第19話 奪われなかったもの
ギィィィ…ガシャン…
裕太たち四人は、保育園の敷地を囲むフェンスの扉を開けて、園庭の中へ入った。
避難民の車が、隙間なくきっちりと並んでいる。
滑り台などの遊具は、端に追いやられたままだ。
車の屋根には枯葉が積もり、その上に降り出した雪がうっすらと白く乗っている。
長いあいだ動かされていないことが、ひと目で分かった。
四人はそれぞれ武器を構え、車の間を縫うように慎重に進んでいく。
『ん?……あれは…』
園庭の中ほどで、裕太の後ろを歩いていた彰宏が立ち止まった。
『ど…どうしました?』
直樹が上ずった小声で尋ねる。
『ほら…あのミニバンの奥…めちゃくちゃカラスが溜まってる…』
彰宏が指差した方を見ると、十羽以上のカラスが一点に固まっていた。
だが車のガラスに夕陽が反射し、その向こうで何が起きているかまでは見えない。
『ほんとだ……って、ちょっと彰宏さんどこ行くんですか! やめた方がいいっすよ!』
『………』
直樹と浩平が慌てて制止するが、彰宏は吸い寄せられるように、カラスの方へそっと歩き出す。
『大丈夫大丈夫…ちょっと近くに寄るだけ…何かあるみたいなんだ…』
じゃり…じゃり…
園庭の土を踏みしめる音だけが、夕闇に遠ざかっていく。
彰宏は身の危険を感じながらも、好奇心を抑えきれず、一歩一歩、目を凝らしながらカラスの集団へ近づいていく。
相変わらず、車のガラスや車体には夕陽が反射していて、近寄ってもその奥までは見通せない。
その時、雲が一瞬だけ夕陽を隠した。
光の反射がすっと消える。
眩しさが引いたその先の光景が、ゆっくりと、輪郭を現していく。
パキッ……
枯れ枝を踏み折る小さな音が響いた。
『ガァ…』
一羽のカラスが短く鳴き、くるりと振り返る。
その嘴からは、白く濁った眼球がだらりとぶら下がっていた。
揺れる瞳が、まっすぐ彰宏を見つめる。
カラスはそれを、彰宏の目の前で丸呑みしてみせた。
その周りでは、他のカラスたちが群れになって、園庭に横たわる避難民の遺体を貪っていた。
『うわああああああ!!』
彰宏は反射的に叫び、腰を抜かして尻餅をついた。
『ガアアァァ! ガァァァァ! ガアァァァ!』
声に反応して、カラスの群れが一斉に飛び立つ。
黒い塊が空中を旋回し、そのまま彰宏へ襲いかかってくる。
『うわぁぁぁ! こっち来んなって! やめろ! 痛て!! 痛ってぇぇー!』
『彰宏さん!』
『やべぇ! なんとかしねぇと!』
直樹と浩平はボウガンを構えるが、素早く飛び交うカラスを前に、狙いが定まらない。
彰宏も必死に立ち上がり、盾と槍を乱暴に振り回すが、空を切るだけだった。
『どうした!?』
騒ぎを聞きつけた裕太が、猟銃を構えながら駆けつける。
『彰宏さんがカラスの群れに…!』
『裕太、撃てるか!?』
『うわああ!! 助けてぇぇ!!』
取り乱す三人の声を聞きながら、裕太は一瞬で状況を把握した。
考えるより先に、身体が動く。
ガチャガチャガチャ…バチン!
上下二連の中折れ式猟銃から素早く弾を抜き、鳥用の散弾を二発装填する。
そのまま銃を構え、引き金に指をかけた。
『彰宏さん! そのまま伏せて! 今すぐ!!』
裕太が叫ぶ。銃口はカラスの群れ全体を捉えている。
『は、はい!』
彰宏は言われるがままに、その場に伏せた。
『今だ!』
バーーン! バーーン!
乾いた銃声が二度、園庭に響く。
『ガアアァァ! ガァァァァ!』
その瞬間、屋根や電線にとまっていたカラスまで一斉に飛び立ち、黒い影となって夕闇へ消えていった。
散弾は数羽のカラスを捉え、バタバタと園庭に落ちていく。
彰宏の周囲には、黒い羽根が雨のように散らばった。
ガチャ…
キーーーン…
カランカラン…
猟銃から薬莢が排出され、地面に転がる。
耳鳴りだけを残して、あたりは再び静まり返った。
『…彰宏さん大丈夫ですか!? 弾当たってませんか!?』
三人は伏せたまま動かない彰宏のもとへ駆け寄った。
『た…たぶん大丈夫です…当たってないと思います…』
彰宏が恐る恐る顔を上げる。
ジャンバーはあちこち破れ、両手や頭、顔には無数の切り傷やえぐられた生傷ができて、血を流していた。
『危なかったな……てゆーか、めちゃくちゃギリギリだったんじゃねぇのこれ…』
浩平が、車体や窓ガラスに残った弾痕に指先を当てる。
『迷ってる暇なんてなかったからな…被弾や跳弾も覚悟の上だった…』
裕太は静かに返しながらも、彰宏の怪我の具合を念入りに確認している。
『と…取り敢えずすぐに手当しないと…めっちゃ血ぃ出てますって……軽トラに積んだ物資の中に救急セット入ってませんでしたっけ?』
『あったなそういや…すぐ戻ろう。彰宏さん立てますか?』
直樹と浩平が肩を貸し、彰宏を立たせる。
『すいません本当に…俺は大丈夫ですから…
………それよりも…』
彰宏は手や袖で血を拭いながら、園庭に横たわる遺体へ視線を落とした。
『!!! うぉぇぇっぷ…』
