三
先を歩く源三は、足取りもゆったりとして、自信が溢れている。
源三の背中を見詰め、従いてゆく健一と永子は、初めて見る唐人町に、物珍しさが先に立ち、つい、キョロキョロ周囲に視線をやるのを、押さえ切れない。
完全に、おのぼりさんである。二郎三郎が「演技など必要ねえよ!」と保証したのは、全く、的確な評価である。ちょっと悔しい。
健一の鼻腔を、旨そうな食べ物の匂いが擽る。あちらこちらの店では、蒸篭から盛大に湯気が噴き上がり、辮髪をした唐人が、にこやかな笑みを浮かべて、通りを歩く人々に「出来立ての肉饅頭アルヨ! ホカホカで、あっつ、あつアル! 食べるがヨロシイ」と、たどたどしい日本語で勧めている。
もっとも、即時通訳機能が、仮想現実には標準なので、こんなわざとらしい片言を口にするのは、本当は日本人【遊客】だ。
片言は、日本人のイメージする、中国人の喋り方である。逆に、本物の中国人【遊客】は通訳機能を使っているので、流暢な日本語を話す。
店先で、卓を出して悠然と食事しているのは、江戸仮想現実のNPCだ。【遊客】は、あまり仮想現実で食事をしない。
なぜなら、仮想現実で食事をすると、現実世界で眠っている本体の脳は、食事をしたと錯覚し、胃酸を放出する。が、本当に食事をしているわけではないので、胃壁が胃酸で荒らされ、結果として胃潰瘍の危険が高まる。
仮想現実で食事を楽しみたいときは、接続する直前に、胃を守るための特別食を飲み込んでおく必要があるのだ。
せいぜい、軽い飲み物を口にするくらいが、仮想現実での【遊客】の心得である。
唐人町で目立つのは、西洋人【遊客】の姿だ。江戸仮想現実の時代設定は、十八世紀末から、十九世紀始めを設定しているので、現実世界から接続する外国人【遊客】も、その時代の服装を身につけている。
本物の江戸時代では、中国人街は、長崎の出島にあった。出島に強制的に住まわされたのは、オランダ人だけではないのだ。だが、こちらの仮想現実江戸では、神奈川出島に隣接する形で繁栄している。
先を進むと、明らかに源三の態度が変わった。やや背を曲げ、用心深い足取りになる。表情には、緊張が浮かんだ。
「お二人方、用心してくだせえ……。ここから先は、何が起きるか、あっしにも判らねえ……」
健一の口中が、からからに乾上った。
「何が、あると思うんだ?」
源三は、皮肉な笑みを浮かべた。
「それが判れば、あっしも安心なんでござんすがね……。ここいらには、札付きの悪党が屯していると噂で……。もっとも、あっしも、一時仲間に入っていたから、噂じゃねえんですが……」
健一と永子は、怖々と周囲を見回した。
言われて気がついたが、いつの間にかあれほど歩いていた外国人【遊客】の姿が一人も見当たらず、町の様子は荒れ果てた感じになってきている。
もう一つ、気がついた。
子供の姿が見当たらない。
目に入るのは、陰険な目付きで健一一行を睨んでくる唐人と、江戸NPCである。
どちらも、健一たちが視界から離れるまで、じーっと視線を離さず、監視といっていい目付きで、三人の一挙手一投足を見守っている。
「ここは、どんな所なんだ?」
健一は、源三にぴったり貼り付くようにして歩きながら、囁き声で尋ねた。
「立ち往生【遊客】の町でござんす」
健一と永子は、源三の返答に、凝然となった。
立ち往生【遊客】!
江戸NPCは〝ロスト〟した【遊客】を、こう呼ぶのだ。
何らかの原因で、三日間の限度を越えて仮想現実に滞在して、現実世界へ戻れなくなった【遊客】を、江戸NPCは立ち往生【遊客】と理解している。
一旦〝ロスト〟した【遊客】は、二つに別れる。
自分の運命に悲嘆するのは同じだが、それを受け入れ、江戸NPCの一人として従容として生活する【遊客】と、逆に絶望のあまり、悪に走る連中に分かれる。
【遊客】が、卓越した能力を使って悪事に走れば、江戸NPCには対抗できない。体力、知力、それに【遊客】独自の【気迫】も、活用すれば、ほぼ無敵と言っていい。
「ここには、立ち往生【遊客】と、それにつるんでいる江戸の悪党が群がっておりやす。お二人方も、くれぐれも御用心なさっておくんなせえ……」
源三は、低い声で、二人に忠告した。
ぶるっと、健一の背筋に寒気が走る。健一は活劇を監督するが、自分自身は主人公タイプではないと自覚している。
二郎三郎の声が蘇る。
「なあに、あんたら二人は【遊客】だ。その気になれば、そこらの悪党なんかには、負けやしないって!」
冗談じゃない!
狂おしく周囲を見回す健一の眼が、ゆっくりと近づく、数人の町人の姿を捉えていた。




