第14章
家に帰り着くと、ちょうど絵美も帰ってきたところだった。
「あれ?絵美姉ちゃん、早くない?」
「うん、ちょっと具合悪くてね、早退させてもらった」
「そうか、何かいるものあるか?」
「ない。ねぇ純哉、移植のことなんだけど」
純哉は絵美を見て思った。きっと真面目な絵美はずっとそのことを考えていたんだろうと。何となく痩せてしまっている気がした。
「ドナー、私が・・・」
「姉ちゃん、唐突で悪いんだけど、明日大学病院に電話するわ。ドナーには俺がなるよ」
「え、でもさ・・・」
「ぶっちゃけね、怖かったんだ、すげぇ怖かったのね、自分のことが。母さんのことを一番に考えなきゃって思っても、ひとりになったりすると、あ、自分のことが心配なんだ、って思ったのね。でも、やっぱり母さんには俺の肝臓をあげて生きてもらいたいんだ」
「私、大丈夫だよ、傷のことも」
「うん、分かってる。絵美姉ちゃんは大丈夫だって、マジで思ってるのも知ってる。でも悪いけど譲れないよ。俺、自分自身のためにも母さんに肝臓をあげる。姉ちゃんはさ、支えてよ。母さんと父さんと、俺のこと」
「純哉」
絵美の目にはかすかに涙が浮かんでいた。
「オッケー、決まりね。夜、父さん帰ってきたら俺から話すから、姉ちゃんとりあえず寝なよ」
「うん、寝る。しばし休戦」
その夜、父親が帰ってきてから純哉は話をした。母親も呼んだ。絵美には母親に風邪がうつらないように部屋で寝ていてもらった。ドナーになることが怖かったこと、今も怖いこと、でもそれよりも、母親を自分の肝臓で助けたいこと、そしてそれは自分のためでもあること、全てをありのままに話をした。父親は純哉に深く頭を下げ、「ありがとう」と言った。母親は何も言わず、少しだけ泣いた。
第一回目のインフォームドコンセントに対するレシピエントの同意書に母親が署名捺印し、父親が連帯署名者として署名捺印した。ドナーのそれには純哉が署名捺印し、絵美の部屋で絵美が連帯署名者として署名捺印した。
「なんだかすごい疲れてた気がする」
「悪いな、俺のせいで多分そんななっちゃったんだよな」
「分かんない。でも今はできのいい弟を持って嬉しく思ってる」
二人は笑った。なんだか、とても久しぶりに二人で笑いあっているようだった。
翌日、純哉が直接、大学病院の看護師に連絡した。一ヶ月家族で話し、肝移植を受けることに決めたこと、ドナーには自分がなること、そういったことを伝えると、看護師は「分かりました。一緒にがんばりましょう」と力強く励ましてくれた。そして、ドナーの適合検査の日程を決める必要性があることを告げた。「適合検査?そういえば教授が言ってたっけ。そりゃそうか、何の検査も無しに、はいどうぞは無いよな」
通常、検査には二日を要するということであったが、他県であることもあり、なんとか詰め込んで一日で済ませてもらうこととなった。
「あ、ところで純哉さん。前回いらした際、いろいろと教授が質問させていただいた中で、喫煙と飲酒に関するものがあったと思うのですが・・・」
喫煙と飲酒については純哉も以前からインターネットで「辞めるべきである」ということを見て知っていた。
「そうですよね。あの、僕、酒はこれまでも基本的に外でしか飲まなかったから、すぐにでも止められると思うんです。でも煙草は一日一箱も吸わない、とはいっても結構難しそうな気がするんですね。ちょっと疑問だったんですけど、肝臓のことで、やっぱり煙草も止めたほうがいいんでしょうか?肺の手術とかだったら分かるんですが」
「そうですね、これはですね移植される肝臓の、というよりご自身のためです。健康体ですと、セキをしたりタンをきったりするのは何でも無いことですが、術後、大きな傷のある弱った体には非常にきつくて、痛みを伴うものなんですね。多分想像を越えるものだと思います。呼吸器関連の合併症を併発させないためにも止めることをお勧めします」
電話を切ってから純哉は術後の自分を想像した。誰もいない部屋で純哉は苦しんでいる。喉の奥の方にネバネバしたものが絡み付いて呼吸ができないのだ。ナースコールを押そうとしても手が届かない。目の前には何かの象徴のように煙草が積み上げられている。あまりにもクリアに浮かぶ映像に、純哉は辟易しつつ感心した。「最近のネガティブな想像力っていったら、そこらへんの小説家も顔負けだよな、まったく」
純哉はまだほとんど吸っていなかった煙草をゴミ箱の中に投げ入れた。なんだかさっきの想像を引きずってまだ何となく苦しい気がする。純哉はその日から酒も煙草も止めた。それはまさに「スッパリ」という表現のように、未練も何も残さない止めかただった。




