第24話 生きて帰れ
裕太は叫ぶと、反射的に猟銃を構えた。
狙うのは、羆のすぐ横に停められた黒いミニバン――
その車体下部にある、燃料タンク。
合図と同時に、残りの三人も一斉に軽トラへ向かって走り出す。
『グァオオオオオ!ヴゥゥゥゥ!』
羆はそれを見るなり、腹の底から雄叫びを上げた。
そして猟銃を構える裕太だけを標的に定め、一直線に突っ込んでくる。
『来たぞ!!!』
浩平が裕太の横を全力で駆け抜け、振り返る。
直樹と彰宏も走りながら、反射的に後方を見た。
次の瞬間――
パァーン!
パァーン!
乾いた銃声が、間を置かず二度響いた。
ミニバンの側面に、スラッグ弾の弾痕が二つ刻まれる。
だが、爆発は起きない。
燃料タンクを掠めたかどうかさえ、判断できなかった。
『……くそっ!!』
裕太は吐き捨て、即座にリロードに入る。
銃身を折り、薬室を開放。
白い煙を吐きながら、薬莢が排出された。
羆は二度の銃声に一瞬だけ身を硬直させたが、弾が当たっていないと理解すると、再び裕太へ突進する。
裕太はそれを視界の端で捉えつつ、ハンティングベストに差した弾へ手を伸ばした。
──散弾か、スラッグ弾か。
一瞬の迷い。
その間にも、羆は確実に距離を詰めてくる。
生死を分ける瞬間。
時間が引き延ばされたように、世界が遅く流れ始めた。
裕太の手は、無意識のままスラッグ弾を二つ掴み取っていた。
薬室に装填し、銃身を起こす。
ジャキン!
金属音と共に、リロードが完了する。
羆はすでに黒いミニバンの横を通り過ぎていた。
距離は――
7メートルを切っている。
このまま迎え撃つか。
それとも、別の車の燃料タンクを狙うか。
引き金に掛けた指が、動かない。
──死にたくない。
恐怖が思考のすべてを覆い尽くした、その瞬間。
『裕太ー!!』
『裕太さん!!』
『裕太さん…!!』
三人の声が、重なった。
『……!!』
その声が、裕太を引き戻した。
裕太は照準を切り替える。
羆が通り過ぎようとしている、白いSUVへ。
アイアンサイト越しに見える、後輪上部。
ボディパネルに給油口の蓋がある。
冷静に。
慎重に。
引き金を引いた。
パァーン!
弾は給油口の真下に命中する。
――だが、爆発しない。
羆は怯むことなく突進を続ける。
残り一発。
これでダメなら、距離は5メートルを切る。
リロードは間に合わない。
数秒先の死。
それでも裕太は、この一発にすべてを賭けた。
『うあああああぁぁぁぁ!!!』
叫びは、意志そのものだった。
生きて帰る――
その衝動が、声となって爆発する。
その時。
雪に混じり、光の粒子が頭上から降り注いだ。
『…!?』
浩平たち三人は、一瞬、目を疑った。
視線を上げる。
そこに浮かんでいたのは、
オーブのような、透明な球体。
それは激しく震え、裕太の叫びに呼応するかのように明滅している。
光の粒子が裕太の身体に宿った瞬間、
猟銃全体が淡く発光した。
光は幾何学模様へと変わり、機関部を中心に瞬時に銃全体を包み込む。
引き金を引いた、その刹那。
銃口の先端に、同じ幾何学模様が円を描いて浮かび上がった。
裕太は、確かにそれを見ていた。
パァーーーン!!!
轟音と共に、弾は幾何学模様を突き破るように発射される。
肩に走る反動は、これまでとは比べ物にならないほど重い。
──ガガンッ!
シュゥゥ……
チッ……
ボゴォォォォーーーン!
