エピソード10 「子猫の留守」
イギリスで癒されるモノの一つが、…広い空だ。
ロンドンの街中に居てはナカナカそうでもないが、少し郊外へ出れば途端にイギリスの大地は平坦になり、360度広がるパノラマな空が、晴れていても曇っていても、真昼でも夜中でも、自分と言う人間のちっぽけさを知らしめてくれる。 所詮、私の身に降りかかる事など、取るに足らない事だ、…と言う訳だ。
スペインでしおりと別れてから、更に一週間が過ぎようとしていた。
私は「少し位は人生を楽しもう」と言う貴重な教訓を得て、早速旅行会社の情報を集め始めた。 赴任期間は不透明だが、折角イギリスに居るのだから、今の内に海外旅行を楽しんでおこう、…と言う訳だ。
正:「フランス、イタリア、ベルギー、ギリシャ、コスタ・クルーズってのも面白そうだな。」
会社の若い連中は、時間を見つけては彼方此方に出かけるようにしているらしい。 海外旅行について私が質問すると、皆、驚きながらも嬉しそうにノウハウを披露してくれる。
そんなノリの延長で金曜日の夜は、お得意様と訪れたカラオケクラブで、傍に付いた女の子と旅行の話になった。
正:「ツアーで忙しく動き回るのは、何だか疲れそうだから、一箇所でのんびり出来る様なのが良いな。 どうせ休みもそんなに取れないしね。」
女の子:「良いですね、のんびりリラックス旅行って感じですか。 場所はもう決めてるんですか?」
私は薄い水割りをチビリながら、歌いもしないカラオケの本を、悪戯にぺらぺら捲る。
正:「いや、色々調べてみると何処も面白そうで、何処から行くのが良いのか迷ってる、と言うのが本当のところなんだな。 何処かお勧め有る?」
女の子:「何をするかですね、良い景色見るとか、美味しいモノ食べるとか、美術館とか、歴史のある建物を見るとか。」
そう言えば、しおりが、「ネルハは世界で一番綺麗な夕陽が見れる海岸」とか、言ってたっけ、決して別に、張り合うつもりは無いのだが、…
正:「そうだな、世界で一番綺麗な夕焼けとか、見てみたいな。」
女の子:「ロマンチック! …だとしたら、そうだな、ギリシャのサントリーニ島とか、どうですか?」
聞いた事の無い島だが、そもそも、ギリシャって、あの、ギリシャ神話のギリシャか、…と言う位に私のイメージは貧困だ。
正:「ギリシャか、良いかもな、」
女の子:「ワザワザ夕陽を見に行くリピーターも多いらしいですよ。写真撮って来て下さいね!」
正:「写真かあ、私、カメラ持って無いんだよな。」
女の子:「カメラ、買いましょうよ。この際!」
女の子は、空になった私のグラスに、スカサズ新しい水割りを作る。
後、もう少しで「会社のボトル」が空になりそうだな、…
正:「何だか、乗り気だなあ、」
女の子:「実は、私、写真撮影が趣味なんです。 日本に居た時は、ファッション雑誌の撮影のアルバイトもしてたんですよ。」
正:「へー、女性カメラマンじゃ、モデルの人も緊張しないかもね、」
女の子:「アマチュアのモデルさんはそうかもですね、プロのモデルさんは逆だったりしますけど、ところで、平居さんはキャノン派?ニコン派?それともソニー?」
正:「ナンダイ、その派って言うのは?」
ステイプルはくるりと一回、それからグラスの周りを拭いて、コースターにセットする彼女の指が、チョコンと私の手に触れる。
女の子:「デジイチのメーカですよ、それぞれ売りがあって、派閥が分かれてるんです。」
正:「ソニーもカメラの派閥、なんだ。」
女の子:「昔ミノルタαって言うのがあって、ソニーが引き継いだんです。 それ以外にもオリンパスとか、コンパクトならカシオも有りですね、」
正:「どれが良いんだろうな、」
女の子:「サントリーニ島の夕焼けを撮るなら、絶対デジタル一眼ですね、ちゃんとRAWで撮影できて、後からパソコンで加工できるのが良いです。」
女の子はすまし顔で膝を組みかえる。 大きく襟の開いたドレスだが、…勿論見えたりはしない。