『っ…!…これは…酷ぇな…』
直樹と浩平は、遺体の損傷に思わず顔を背ける。
裕太だけが、距離を保ったまま冷静に状態を観察していた。
『………頭と上半身に傷が集中してる……
……羆だな』
裕太はそう呟くと、ゆっくり立ち上がり、周囲を見回した。
血を含んだ何かが引きずられたような跡が、保育園の建物から耕作放棄地の方へ向けて、車を縫うように途切れ途切れに続いている。
四人はその痕跡を辿った。
園庭を囲む鉄製のフェンス、そのうち耕作放棄地に面した一部が、外側からこじ開けられたように破壊されている。
『あそこから入ったんだな…フェンスをぶっ壊して…』
『マジかよ…鉄だぞ…』
浩平は愕然とした表情で呟く。
今度は、痕跡を保育園の建物側へ辿っていく。
外側から割られた窓ガラスがあり、そこから吹き込む風に、カーテンが音もなく揺れていた。
『…………』
裕太は、しばらく無言でその場を見渡すと、三人の方を振り向いた。
『……ここはもう…ダメです…羆の餌場になってしまった。完全に奴らの縄張りです。
しかも一頭だけじゃないみたいだ。わずかに残った足跡の大きさに、多少のバラつきがある…
…少なくとも四頭以上はここを出入りしている』
『そ…それって母熊と子熊ってことですか…?』
直樹が、声を震わせながら尋ねる。
『子熊の足跡もあるが…成獣サイズの足跡がいくつかある。
母熊以外にも成獣の羆が出入りしてるんだ。
…それも雄が何頭か…な』
『父熊…ってことですか?』
『いや…羆は本来、群れで行動なんてしない。
子熊を連れて歩くのは母熊だけ。
雄の羆は基本単独行動で、それぞれ馬鹿でかい縄張りを持ってる…
だから雄同士が同じエリアにいるなんて事はあり得ないんだよ』
裕太は険しい表情を崩さず、淡々と語る。
『そ…それって、市街地に出たっていう羆の群れってことじゃ…』
『あぁ…市街地だけじゃない。札幌や千歳、函館に苫小牧…そういった都市部に現れた羆の群れ…
多くは駆除されたが、各地で尋常じゃない被害をもたらした。
それの生き残りなのか…』
『マジかよ…やべぇだろ…あいつらライフルでも死なないんだろ?』
浩平が唾を飲み込みながら言う。
『……平均5発。
都市部に出没した羆の群れ、一頭を仕留めるのに掛かった弾の数だ。
俺も市街地で何頭も駆除したから分かる…
…大体5、6発は撃ち込まないとあいつらは止められない』
『…………』
三人の顔から血の気が引いていく。
『とにかく帰ろう。銃声を聞きつけて奴らが戻ってくる前に…もうじき完全に日が暮れる。真っ暗になる前に避難所に戻らないと』
『…そうだな、これ以上ここにいると絶対にやばい』
『早く帰りましょう…!』
裕太、浩平、直樹の三人は、周囲を警戒しながら軽トラの方へ戻り始めた。
だが、彰宏だけはその場から動けずに立ち尽くしていた。
じっと、横たわる遺体を見つめている。
『彰宏さぁん…もうこれ以上は無理っすよ…! マジで俺ら死んじゃいますって! 帰りましょうよ…』
それに気づいた直樹が、半ば泣きそうな声で懇願する。
『……声が聞こえた気がしたんだ…』
『…え…?』
『この人の声が…聞こえたような気がしたんだ…助けてって…』
『ちょっと…こんな時に何言ってるんすか…そんな訳ないじゃないですか…』
『そうだよね…でも聞こえたんだよ俺には…そしたら、この人がここに倒れてたんだ…』
『…いいからマジで早くして下さいよ!』
直樹は動こうとしない彰宏の腕を掴み、強引に引っ張ろうとする。
その時。
横たわる遺体の右手が、固く握りしめられているのが目に入った。
『!!…ごめん…待ってくれ!』
彰宏は直樹の手を振りほどき、遺体の右手にそっと触れた。
強張った指を、少しずつ開いていく。
『彰宏さん…』
直樹はそれ以上は止めなかった。
浩平と裕太も気づき、少し離れた位置から、二人の様子を黙って見守る。
『…これは…』
右手が握りしめていたのは、車の鍵に付けられた家族写真のキーホルダーだった。
正装した両親に肩へ手を置かれ、まだ小さな男の子が、満面の笑みで笑っている。
それを、絶命した後もなお「これだけは奪わせない」と言わんばかりに、固く、強く、握りしめていたのだ。
ぽた……ぽた………ぽた………
彰宏の両目から、傷だらけの頬を伝って涙が落ちる。
『…っぐ…ひっぐ……うぅ…間に合わなくて…助けられなくて…すいません……うぅぅ…』
キーホルダーを顔の前で強く握りしめ、何度も溢れ出る涙を拭う。
『……………』
誰も、言葉が出ない。
『5分だけ…いや…3分だけでいいですから…保育園の中を確認させて下さい…
俺には…市役所の職員として…間に合わなかった責任として…全てを見届ける義務があります…
…じゃないと俺はこの人に…一生顔向けできません…!』
それは彰宏一人が背負うには、あまりにも重すぎる現実だった。
涙ながらに語ったその言葉に、三人はただ静かに頷くしかなかった。




