だから、体力、敏捷さは江戸NPCの数倍を誇り、長年の悪党暮らしで、顔つきは凶悪そのものとなっている。全員が暗視モードに視覚を調整しているので、ぼうっと瞳が増幅された光を放っている。
全員、健一たちを舐めきった態度だ。まるで防御など考えない姿勢で、だらだらとした歩きで近づいてくる。武器すら、手にしていない。
【遊客】は、生身の身体そのものが、武器といえる。
こそこそと、江戸NPCである仙蔵の手下たちが、その場を離れていった。【遊客】同士の喧嘩になれば、【遊客】たちの発する気迫に撃たれてしまうからだ。
すでに、二郎三郎の怒りだけで、手下たちは脂汗を書いていた。
「二郎三郎さん……」
永子が、目を見開いて、二郎三郎に寄り添った。永子の顔に初めて恐怖が浮かぶのを、健一は認めていた。
「お永さん、あんたは俺から離れるな! 健一! あんたは、一人でもやれるな?」
ごくり……! と、健一は唾を飲み込む。喧嘩なんか、一度だって経験してはいない!
恐怖に、健一の全身は強張っていた。
できない!
喧嘩なんか、俺には一切、できないよ!
大声で叫びたかった。だが、二郎三郎は、すでに新たな敵に注意を向けている。健一の泣き言など、聞く耳は持たない様子である。
するすると、仙蔵たちが横に散開し、逃げ場を塞ぐように位置を取った。後ろは海で、前方に、扇を開く格好で取り巻いている。
するりと、二郎三郎が刀を鞘ごと抜いて構えた。
二郎三郎の構えを見て、なぜ刀を鞘から抜かないのだろうと、健一は思った。あれでは刀ではなく、棍棒の役しか立たない。
突然、左端の男が、喚き声を上げて飛び掛ってくる。二郎三郎が、鞘の抉りを上げ、撥ね上げるようにぐるりと回転させる。
ぐわっ、と音を立て、男の顎先に二郎三郎の鞘が命中する。
うわっ、と襲い掛かった男は、自分の顎を抑えて蹲る。
鮮やかな二郎三郎の手並みに、見とれる暇は一瞬もなかった。気付くと、仙蔵が手にした煙管を振り上げ、健一に迫ってくる。仙蔵の煙管は、太さが一寸はあり、すべて真鋳のむくでできている。
健一は思わず飛び退き、仙蔵の一撃を避けた。あんなのが身体に当たったら、骨折するところだ!
悪党たちは、二郎三郎のほうが手強いと見たのか、健一に対峙しているのは仙蔵が一人きりだ。
実際、健一は喧嘩など、一度たりとも経験はしていない。子供の頃から、言い争い一つ、していないのだ。
仙蔵は両目をぎらつかせ、無言で手にした煙管を振り回し、迫ってくる。
びゅんっ!
健一は危うく避けた。
もう一度!
「糞……、ピョンピョン、跳ね回りやがって……」
気がつくと、仙蔵は荒い息を吐いていた。まん丸な顔は真っ赤に染まり、滝のような汗が噴出している。
健一は、ぼんやり、気付き始めた。
仙蔵の攻撃は、健一にはまるきり、当たっていない。仙蔵が振り回す煙管を、健一はぎりぎりで避けている。まるで剣術の達人のようだ……。
必死になって避けながら、健一は「なぜだろう?」と考えていた。
そうだ!
俺は【遊客】なんだ!
健一は二郎三郎のように、剣術の知識をインストールしていない。しかし【遊客】としての能力は、健一に、現実世界では不可能なほどの体力、反射神経を与えていた。
しかし仙蔵は〝ロスト〟した【遊客】である。〝ロスト〟した【遊客】は、仮想現実に留まるうちに、元々の現実の肉体に戻ってゆく。
もちろん【遊客】の能力は保持されるが、仮想現実に接続するたび、新たなデータを上書きする健一に比べ、劣ってくるのは避けられないのだ。
さらに悪党としての荒んだ生活が、優秀な【遊客】の能力を削いでゆく。
事実、目の前の仙蔵は、たっぷりと身体に脂肪が蓄積し、完全な肥満体だ。見かけは迫力があるが、内実は不健康のきわみである。
健一は狙いすまし、襲い掛かる仙蔵の足下に、自分の足を突き出した。
やった!
