第13章
堤防からの帰り、ふと思い立って街中へ出かけた。純哉の地元は西側一面が海に面しており、海と市街地は徒歩で行き来することができるくらい近い距離にあった。「昔行ったなぁ。自然と都市との距離感がヴァンクーバーみたいなんですよね」、東京の不動産屋で働いていたとき、海外に三年赴任して戻ってきたばかりだ、という客の男からそんな話を聞いた。いくつかのマンションを案内する道中、お互いの地元の話になり、純哉の出身地を告げると客の男は何故か嬉しそうにそう言った。ヴァンクーバーが何処にあるかも純哉は知らなかったが、何となく誇らしい気持ちになった。
帰郷してから初めて歩いた市街地は、純哉の胸に淡い懐かしさを浮かべた。多少変化はしているものの、基本的な街並みは変わっておらず、純哉はそのことに、ふとした安堵のようなものを感じた。純哉は高校生のころ、バンド仲間たちと渡り歩いた路地を辿り、「あのころは何にでもなれる気がしていたな」、そんなことを思いながらひとつひとつの建物をいとおし気に眺めていた。
「あれ?おーい」
アーケードとアーケードを結ぶ広い横断歩道を渡っていると、すれ違いにふと声をかけられた。
「えー!五十嵐?」
高校のとき三年間同じクラスだった五十嵐という男だった。二人は外国人さながらにハグをして、大声で笑い合いながら再会を喜んだ。見違えるほどにスーツを着こなしている旧友は、一瞬腕にはめた時計を見てから、「仕事なんてしてる場合じゃないでしょ」、と純哉をお茶に誘った。純哉と五十嵐はアーケードの中の、彼らが高校生のときからそこにあった思い出深い喫茶店に入った。
「うわぁ、すっごい懐かしいな、ほとんど中変わってないじゃん」
「本当だ。五十嵐も高校以来か、ここ?」
「うん、そうそう。高校のころ大人ぶってよく来てたじゃん?笑えるね、今思うと」
「ホント、ホント」
五十嵐はサッカー部だった。部活もバンド活動も一緒ではなかったが、二人は高校生活の中の多くの時間を共に過ごした。五十嵐は煙草も吸ったし、パチンコもやった。つまりは少々“悪い”タイプだったのだが、それでも成績は良く、運動神経もずばぬけて良かった(実際マラソンでも煙草を吸わない純哉は五十嵐に勝てなかった)。純哉には五十嵐のような、タフでオールマイティなタイプに対し憧れすらあった。
高校卒業後、五十嵐は一発で地元にある国立大学に入学した。浪人生と大学生の間柄にはなったが相変わらず二人はよくつるんだ。大学の飲み会がつまらないときなど五十嵐から、「わりぃ、迎えに来てくんね?」というメールが来て、純哉はよく迎えに行った。二人で別の場所にくり出して、しばしば朝日が出るまで酒を飲み、語り合い、そして心ゆくまではしゃいだ。
しかし、東京に出て以来、純哉が五十嵐に連絡することは無かった。地元自体を見ないようにしてきた純哉にとって、五十嵐はある意味地元そのものだったのだ。
「いつ帰ってきたの?」
「あぁ、一ヶ月ちょい前くらいかな」
「東京行ったっきり消息不明だったもんな。で、何?夏休みか何かか?それにしたって長くねぇか?」
「いや、こっちに引き上げてきたんだ」
「えええ!おい、まじかよ。そいつはめでたい」
「何でだよ」
「いや、心の友が近くに帰ってきたなんて、めでたくて当然だろ」
「心の友ってすごいな」
まるで離れていた期間なんて無かったような再会だった。友達っていうのはこういうことか、純哉はそんなことを感じていた。
「で、どうしたの?バンド辞めたのか?」
「ん・・・」
少し迷ったが五十嵐には何もかも言っていい気がした。純哉は東京に出て、バンドはやらず、働いて、失恋して、また働いて、また失恋して、そして母が病気になったことをほとんどありのまま話した。五十嵐はその間何も言わずに窓の外を見ながら純哉の話を聞いていた。
「そうか、いろいろあったな。うん。お母さんの病気、治るのか?」
「・・・」
「相当厳しいのか?」
「あるんだ、方法、とりあえず」
「何?」
「…生体肝移植」
「セイタイカ、あ、移植か?」
「そう、それしかないんだ、もし助かるとしたら」
「じゃあれか、ドナーカード持ってる人なんかからの提供を待つわけか」
「いや違う。生きている人間から移植するんだ。だからまぁ、家族じゃなきゃいけないってこと」
「家族?ってお前?」
純哉は一瞬間を置いて答えた。
「うん、俺。…俺の肝臓を母さんの体へ移植する」
五十嵐は純哉の顔をしばらくの間、ただ見つめていた。
「そうか、移植するのか。そうか。お前、あれだな、最高の恩返しだな」
純哉は少しだけ泣きそうになり、涙をこらえて笑った。
二人はそれから高校時代の友人たちのことや、五十嵐の近況などについて三十分ほど話をした。五十嵐は大学の同級生と結婚し、WEB制作関連の会社で営業をやっていた。そして煙草を辞めていた。
「中学のころから吸ってたろ?嫁もいるし、あとな、赤ん坊いるんだなお腹に」
「えぇ!まじかよ」
「うん、だからさ、辞めたんだ。別に健康のためとかだったら辞める気もなかったけど、簡単なもんだ」
五十嵐と純哉は喫茶店の出口で別れた。「手術が終わったらさ、ゆっくり会おうよ」、純哉は五十嵐にそう言った。五十嵐は微笑んで「待ってるよ、マイフレンド」と答えた。
握手をして手を振り、五十嵐は腕時計を指さしながら、おどけて小走りで人波の中へ消えていった。五十嵐の姿が完全に見えなくなると、純哉は一瞬瞼を閉じた。自分の気持ちと、正面から素直に向かい合い、耳を澄ませ、そして自分の中で、かけがえのない答が生まれたのを感じていた。「ありがとうマイフレンド」純哉は心の中でそう囁いた。