9 公爵家タウンハウス1
王城を出たクラウスは、徒歩で公爵家のタウンハウスへ向かった。
歩いて門を潜ったのは初めてだ。こんな時に不謹慎だとは思うが、冒険に出かけるようで楽しかった。
いつもとは違う地味な装いの王子に、町の人々も気づかないようだ。
公爵家のタウンハウスは、力のある諸侯の邸宅だけあって威風堂々とした威圧感のある建物だった。
クラウスはごくりと唾を飲み込む。
父王は『公爵家は婚約を継続してやってもいいといっている』と言っていたが、あのルゼッタ公爵がそれを望んでいるとは思えない。婚約の継続を望んだのは、きっとエリーヌだろう。
エリーヌがなにを考えているのかは、いまだに分からないが、クラウスは彼女を疑うのはもうやめようと決めた。
エリーヌに会い、彼女の気持ちを確かめる。そして彼女を通して公爵家の考えも確かめる。
それがクラウスが公爵家を訪れた理由の一つであった。
勿論もっと大事な理由もあった。そのためにもエリーヌに会わなければならなかった。
怯む気持ちを抑えクラウスが公爵家の門を叩くと、顔見知りの執事が王子を出迎えた。
老齢の彼は、王子を見ると微妙な顔をした。
「お一人でいらしたのですか」
「おかしいか」
もちろんおかしい。だが執事は賢く沈黙した。幼いころから知っているので、この王子のものの考え方が少しズレているのは承知していた。
「どうぞ。お嬢様がお待ちです」
門前払いも覚悟していたのだが、父王の言葉通り、公爵家はクラウスを許すつもりがあるらしく、エリーヌとの面会はすんなり許された。
玄関ホールの脇にある応接室に案内されながら、クラウスは公爵家の雰囲気が普段とは微妙に異なっていることを感じた。
いつもなら客を迎えるのはもっと若い執事だ。この老齢の執事は公爵の秘書も兼ねているため、公爵の不在時にはいないはずなのだが。彼に公爵のことを訊ねると、公爵は視察に出ていると答えが返った。
彼が公爵ではなくエリーヌの側にいることを、クラウスは訝しく思った。
応接室に王子を迎え入れた公爵家の使用人たちは、呆れるほど普段通りだった。クラウスの失態などなかったかのように振る舞う彼らだが、仕えている家の令嬢を馬鹿にされたのだ。内心では腸が煮えくり返っているのではないだろうか。
普段は使用人の反応など気にしないクラウスだったが、さすがに今日は緊張していた。
応接室で待つこと数分。エリーヌがやってきた。
決闘のあと、呆然として数日部屋に引きこもっていたクラウスにとって、久しぶりに見るエリーヌは相変わらず美しい女だった。
だが派手な衣装とメイクで周囲を睥睨していたエリーヌはそこにはいなかった。
舞踏会や学園で見せていた派手さはなりをひそめ、シンプルで控えめな印象を覚えるドレスを着た彼女は自然体で寛いでいるように見えた。
シンプルだが上質な素材が使われ丁寧に作られたドレスは、意外にも彼女に似合っていた。
化粧も控えめで、美しい彼女の素顔を引き立てるナチュラルメイクは、昔の彼女を思い出させ、不覚にもクラウスは見惚れてしまった。
言葉を失ったクラウスの様子を疑問に思ったのか、エリーヌが少し首を傾げる。
婚約破棄までしようとした女を相手に、なにを考えているんだ。
クラウスは慌てて自分に喝を入れた。
「久しぶりだな、エリーヌ。面会を許してくれた事、礼を言う」
「今日はずいぶん殊勝ですのね」
「喧嘩を売りに来たわけではないからな。それに、お前との決闘は、それなりに堪えた」
珍しく素直なクラウスの言葉に、エリーヌは目を見開いた。
「まさか女性に負けるほど、己が不甲斐ないとは思わなかった」
エリーヌとの決闘での敗北は、クラウスの心を容赦なくへし折ってくれた。
一対一の決闘。しかも相手はか弱いはずの女性。その女性に決闘には向かないはずの魔法でぼこぼこにされたのだ。言い訳のしようがない。
むしろ剣士に何もさせずに勝利した彼女を称賛したい気持ちがあった。