仙蔵は健一の足に、自分の足を引っ掛け、ずっでんどう! とばかりに前のめりに倒れ掛かる。
倒れた先は、海面だった。
ざばん、と仙蔵は頭から水面に飛び込む格好になる。水面で、仙蔵は慌てて立ち泳ぎになり、必死になって喘いでいた。
「ち……畜生っ!」
仙蔵は水面から、恨めしげに健一を見上げる。健一は、仙蔵を憐れに思った。
健一は懐に手を入れた。
「ほらよ、仙蔵さん。あんたにやるよ!」
仙蔵は無言で、目を見開いた。健一は懐から、関所で支給された百両を掴み出し、ぽいと地面に投げ捨てたのだ。
ちゃらん、と地面にばら撒かれた小判が、涼やかな音色を立てる。
「か……金っ!」
仙蔵は口許に泡を噴かせ、がばがばと水を掻き分け、岸にしがみついた。両目は血走り、両手は地面にばら撒かれた小判を求め、狂おしく動いている。
地面に撒かれた小判の音を聞いていたのは、仙蔵一人ではなかった。それまで二郎三郎を取り巻いていた悪党たちが、仙蔵と健一の遣り取りを聞いていたのである。
全員、足音を蹴立て、健一がばら撒いた小判に目掛け、走ってくる。それを見て、仙蔵は悲鳴を上げた。
「よせっ! そいつは、俺の金だぞっ!」
仙蔵の悲鳴は、一人たりとも耳に入っていない。全員、べったりと地面に腹這いになり、狂気の如く、小判を一枚でも多く掴み取ろうと争っている。
「見つけたっ! 俺のもんだ!」
「冗談じゃねえ、そいつは、俺が先に目を付けたんだ!」
「何いっ?」
「何だとぉ?」
忽ち、拳が突き出され、あちこちで殴り合いが始まる。
その中に、健一は、ある顔を認めていた。
村雨座で、剣鬼郎に自分のファンだと紹介された若者。仙蔵の手下として、唐人町で見かけた同じ人物。
二郎三郎が駆け寄ってくる。
健一は目配せして「あいつだ!」と口の形だけで伝える。
二郎三郎は、大きく頷いた。
健一が注意を促した若者に、二郎三郎は背後からずかずかと近づいた。さっと腕を伸ばし、むんずと襟首を掴み上げる。
片腕一本で、若者の身体が、ひょいと持ち上げられる。【遊客】のみが見せる、途方もない怪力である。
持ち上げられた若者は、まるで予期していなかったのか、一瞬、痴呆のような表情を見せた。二郎三郎は、無言で若者の鳩尾に、膝頭を叩き込んだ。
「ぐぼっ!」
微かに呻くと、若者の顔が、見る見る河豚のように膨れ上がる。太陽神経叢を直撃されて、息が止まったのだ。あまりの苦痛に、悲鳴すら上げられない。
手足を痙攣させている若者を、二郎三郎は慣れた手付きで、ずるずると引き摺って行く。
一方、小判を争っている悪党たちは、今の場面を、一瞬たりとも目撃していない。視線は地面にばら撒かれた小判に集中して、仲間の一人が密かに誘拐されたなど、誰一人として気付いていないのだろう。
いや、気付いたとしても、分け前が増えると喜ぶだけだ。悪党に友情など、微塵も存在するわけがない。
二郎三郎は、若者を引き摺ったまま、急ぎ足で現場を離れた。健一、永子も無言で二郎三郎に続く。
結局、誰一人からも誰何の声は上がらなかった。百両の威力に、健一は呆れていた。




