エピソード11 「子猫の帰還」
栞:「私、…逃げてきちゃった。」
私は、あっと言う間に全部放り出して、…しおりを、腕の中にきつく、抱きしめていた。
正:「酷い事されたのか?」
栞:「ううん、彼はとても誠実で、私の事を大切に扱ってくれたわ。」
とても恐ろしくて、…深く、深く重く冷たい鉄の刃物が、私の腸の奥へと潜り込むミタイだ、
でも今は、この腕の中にしおりが居る。どんな事をしても護ってやれる。
栞:「彼が望んでいたのは、彼の事を癒してくれる綺麗な入れ物か、…きっと奥さんだったみたい。」
栞:「今の私には、其処には、私が足を伸ばせる隙間を見つけられそうにも無かったの。」
栞:「だから、これ以上私が一緒に居たら、きっと彼を傷つけてしまう。」
正:「判った、もう良い…。」
しおりの、甘い髪の匂いが、何時の間にか乾ききっていた私の皮膚に、血管に染み込んで、潤していく。
彼女は傷付いていると言うのに、私はどうしてこんなにも、救われているのだろうか。
栞:「ところでおじさん、私は、一度も、私の事をハグして良いなんて許可した覚えは無いのだけれど、」
正:「五月蝿い! 一寸は素直に、…黙ってろ、」
しおりは、ゆっくりと自分の両腕を、私の背中に回して、…
栞:「時々強引なおじさんの事、…嫌いじゃないわ。」
栞:「それに何だか不思議、体の中の怖いモノが全部抜けていくみたい、…もっと早くこうしてもらえば良かったな。」
私は、彼女を抱きしめる腕に、いっそう力を込める。
栞:「おじさん、…ちょっと、痛い。」
正:「五月蝿い!」
カラオケクラブの女の子と行くつもりで予約して有ったSOHOの中華料理屋に、しおりと夕食に出かける。
しおりは、先程からソフトシェル・クラブと格闘を続けていた。
正:「それは、殻ごと食べて良いんだよ。」
栞:「そうは言っても、何だか苦手なのよ、…」
私は、一寸大人っぽくめかし込んだおろしたてのドレスが、…心配だったりする。
栞:「ところでおじさん、当然私も一緒に連れて行ってくれるんでしょうね、その、…」
正:「サントリーニ島?」
私は、酢豚をつつきながら、ボーっとしおりの顔に見蕩れてしまう。
今更ながらだけど、やはり可愛らしい。 若い男が夢中になるのも、致し方ない事だと諦めも付く。
正:「それは君が、どれだけお利巧にしているか次第だけど。」
私は、青島ビールを空にしながら、一寸意地悪を言い、
栞:「あら、私は何時だってお上品で、お利巧だった筈よ。 私、やろうと思えばおじさんに酷い事出来た筈なのに、ずっと我慢してたんだから。」
しおりは、悪戯そうに笑いながら、相変わらず理解不能な突込みを、入れてくる。
UKバンクホリデー(祝日)の5月最終週連休日、そういう経緯で、私としおりは、アテネ空港の中を、…走っていた。
昼一の便でロンドンからアテネ迄飛んで、アテネ空港で国内線へのトランジット(乗り継ぎ)。 多少の難儀は想定していたから、二人とも荷物は最小限にして、機内持ち込みの手荷物だけにまとめた。 通路の真ん中のパスポートコントロールをパスして、セキュリティチェックの行列の最後尾に並ぶ。
栞:「何とか、間に合いそうだね。」
正:「ああ、同じ航空会社にしてヒースローで一度にチェックインできたから助かったな。」
正直、私は体力の限界を思い知っていた。
栞:「おじさんは、もう少し運動した方が良いわよ。」
流石に、100m徒競走でTopを取るだけあって、しおりは息一つ切らしていない。
セキュリティのトレイに、金目のモノをぶちまけて、…
それなのに、買ったばかりのカメラが検閲に引っかかる。 レンズを外して、見せろと言う事らしい。
栞:「おじさん!早く!」
何とかギリギリ、乗り継ぎ便に間に合って、(実際は、同じ航空会社なので、待ってくれている。)30分余りの飛行、
夕方19時過ぎに辿り着いたサントリーニ島のティラ空港のロビーは、まるで町役場ほどのこじんまりした素っ気無い建物だった。
正:「タクシーが、迎えに来てくれてる筈だけど、…」
栞:「あれじゃない?」
ずらっと並んだタクシードライバー達が、銘銘、客の名前の書いた紙を胸の高さに掲げて見せている。
私達は、「HIRAI」のホワイトボードを持ったドライバーと握手して、スポーツバッグを二つ、メルセデスのトランクに詰め込んだ。
既に、辺りは暗く、街灯も少なくて細い田舎道を、結構なスピードでタクシーは飛ばしていく。
まるで中東の雰囲気な小さな村を幾つか通り過ぎて、やがて車は、霧の立ち込める山の断崖絶壁の際を掠める様に行き過ぎる。
正:「何処へ、連れて行かれるんだ、…ミタイな雰囲気だな。」
栞:「嫌だ、おじさん、変な事言うと、私だって怒るわよ。」
暫しスリル満点のナイトドライブを楽しんだ?後、タクシーは数台しか停まれない小さな駐車場で停車した。
正:「何処に、ホテルが有るんだ?」
タクシードライバーに促されるままに、私達はとぼとぼと、暗くて細い路地の様な石畳の崖を登って行き。 まるで遊園地の様な、上り下りの階段を行き過ぎて、漸く、極めて可愛らしいレセプションに辿りつく。
受付:「Welcome to our village! Mr. Hirai.(ようこそ我がホテルへ! ミスターヒライ)」
受付は、極めて陽気で紳士的な口ひげのおじさんで、ニ三人詰め掛ければもう一杯になってしまいそうな狭い受付の中で、幾つかの書類を仕上げた後、漸く私達は、私達のコテージに案内された。
家全体が、いや、よく見ると村全体が、断崖絶壁をくりぬいた洞窟住居の集落で、まるで御伽噺の小人の家の様に真っ白に塗られた床と壁に、映える緑の小さなドアが一つ。 一寸立て付けの悪い鍵を開けて、中に入ると、そこは、不思議な隠れ家の様だった。
部屋全体がくり貫かれたトンネルだから、何処にも目立った直線が無く、少し暗めの照明が、趣のある部屋の調度品を、穏やかに照らし出している。
栞:「凄い! 素敵じゃない?」
ゴージャスな絨毯と、奥に行くに連れてカーブした室内の突き当たりに、…
キングサイズの、ダブルベッド。
正:「フロントに言って、部屋を変えてもらおうか、」
栞:「ええ、どうして、私此処が良いよ。凄く可愛いし、凄くお洒落!」
しおりは、瞳をきらきらさせながら、ふわふわベッドの上にダイブする。
正:「だって、ダブルベッドが一つだぜ、…」
私は、当然、平常心ではいられない訳で、…
栞:「広いし、楽しく無い?」
正:「あのさ、寝てる間に、間違って、…身体に触っちゃうかも知れないぞ。」
しおりは、はっと気付いて、…息を呑み、
栞:「それは、…仕方ないよね。 私も、おじさんの事、触っちゃうかも、…だし、」
珍しく、しおらしく、俯いて、耳の先まで真っ赤になってしまって、…