先手必勝。あれほど見事な腕前は見たことがない。決闘慣れしているという言葉がすんなり納得できた。
エリーヌは少し考え込んだあと、おもむろに口を開いた。
「殿下は騎士団長に勝てますか?」
不意の言葉に、クラウスは戸惑いを隠せなかった。
なぜここで騎士団長の話題が出てくるのだろう。
騎士団長のことはよく知っている。騎士に憧れるクラウスに剣を教えてくれた相手だ。
彼はこの国一番の戦士であり、クラウスの尊敬する騎士でもあった。
「いや。剣は学んでいるが、騎士団長のような本物の戦士に勝てるほどの腕ではない」
戸惑いながらもクラウスは本音で答えた。卒業後、騎士として叙任される予定だったが、いまとなってはそれは不確かなものだ。剣によって自信を得ていたクラウスは、負けた時に自信も失っていた。
「ではそれほど気にすることはありませんわ。魔法を使われれば、騎士団長でも苦戦なさるでしょう」
どういう意味だろう。確かにエリーヌは見たことのない攻撃魔法の使い方をしていたが、いわゆる『魔法』と呼ばれるものに騎士団長が苦戦するとは思えない。
負けた当事者であるクラウスでさえそう思ってしまう。そのくらい、本来なら『魔法』の価値は低いのだ。決闘の場においては。
「まさか」と否定するクラウスの前で、エリーヌは確信を込めた言葉を発した。
「我々の『魔法』とは、そういうものなのです」
『我々の魔法』。つまりルゼッタの魔法ということか。ルゼッタ公爵家が魔法の大家であることは、魔法に興味のないクラウスも知っていた。
だがクラウスの知る魔法は、発動までに時間がかかり、威力も剣には及ばない、およそ実戦で使えるものとは思えない代物だ。
この国の王家もルゼッタと同じく古い血統なので、王子であるクラウスも普通より強い魔法を使えるが、それでも実戦で魔法を使う選択肢はない。
詠唱に時間がかかりすぎるのだ。
エリーヌのウォーターボールより威力のある魔法を放つことができるクラウスでさえそうだ。速さが肝となる実戦で魔法が使われる場面はほとんどないといえた。
しかし、エリーヌが『魔法』でクラウスを圧倒したのも事実だ。
決闘の時に見せられたエリーヌの魔法は、いささか規格外だったように思える。
無詠唱魔法が来るとは思わず油断していたのもあったが、魔法が発動するまでの速さも、連続して放たれる魔法も、見たのは初めてだ。
そういう技術があることは、知識としては知っていたが、知識として知っているのと実際に見るのとでは大きく違った。
「あれは普通の魔法ではないのか」
「基本は同じです」
「公爵家独自の術式ということか」
エリーヌは口角を上げ。
「秘密です」
ふふふ、と悪戯っぽっく笑った。
彼女の使う魔法について、気にならないわけではなかったが、この様子では口を割ることはないだろう。
そもそも諸侯は王に従ってはいるが、一国一城の主だ。家中の秘を外に教えることは無い。
興味深い話題ではあるが、やぶ蛇になっても困る。
クラウスは話題を変えることにした。
「エリーヌ。今日は、お前に話があって来た」
「わたくしもですわ」
クラウスは返事に困った。そう返されるとは思わなかった。
すんなり面会が許されたのは、これが理由だったのか。
エリーヌがする話に心あたりはなかったが、聞かないわけにはいかない。
それに普段とは違う公爵家の様子から察するに、重要な話かもしれない。
自分のしようとしている話が、切り出しにくい事柄であることもあって、クラウスは話の先をエリーヌに譲ることにした。
「では先にお前の話を聞こう」
では失礼させていただいて、と軽く頷き、エリーヌは真剣な瞳をクラウスに向けた。
彼女はいつも作り物のような笑顔で感情や情動を隠しているので、これはとても珍しい。
クラウスは背筋を伸ばし真剣に耳を傾けた。
「今回の事、殿下がどのように思われているかは分かりませんが、わたくしにとっては予想通りの事でした」
「どういう意味だ」