正:「一眼って、あのプロが使うみたいな大きい奴?」
女の子:「最近は、小さなのも有りますよ。 もし良ければ、今度実際に私が使ってるカメラをお見せしましょうか?」
正:「それは、助かるかも、…」
女の子:「明日って午後、時間ありますか? 私、お店入る迄は暇だから、何処かで待ち合わせして、実際にカメラに触って、撮影してみませんか?」
正:「明日か、…」
以前の私なら、きっと考えもせずに断わっていたに違いない。
でも、私だって、変われるって、上手くやってるんだって、…確かめたい。
正:「うん、わかった。何処が良いかな、」
女の子:「でもロンドンの街の風景撮影とかって、何だか、素で恥ずかしいですね。 おのぼりさんみたいで、…人物ポートレートとか、色々カメラ分解したりとか出来るから、室内の方が良いかもです。」
正:「そうか、とは言っても、まさか君の家に押し掛ける訳にも行かないしな、…じゃあ、ウチでも良いカイ?」
クラブの女の子を自分のウチに招待するなんて、一体何を考えているのだろう? …と自問自答しながらも、いや「室内で」と提案したのは彼女の方なのだ。 しかも人物撮影となると、当然被写体は、彼女か、私か、…密室に二人きりで、どんな写真を撮るのだろうか、などと妄想すると、何だかとてもいけない事をするかの様に、思えてくる。
正:「でも、何だか悪くないか?」
女の子:「それじゃあ、代わりにSOHOで何か晩御飯ご馳走してくださいよ。美味しいモノ!」
半分は、社交辞令の冗談だろうって思っていたのだが、土曜日の午後、本当にその子から、携帯にメッセージが送られて来た。
ハイドパークで待ち合わせして、太陽の元で始めて見る女の子に、少し、びっくりする。…いろんな意味で、
ショルダーバックから彼女が取り出した、流行の「ミラーレス一眼」は、掌に収まりそうなサイズに、しっかりした、要するに格好の良い大きなレンズが付いていた。
私は、必要以上に密着しながら手取り足取り教えてくれる女の子に、一寸ドギマギしながらも、こういう事で無駄にうろたえ無くなったのも、きっと、しおりのお陰だろうな、と感謝する。
それから、何枚か、彼女の写真を撮って、それも、色々な撮影モードがあるらしい。 彼女のお勧めは標準モードの絞り固定、ISOとか何だとか、難しい事はあっという間にすり抜けて行って、何時の間にか、私の頭の中は、彼女の身にまとった柑橘系の香水の匂いでいっぱいになっていた。
気のせいか、彼女の顔も、少し、…火照っている様に見えた。
女の子:「じゃあ、今度は、撮影した写真を、実際にパソコンで加工して見ましょう。 平居さんのウチにパソコンってありますか?」
正:「ああ、」
と、言う流れで、ふらふらと女の子を連れて、フラット迄戻ってくる。
当然なのか、異常事態なのか、ドアの鍵を開ける頃には、彼女は無駄に俯いて黙り込み、私の心臓は、早鐘の様に高鳴り始めていた。
正:「じゃあ、あんまり片付いてないけど。」
本当は、今日の朝、必死に片付けたのだ。
女の子:「お邪魔します。」
しおり:「お帰り、…なさい?」
そして玄関で、しおりと女の子が、…鉢合わせする。
何故?
正:「君は、…どうしてこんな所に居るんだ?」
栞:「そんな事よりも! この女の人は誰?」
しおりはチラリと一瞥しただけで、この女性がただならぬ関係で有りそう?な事を、…見抜いたらしい。
女の子:「あらぁ、何だか、取り込んでそうねー、…今日は帰りまーす、平居さん、またお店でね~、」
女の子は、回れ右をして、部屋を後にする。
栞:「全く、油断も隙も無いんだから!」
栞:「おじさんも、迂闊すぎ! 奥さんも子供も居る中間管理職が、若い女の人を部屋に連れ込むなんて、」
いや、君がそれを言うか? …
栞:「私、おじさんの事が心配だわ。」
正:「でも、君は、どうして、…」
しおりは、意味ありげな上目遣いで、私の顔を覗き見る。
栞:「私、…逃げて来ちゃった。」




