エピソード05「子猫の告白」
セントジェームスパークで野生のリスと遊んだ後、私達はバッキンガム宮殿の塀の外から直立不動な衛兵達を眺めて、それからグリーンパークを通り抜けてナイツブリッジのハロッズの外観だけを見物し、ハイドパークをプラプラ散歩してオックスフォードストリートへ、
他愛の無いおしゃべりをしながらリージェントストリートでウインドウショッピングして、ピカデリーサーカスのエロスの像に辿り着く頃には、ずっと私の手を握った侭だったしおりの手が、いつの間にかそれ程恥ずかしい物では無くなっていた。
本当のところを言えば、この時には既に、私は、この手を離す事が、辛くなり始めていたのかも知れない。
でも、きっとそれは、二人にとっての最善では無い事は明らかだった。
お望み通り、ロンドンの日本食料理屋で夕食のテーブルに付いた頃、いよいよ私は、まるで自分自身に言い聞かせるかの様に、その話題を切り出した。
正:「どうだ、いい加減ロンドンは気が済んだんじゃ無いか?」
栞:「そうね、クロテッドクリームとハーブコーディアルが、噂ほど人気じゃ無い事はよく判ったわ。」
食前酒にスペインのカヴァを注文して、二人で乾杯する。
続いて幾つかの握り寿司と、牛のたたき、野菜の天婦羅、その他、口当たりの良さそうな和食を注文して、
正:「じゃあ、明日、日本に帰れるね。」
栞:「未だ、帰りたくないな。 ねえ、おじさんの所に、もう少し居ては駄目?」
しおりは、眉をしかめて、頬杖に顔を埋める。
正:「君は一週間だけのお客さんって約束だろ。 私も、何時までも面倒見て上げられる訳じゃない。 それに、お母さんだってきっと心配している。」
栞:「ママは心配したりしないわ。 言ったでしょう、私は「どうなってもいい子」なの。」
正:「親が子供の事を「どうなっても良い」なんて思う訳が無いよ、もし君がそう感じているなら、その気持ちについてもっとお母さんと話合うべきだ。」
私は、誰かを諭す様に、およそ気持ちの篭らない正論を呟いて、
しおりは、ちょっと失望した風に、反抗的な視線を私に向ける、
栞:「きっと無理よ。 だって私は「産まれて来る筈の無い子供」だったのだもの。 …ママとパパは、お互いの寂しさを紛らわす為に慰めあっただけ、それなのに、私が生まれてしまった。 私の所為で、ママとパパの人生はずっと不自由なものになってしまったの。 だから、私がどんなにお化粧して綺麗になっても、どんなに勉強して良い成績をとっても、二人が失ってしまった時間を埋め合わせるには足りないの。もう、取り返しが付かないのよ。」
正:「その事について、君が責任を感じる必要は無いんじゃないか?」
栞:「私が責任を感じなくても、「彼処」に私の居場所は無いの。」
栞:「私は、私が生きている意味を知りたいの。私は生まれてきて良かったのか、私は生きていても良いのか。これから先私は何をすれば赦されるのか。 学校に居て、どんなに勉強しても、ちっとも判らなかった。 世界の何処かには、私の居場所が在るのかな? 私が生まれて来た理由が有るのかな? 私はそれが知りたいの。」
正:「私だって、何一つ解っちゃいないさ。 君が感じている不安は、別に特別なモノじゃない、誰もが感じる事だし、何処に居たって感じる事だ。 心配しなくても大人になれば、何だか判った様な気にはなるよ。」
私は、誰かを諭す様に、およそ気持ちの篭らない正論を呟いて、
しおりは、ちょっと失望した風に、俯いて、
栞:「うん、…きっと、そうだね。」
それからしおりは、物分りの良い子の様に、上品に微笑んで見せた。
栞:「色々、心配してくれて、ありがとう。 手を、繋いでくれて、ありがとうね。…初めてだったから、嬉しかった。」
栞:「おじさんに、これ以上迷惑かけられないのは、ちゃんと判ってる。 明日、出て行くから、心配しないで。」
それからは、無言の食事が続き、しおりは私の少し後を歩きながら、22時過ぎに、漸くフラットへと辿り着いた。
深夜、一人ベッドの中で私は思いを巡らせる。
彼女はきっと未だ納得していないに違いないのに、本当に此の侭放り出してしまっても良いのだろうか?
だからと言って、私が彼女について、最期まで責任を取る事は不可能なのである。 私に出来る事は、彼女が、自分の居場所が無いと言った「あの場所」に、彼女を送り返す事だけなのだ。
それでも、空港へ連れて行ったとしても、彼女は再び逃げ出して、もしかすると、私を見つけた時みたいに、誰かの所へ転がり込むかも知れない。 それは、彼女にとって、とても危険な事かも知れない。
何が、私に出来る最善なのだろうか? 私は、一体何に責められる事を恐れているのだろう?
一週間も、身元不明な女の子に安全な寝床を与えてやったのだ、もう十分じゃないか。引き出しの上には、いざと言う時の為に用意した成田行きのチケットもある。 それ以上、何処までしてやらなければ気が済まないと言うのだろうか。 大体、いい大人が、見ず知らずの女の子を家に泊めている事の方が、世間一般的に見れば問題じゃ無いか。
それなのに、…しおりと繋いだ掌が、未だ熱をもって、温かい。
私は、私が「言い訳」を探し続けている事くらい、とっくの昔に気付いていた。
正:「有り得ない!」
それなのに、…私を言い包められる「理由」が、見当たらない。
元々、私は頭で考えて物事を解決出来る程、出来の良い人間じゃないのだ。
私は、ノックもせずに、しおりが眠る部屋のドアを開けて、寝相良く、静かな寝息を立てている彼女のすぐ傍ら迄、近づいて行く。
しおりは、片目だけをパチクリと開けて、
栞:「おじさん、…眠っている女の子の部屋に、断わりも無しに入ってくるのは、どうかと思うのだけど、」
それからしおりは、全てお見通しよ、という風にやんわりと微笑んで。
栞:「でも、お礼を言うわ、…実を言うと、眠れなくて退屈だったの。」
正:「そうみたいだな。」
栞:「ねえ、朝まで、お話しない、…」
しおりは、私に向かって、長くて細い、綺麗な指を差し伸ばす。
正:「君はどうして、…私を選んだんだ?」
栞:「それは違うわ、…おじさんが、私を見つけてくれたのよ。」
私は、苦笑いしながら、しおりを引き起こす。
正:「そこら辺りの事を、この際はっきりさせて置こうか、」
日の出迄は、もう少しある。
それから決めても、きっと遅くは無いだろう。