給油口の真下に命中した弾は、一瞬の間を挟み、閃光と共に大爆発を起こした。
『…っ!!!』
爆風と衝撃波。
保育園の窓ガラスが砕け散り、裕太は後方へ吹き飛ばされる。
『グアアァァ!!アァァァァァ!』
羆は半身を爆炎に焼かれ、地面を転げ回った。
キーーーン……
耳鳴りの中、裕太は必死に身体を起こそうとする。
だが、力が入らない。
『…つっ…!……はぁ……はぁ…うぅぅ……』
身体を強く打ち、呼吸すらままならなかった。
『裕太!!大丈夫か!!』
浩平がすぐさま裕太の元へ駆け寄る。
『…い、いいから…早く……車……出せ……』
『何言ってんだよボロボロのくせに!』
浩平は裕太に肩を貸し、無理やりその場に立たせる。
裕太の身体は力なく揺れ、足取りは覚束ない。
ふらつきながら歩きつつ、浩平は無意識に後ろを振り返った。
羆はまだ地面に伏したまま呻き声を上げている。
だが、その眼は確かにこちらを捉えていた。
野生動物特有の、執念深い光。
浩平は背筋を冷たいものが走るのを感じた。
『バケモンかよ…!』
羆の視線を背中に感じながら、ようやく駐車場の入り口へ辿り着く。
『裕太さん!!』
男の子を荷台に乗せ終えた直樹と彰宏が駆け寄ってきた。
『だ…大丈夫っすか!?』
手足さえろくに動かせない裕太を見て、直樹は明らかに動揺している。
『爆発の衝撃で吹っ飛ばされて、頭や背中を打ったみたいだ…』
『マジすか!?裕太さん大丈夫すか!?乗れますか!?』
『とにかく荷台に乗せましょう!荷物下ろして!』
彰宏と直樹は軽トラに積まれていた物資の段ボールを次々と地面へ放り投げ、空きスペースを作る。
三人で息を合わせ、裕太の身体を慎重に担ぎ上げた。
『いくぞ、せーの!』
『…つっ!痛って!あぁぁ!』
『ごめんなさいごめんなさい!』
『相当痛がってますね…どっか折れてんじゃ…?』
『手当してる時間はない、いくぞ!!』
浩平は運転席へ飛び込み、彰宏と直樹は荷台へ乗る。
男の子と裕太の傍に、それぞれ腰を下ろした。
キャキュキュ…キュキュキュ…
キーを回すが、セルモーターが虚しく唸るだけでエンジンは掛からない。
『くそ!!ベタなことしてんじゃねぇ!』
焦りと緊張で、キーを握る手に力が入る。
『こ…浩平さん…!』
荷台から、直樹の不安げな声が響いた。
『待ってろ!焦らせんな!』
浩平は短く返すと、再び始動操作を続ける。
『浩平さん!』
再度、直樹の声。
さっきよりも明らかに切迫していた。
『分かってる!』
セルに合わせてアクセルを踏み込む。
だが、エンジンは依然として沈黙したままだ。
浩平は埃にまみれたメーターを手で拭い、警告灯を確認する。
『浩平さんってば!!!後ろ!!!』
三度目の叫び。
もはや悲鳴に近い声だった。
『なんだよ!?………!!!』
浩平は思わず顔を上げ、バックミラーを見た。
そこに映っていたのは、保育園の入り口に立つ羆の姿だった。
爆炎を浴びた半身は毛がほとんど失われ、赤黒く焼け爛れている。
血が地面へ滴り落ち、立っているのが不思議なほどの状態。
それでも――
羆は、じっと軽トラを睨んでいた。
バックミラー越しに目が合う。
その瞬間。
キュキュキュキュ…
ボゴン!
ボロロロロ……
マフラーから白煙を噴き上げ、エンジンが息を吹き返した。
『しっかり掴まってろよ!!!』
浩平は叫び、アクセルを床まで踏み抜く。
ブォォォォォォォン!
エンジンが唸りを上げ、一気に回転数が跳ね上がる。
クラッチを繋いだ瞬間、車体が大きく揺れ、
キャァァァ!
という甲高いスキール音を響かせながら急発進した。
『うわあああああ!』
荷台は激しく揺れ、振り落とされそうになる。
彰宏と直樹は思わず叫んだ。
『……ヴヴヴガァァァァ!!』
羆は血を撒き散らしながら、走り去る軽トラを追う。
軽トラも速度を上げるが、羆の瞬発力に距離は徐々に詰まっていく。
『浩平さん!!もっとスピード上げて!!はやく!!!』
直樹はリアガラスを叩き、必死に叫ぶ。
その横で彰宏は男の子を抱き寄せ、荷台の柵にしがみついていた。
荷台には、段ボールからこぼれた物資が転がっている。
その中に、場違いな園芸用のポンプ式スプレーボトルがあった。
浩平はバックミラー越しにそれを見つける。
『そうだ!!直樹!!!そのスプレーを羆にぶっかけろ!!!』
ギアを上げながら、叫ぶ。
『スプレー!?なんすかこれ!?』
『俺特製の熊避けスプレーだ!!高校の厨房にあった材料で作った!デスソースなんかも混ぜてある!』
『熊避けスプレー!?もしかして秘密兵器ってこれのことっすか!?』
『あぁ!!無傷の羆には効くかどうか分からんが、あいつは火傷を負ってる!!傷口に沁みるはずだ!!』
『分かりました!!』
直樹はスプレーボトルを掴み、ポンプを力一杯押し込む。
次第にポンプが固くなり、これ以上空気が入らなくなった。
その瞬間。
『これでも喰らえぇぇぇぇ!!!』
直樹は羆へ向けて、スプレーを噴射した。
ブシャァァァァァ!
霧状の液体が空中に広がる。
羆はそれを全身に浴びた瞬間――
『ガッ!?グォォォォォ!ヴヴヴヴヴゥゥゥ!』
悲痛な叫び声を上げ、勢いが鈍る。
そしてついに転倒し、地面をのたうち回った。
『効いてます!!!やったあああああ!!!』
『っしゃぁぁぁぁぁ!!!』
軽トラは歓声だけを残し、その場を走り去っていった。
後には、苦痛に喘ぐ羆だけが残された。
『ヴゥゥ……ヴゥゥ……ヴゥゥゥ……』
完全に日が暮れ、住宅地は闇に包まれ始めている。
道路の中央で、羆は唸り声を細くしながらうずくまっていた。
その声は次第に弱まり、やがて途切れ途切れになる。
いつの間にか周囲の建物には、カラスの群れが舞い戻っていた。
彼らは電線や屋根に止まり、羆が完全に沈黙するのを、ただ静かに見つめている。
羆は、軽トラが走り去った方向に顔を向けたまま、
ゆっくりと、瞼を閉じた。
だが――
頭上には、先程のオーブのような球体が、
まるで見届け人のように、静かに浮かんでいたのだった。




