届かない場所
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それでは、どうぞお楽しみください。
翌朝、目を覚ましたとき、ゼノはすでに宿を出ていた。
今日、北東の森ではストーンベアへの正式な対応が行われる。参加するのはゼノを含む上位冒険者たちで、俺に与えられた仕事はない。昨日聞いたとおり、今の自分が行くべき場所ではなかった。
だからこそ、いつもどおり身体を動かした。
治療師から許された範囲を守りながら街の外周を走り、途中で短い全力走を何度か挟む。戻ってからは片足で姿勢を保ったまま身体を沈め、立ち上がる動作を繰り返し、そのあとで跳躍と着地を続けた。左腕に余計な負担をかけないよう注意しながら、腹や背中を使って身体を支える鍛錬も行う。
終わる頃には息が上がっていたが、それで剣を取る前の準備が終わっただけだった。
木剣を握り、昨日より少しだけ回数を増やす。ただ振るのではなく、足の位置、腰の回転、剣先の軌道を一振りずつ確認し、崩れたものは数に入れない。休憩を挟んだあとは真剣に持ち替え、今度は振る速度を落として刃筋を揃えることだけに集中した。
最後に剣を置き、魔力操作へ移る。
右手へ細く魔力を流し、それを維持したまま左足にも流す。立っているだけなら昨日より長く保てたが、一歩踏み出すと右手側が揺らぎ、三歩目で完全に散った。
もう一度やる。
今度は五歩。
次は四歩で失敗した。
成功した回数だけではなく、失敗した理由を考えながら繰り返す。右手へ意識を向けすぎると足が乱れ、足運びを整えようとすると魔力が消える。二つのことを同時に行っているつもりでも、実際には意識を交互に切り替えているだけなのだと少しずつ分かってきた。
「……難しいな」
それでも止めなかった。
魔力を両手へ流しながら歩き、次は軽く走る。走れば数歩で崩れるため、また歩くところからやり直す。そのあとには《水生成 Lv1》で掌に少量の水を作り、形を崩さず維持したまま身体を動かそうとしたが、これはさらに難しく、剣を持つところまで進めなかった。
昼前になってようやく切り上げた。
昨日までの俺なら、ゼノたちが戦っていると思えば落ち着かず、北の方角ばかり気にしていたかもしれない。
今も気になる。
ストーンベアがどうなったのか知りたいし、ゼノたちの戦いも見たい。それでも、見たいことと、自分が行くべきことは同じではない。
俺は汗を拭いてからギルドへ向かった。
◇
昼を過ぎても、ゼノたちは戻っていなかった。
ギルドでは北街道を利用する商人たちへの説明が続いており、フィナも受付と奥の部屋を何度も往復している。俺は邪魔にならない場所で昨日の地図を見せてもらい、追跡役から教わったことを思い出しながら、グレイファングが移動した経路を確認していた。
しばらくすると、杖をつく音が聞こえた。
顔を上げる。
「暇そうね」
「セラナ」
右脚を庇いながら歩いてきたセラナは、以前より顔色が良くなっていた。まだ右腿には厚く包帯が巻かれており、普通に歩ける状態ではないが、最初に岩の隙間で見つけたときとは比べものにならない。
「歩いていいの?」
「治療師に、短い距離ならって言われたわ。もちろん走るのは禁止」
そう言ってから、セラナは俺を見る。
「あなたは?」
「走った」
「……怪我人よね?」
「走っていいって言われた」
「本当に?」
「本当に」
疑われた。
仕方ない。
セラナは向かいの椅子へ腰を下ろし、机の地図を見る。
「今日なのね」
「うん。ゼノたちが行ってる」
「あなたは行かなかったの?」
「必要ないって言われたから」
セラナが少し黙った。
「成長したじゃない」
「前が駄目だっただけだと思う」
「それを成長したって言うのよ」
反論できなかった。
セラナは北東側に置かれた印へ目を向ける。そこにはストーンベアが最後に確認された位置が記されていた。
「私が見つけたグレイファングの死体も、あれにやられた可能性が高いのよね」
「爪の幅は合ってたって」
「そう」
彼女はしばらく地図を見ていた。
「怖い?」
俺が聞くと、セラナは少し考えてから頷いた。
「怖いわよ。私はグレイファングに脚を噛まれて、動けなくなったの。そいつらを一撃で殺せるものが森にいるって聞けば、怖くないわけないでしょう」
以前にも似た話をした。
