五
若い男の案内で、先へ先へと進んで行くと、周囲は益々、荒廃の度を強めてくる。
元々はきちんとした町並みだったのだろうが、今は手入れも全くなされておらず、壁は染みだらけ、屋根の瓦にはペンペン草が生い茂っている。
所々、壁に穴が空いている箇所さえあって、そこから疑り深い眼差しで、こちらをじろっと睨んでくる眼とぶつかる。
健一は源三に尋ねた。
「何で、こんな卦体な町が出来上がったんだ?」
源三は微かに頷くと、前を向いたまま、健一の質問に答えた。
「ここは、唐人町と、出島の中間にあるせいなんで、ござんす。唐人町が作られた時に、三国志の関羽を祀った関帝廟を建立しようという、話が起きやした。ところが、寺社奉行が管轄するのか、外国奉行が管轄するのか揉めたんで、ござんす。さらには、勘定奉行様も口を挟み込んで、三竦みとなりやした」
健一は、口を挟んだ。
「それで、どうなったんだ? その……関帝廟は、建立できたのか?」
源三は肩を竦める。
「ゴタゴタが続いて、関帝廟は、別の場所に建立する話となって、そこは、寺社奉行様がお支配なさっておりやす」
「それで、この場所は?」
「結局、町は誰もお支配なさらぬまま、いつの間にか、立ち往生【遊客】が入り込み、今に至っておりやす」
「ははあ」と健一は一人頷いた。まるで、香港にあった九龍塞のような、成立事情があるのだろう。一旦、【遊客】が支配すれば、江戸NPCには、手が付けられなくなって、不可触地帯になってしまったのだ。
ようやく、目指す〝針鼠の仙蔵〟が居を構えている建物に到着する。
建物は、元は土蔵だったのを使っているらしい。土蔵なら、造りがしっかりとしているから、周囲の建物に見られるような、傾いた柱、穴の空いた壁などの被害は免れる。
入口には、案内した男と同じくらいの年頃の、若い衆が見張り番に立っている。案内した男と短く会話を交わすと、若い衆は健一たちを、中へと誘った。
入口は狭く、人、一人がやっとすり抜けられるほどである。
中へと進むと、やたら暗い。天井近くに、幾つかある窓から、頼りない昼間の光が差し込んではいるが、それでも目が慣れるまで健一は手探りで歩かなくてはならなかった。
暗さは我慢できるが、内部に漂う、強烈な異臭には、やりきれない。煙草と、汗と、酒、恐らく糞尿の混じった、物理的といっても良い、匂いの塊が、健一の鼻腔を直撃する。こんな中で、よく棲息できるものだ。
側を歩く永子を見ると、今にも「おえっ!」と反吐を吐きたそうな、顔つきになっている。
「我慢しろよ」
囁くと「判ってる!」と小声で囁き返した。
健一は内部に足を踏み込んだ直後から「記録開始」と、心の中で呟いている。後で、この場の遣り取りを再生して、細かい点をチェックするつもりだ。
土蔵の奥に進むと、一段と高くなっている場所があり、そこには畳を積み重ね、まるで牢名主のような格好で、件の〝針鼠の仙蔵〟が胡坐を掻いていた。
周囲には、手下らしい数名が、居流れるように座を占めている。いかにも悪党仲間の、親分といった姿である。
身に着けているのは、何とも形容のつかない、褞袍というのか、掻巻というのか、ちょっと判然としない。
この暑い中、ぼってりとした着物を纏い、大汗を掻いている。年齢は六十に近い。頭はつる禿で、太い眉に、ぎょろりとした大目玉。右手に、太さ一寸もありそうな、巨大な煙管を抱えている。多分、護身用だ。
こいつが仙蔵だろう。
源三の姿を眼にすると、仙蔵の顔つきが険悪なものに、変化した。
「源三! おめおめ、どの面ぁ下げて、おいらの前に出てこれた?」
仙蔵の声は、轟くように響いた。その場にいた、手下たちが、一瞬に「ひえっ!」と大袈裟に震えて、腰を抜かす。
健一は直感していた。
針鼠の仙蔵、こいつは【遊客】だ! 江戸NPCなら「これた」などという〝ら抜き言葉〟は使わない。〝ら抜き言葉〟は〝現代人〟の特徴である。
健一には感じないが、仙蔵が怒りの感情を顕わにした瞬間、源三さえも一瞬、身震いを隠せなかったほどだ。【遊客】の気迫は、江戸NPCには致命的なのだ。
仙蔵の視線が、健一と永子に向かう。二人を認めた瞬間、仙蔵は薄く笑った。
「なるほど……【遊客】二人を連れて、舞い戻ったというわけかい?」
源三が救いを求めるような視線を、健一に向けている。江戸NPCの源三には、【遊客】である仙蔵と、これ以上の対決は不可能なのだ。
健一は覚悟を決め、一歩さっと前へ進み出た。
さて、どう話を付けようか?




