開かれし封印と、呪われた手
バカッニア大国。
大陸の東端に位置するその国は、他国が魔物の脅威に怯えるのが嘘のように、穏やかで平和な時が流れる場所だった。温暖な気候、肥沃な土地、そしてめったに現れない弱い魔物たち。人々は武器を握る代わりに農具を握り、日々を穏やかに暮らしていた。
そんな国の辺境にある小さな村に、カインという青年が暮らしていた。
カインはごく普通の村人だ。特別な魔法が使えるわけでもなく、剣の腕が立つわけでもない。強いて言えば、真面目で頼み事を断れないお人好しな性格くらいが彼の特徴だった。
「よし、これで境内の落ち葉履きは終わりだな」
カインは汗を拭い、竹箒を壁に立てかけると、村のはずれにある小さな小山を見上げた。
そこには、石造りの古い祠がひっそりと佇んでいる。
村の老人たちからは、幼い頃から口酸っぱく言われていた。
『あの祠に祀られている剣には、何があっても絶対に触れてはならん。あれは遠い昔、神が封印した恐ろしい代物じゃからな』
幼い頃はその言い伝えを怖がっていた村人たちも、平和な時代が長く続きすぎた今では、誰もその教えを本気にしていない。ただの古びた伝説として、年に数回、村の誰かが祠の周りを掃除する程度だった。
「今日は僕の担当だっけ。ささっと掃除して帰ろう」
カインは雑巾とバケツを持ち、祠の重い石扉を押して中に入った。
薄暗い祠の奥、石造りの台座には、一振りの剣が鎮座している。
「……綺麗な剣だな」
埃を払おうと近づき、カインは改めてその剣を見つめた。
柄には繊細な金細工が施され、鞘のない身から覗く刃は、暗闇の中でも透き通るような美しい銀色の輝きを放っている。おどろおどろしい雰囲気など欠片もなく、まるで神話に登場する「聖剣」そのものの佇まいだった。
(触っちゃダメって言われてるけど……周りの埃だけでも払っておくか)
カインは雑巾を固く絞り、台座の表面を拭くため、そっと手を伸ばした。
剣の柄から、ほんの数センチメートル手前まで指先が近づいた――その時だった。
――ガタッ!!
「うわっ!?」
誰も触れていないはずの剣が、突如として激しく跳ね起きた。
同時に、祠全体がグラグラと揺れ始め、台座の剣から溢れ出した淡く清らかな光が、狭い室内を眩いばかりに照らし出す。
『――――――』
光の中で、カインの頭の中に直接、低く重々しい「声」が響き渡った。
それは男のようでもあり、女のようでもあり、地底の底から響いてくるような、恐ろしいほどに重厚な波動だった。
『――汝に、力を授けよう――』
「な、なんだ!? だれだ!?」
恐怖に駆られたカインは、弾かれたように後ざさりしようとした。
しかし、視界を覆っていた光がスッと収まった瞬間、カインは己の右手に目を見開いた。
「え……? な、なんで……!?」
あるはずのない重みが、右手にあった。
台座の上に祀られていたはずの美しい剣が、完璧なフィット感で、カインの右手にしっかりと握られていたのだ。
「うわああっ!? や、やばい、触っちゃった!? 戻さなきゃ!」
慌てて指を開き、剣を落とそうとする。
――だが、離れない。
指は開いているはずなのに、まるで柄と自分の手 সংস্থার、皮膚や骨ごと接着剤で硬着してしまったかのように、びくともしない。右手から力を抜いても、剣はまるで体の一部であるかのように手に吸い付いたままだ。
「ひっ……!? は、離れろ! 離れてくれよ!!」
パニックに陥ったカインは、左手で剣の身を掴み、力任せに引き抜こうとした。だがどれだけ力んでも、右手と柄は離れる気配すら見せない。むしろ力を入れれば入れるほど、柄の冷たい金属の感触が、じわじわと体温を奪っていくような不気味な感覚が襲ってくる。
「どうしよう、どうしよう……!」
半狂乱になりながら祠を飛び出すと、運悪く(あるいは運良く)、祠へ続く参道を歩いてくる一人の老人の姿があった。
豪奢な長袍を纏い、立派な杖を突いた人物――この大国バカッニアでも数少ない知識人である『賢者』だった。
「ん? 騒々しいな、カインか。祠の掃除をしてくれていたのかね……」
賢者は穏やかな笑みを浮かべてカインを見たが、カインの右手に握られたその剣に視線が止まった瞬間、顔から血の気が引いていった。
「カ、カイン……お前、その手にあるものは……まさか、その剣に触れてしまったのか!?」
「賢者様! ち、違うんです! 触ろうとしてないです! 近づけただけで急に光って、気がついたら手から離れなくなっちゃって……!」
カインが必死に右手を振って見せると、賢者の顔はみるみるうちに蒼白となり、唇をガタガタと震わせ始めた。
「ば、バカな……封印が解けたというのか……!? おい、カイン! 私の家に来なさい! 誰かに見られたらマズい、今すぐにだ!」
賢者は尋常ではない力でカインの左腕を掴むと、周囲を何度も警戒するように見回しながら、半ば引きずられるようにして己の館へと連れて行った。
* * *
賢者の館の最奥。重厚な扉に鍵がかけられ、幾重もの遮音結界が張られた書斎で、賢者は深く椅子に腰掛け、頭を抱えていた。
「落ち着いて聞きなさい、カイン」
賢者は震える手で紅茶を口にし、絞り出すような声で語り始めた。
「その剣はな……今から数百年前、かつて世界を絶望の淵に叩き落とした『魔王』がまだ隆盛を誇っていた時代に造られた、極めて古い遺物なのだ」
「ま、魔王……? でも賢者様、これ、すごく綺麗で……まるで聖剣みたいに見えますけど……」
「そこが罠なのだよ!」
賢者は机を激しく叩いた。
「見た目は神聖なる聖剣に見えるよう偽装されているが、その内実に封印されているのは、紛れもなく『魔王の残虐な力』そのものなのだ! 昔の英雄たちが命と引き換えにあの祠に封印し、二度と誰の手にも渡らぬよう隠し続けていた【魔剣】なのだよ……!」
「そんな……! じゃあ、僕、呪われちゃったんですか!?」
カインは自分の右手を見つめた。
美しい輝きを放つ刃。しかし、賢者の言葉を聞いた後では、その美しさが途端に禍々しいものに見えてくる。
「体調はどうだ? 頭痛や、恐ろしい声が聞こえたりはしないか?」
「え? あ……今のところは、特に変わったところはないです。手から離れない以外は、体調の変化もありません」
「……そうか」
賢者は少しだけ安堵の息を漏らしたが、その瞳に宿る陰りは消えなかった。
「だが、油断はできん。魔剣が何故お前を選び、手を離さないのか……私にも分からんのだ。とにかくカイン、その剣のことは誰にも話してはならん。街の者に見られぬよう、布でも巻いておきなさい」
「は、はい……!」
賢者の館を後にしたカインは、手に固く布を巻き付けながら、重い足取りで歩き出した。
(ただの村人の僕が、魔王の剣を持っちゃうなんて……これからどうすればいいんだよ……)
手に離れない魔剣の冷たさを感じながら、カインはまだ知る由もなかった。
この小さな手のひらから、やがて世界を揺るがす「勘違い」と「破滅」の物語が始まっていくことを――。