「初めて殿下にお会いした時に、殿下が身分の低い女性を愛する未来が見えましたの」
エリーヌの言葉にクラウスは絶句した。
未来が見える。なんとも夢のある話だが、現実にはありえない。
魔法の古書を紐解いても、そんな技術は見当たらなかった。
「馬鹿なことを」
クラウスはエリーヌの言葉を一蹴した。彼女を疑うわけではないが、あまりにも荒唐無稽すぎる言葉なので受け入れられない。
『初めて会った時』というのがいつの事を指しているかはわからないが、エリーヌのデビュタントの時でさえ、クラウスはリリアナに出会ってさえいない。
一年前に彼女が学園に編入して来なければ、あれ程に身分の違う娘とは、言葉を交わすことさえなかっただろう。
「信じられないのも無理はありませんわ」
エリーヌも信じてもらおうと思って言い出したわけではないようだ。否定されてもあたりまえのような顔をしていた。
それはそれで腹が立つ。
「説明しろ」
エリーヌの話を聞くため、クラウスは本腰を入れた。
しかし続くエリーヌの言葉は、説明とは程遠いものだった。
何故とはお聞きにならないで、とエリーヌは前置きした。答えられない事だから、と。
「でも未来を知っていたからこそ、わたくしにとってあれは、裏切りではありませんでした」
クラウスは混乱した。
説明できないとはどういうことだ。
あれほどの魔法技術を持つエリーヌの言うことだ。仮に公爵家秘蔵の魔法古書の中に、クラウスの知らない『未来を見る魔法』があったと言われても、彼は信じただろう。
彼女を疑わないと決めた、ということは、彼女を信じると決めたことに等しい。説明さえしてくれれば、それがどんな内容でもクラウスは信じようとした。
だが説明できないというなら、やはり彼女の言葉は妄言としか思えない。
「それが、お前が話したかった事か」
苦り切った顔で言葉を抑え、目を逸らしたクラウスに、エリーヌは容赦のない攻撃を仕掛けてきた。
「いいえ。話はこれからです。殿下。もしリリアナ様と添い遂げたいとお望みでしたら、力を貸してさしあげますわ」
なにを言われたのか分からず、クラウスは一瞬言葉を失ってエリーヌを凝視した。
未来が見えたという妄言より、信じられない言葉だった。
仮に、エリーヌの妄言が本当の事だったとしよう。
初めて会った時に、浮気するとわかっていた相手に心を許せるだろうか。
答えは『否』だ。
そう考えれば、これまでのエリーヌの冷たい態度も頷ける。
いつか裏切るとわかっている相手に、本当の笑顔を見せられるはずがないだろう。
もしクラウスがエリーヌの立場だったとしたら、エリーヌに近づかなかっただろうか。
デビュタントで出会ったエリーヌを思い出し、クラウスは顔をしかめた。
たとえ自分を裏切るとわかっていたとしても、クラウスはエリーヌを手に入れただろう。そして決して裏切れないように鳥かごに閉じ込めようとしたはずだ。
そう考えると、エリーヌはなんとも寛大な女だった。
裏切るとわかっている相手を野放しにして、裏切りの結末を迎えた。
いや、結末は迎えていないか。彼女は実力で裏切りをねじ伏せた。
だが、そうまでして引き離した相手との仲を、今度は取り持つだと?
寛大を通り越して異常だ。
エリーヌを信じようと決めてはいたが、なにを信じればいいのかわからなくなった。
「何故だ」
言葉を失ったクラウスだが、気を取り直してそう問いかけた。クラウスにはまったく想像がつかないが、エリーヌがそう言うにはなにか理由があるのかもしれない。
「好きな方と一緒になれないのは、お可哀相ですもの」
「馬鹿にしているのか」
「いいえ。殿下の事は、心からお慕いしております」
それとこれとは話が違う! クラウスは悲鳴を上げそうになった。
その言葉を告げたエリーヌは、見慣れた仮面のような笑みを浮かべた。
もう彼女の真意を確かめるどころではなくなった。
エリーヌに翻弄され続け、クラウスの心は千々に乱れた。