強い人間でも怖い。
怖くなくなることが強さではない。
「でも、ゼノたちは行った」
「それが仕事だからね」
セラナは俺を見る。
「だからって、怖くないわけじゃない。あなたもそこは勘違いしない方がいいわ」
「うん」
今なら少し分かる。
昨日の村でも怖かった。
後ろからグレイファングが来たときは、避けられなければ噛まれると思った。それでも身体は動いた。
怖さを消す必要はない。
怖いまま、必要なことを選べればいい。
そのとき、ギルドの入口が騒がしくなった。
俺とセラナが同時に振り向く。
冒険者が一人、駆け込んできた。
「北東班から伝令!」
フィナがすぐに受付から出てくる。
「状況は?」
「接触しました。ストーンベアはさらに南へ移動していました。こちらを警戒したあと、攻撃行動に入ったため交戦しています」
ギルドの空気が変わった。
俺も椅子から立ち上がる。
「負傷者は?」
「現時点では軽傷一名。戦闘はまだ継続中です」
軽傷一人。
それを聞いて少しだけ息を吐く。
だが、まだ終わっていない。
「追加人員は?」
「不要とのことです。周辺封鎖を維持し、北街道の規制を続けるようにと」
フィナはすぐに職員へ指示を出した。
俺は動かなかった。
追加人員は不要。
なら、俺が行く理由もない。
胸の奥が落ち着かないままでも、ここにいる。
セラナが隣から俺を見た。
「行かないのね」
「うん」
「偉い偉い」
「子供扱いしてる?」
「九歳でしょう?」
何も言えなかった。
◇
ゼノたちが戻ったのは、それから二時間ほど経った頃だった。
最初にギルドへ入ってきたのは大盾を背負った男で、その後ろに三人の冒険者が続く。鎧には泥や木片が付着し、何人かは浅い傷を負っていたが、自分の足で歩いていた。
最後にゼノが入ってきた。
黒い外套の左肩が大きく裂けている。
俺はそこを見る。
「怪我した?」
「掠っただけだ」
「見せて」
「治療師に言え」
「じゃあ治療師に見せて」
ゼノが少し嫌そうな顔をした。
「お前に言われる日が来るとはな」
結局、そのまま治療室へ連れていかれた。
ストーンベアとの戦闘は終わったらしい。
結果を聞けたのは、負傷者の処置と正式な報告が済んでからだった。
「討伐したんですか?」
フィナが確認する。
「ああ」
答えたのは大盾を使っていた男だった。
「最初は北へ追い返すつもりだったが、駄目だった。こっちを明確に敵と認識して、何度離れても追ってきた。街道までの距離を考えて討伐に切り替えた」
成体のストーンベア。
Bランク相当。
討伐に参加したのはゼノを含む六人で、全員が経験を積んだ上位冒険者だった。それでも、戦闘開始から終わるまでかなりの時間がかかったという。
「見たい」
俺が言うと、ゼノがこちらを見る。
「何をだ」
「戦った場所」
昨日頼んだ。
ゼノは少し考えてからフィナを見る。
「現場確認は?」
「明日、素材回収と周辺調査を行います。ストーンベアが南下した理由については、まだ確認が必要です」
「なら、明日連れていく。安全確認が済んだ場所までだ」
「はい。ただし、現場班の指示には従ってください」
俺はすぐに頷いた。
「分かった」
その夜、ゼノは約束どおり戦闘の流れを教えてくれた。
ただし、聞けば聞くほど分からなくなった。
ストーンベアの前脚を大盾で受けた男が数歩まとめて吹き飛ばされ、別の冒険者が横から注意を引く。ゼノが後脚を斬って動きを鈍らせても浅い傷しか入らず、魔法で地面を崩して姿勢を乱してから、ようやく深い攻撃を通した。
それでも倒れない。
首を狙おうとすれば前脚が来る。
背後へ回れば巨体を振り回して木ごと薙ぎ払う。
最終的には複数人で動きを限定し、ゼノが何度も同じ後脚へ傷を重ね、体勢を崩したところへ別の剣士と魔法使いが攻撃を集中させた。最後に首の深い位置へゼノの剣が入って、ようやく倒れたという。
「一人なら?」
俺が聞いた。
「俺か?」
「うん」
ゼノは少し考えた。
「倒せる」
即答ではなかった。
でも、倒せる。
昨日、俺たち五人は六頭以上のグレイファングと戦った。
ゼノは一人でも、成体のストーンベアを倒せる。
「どれくらいかかる?」
「状況による」
「怪我は?」
「状況による」
「それじゃ分からない」
「戦いなんてそんなもんだ」
俺は少し不満だったが、ゼノの言っていることも分かる。
条件が違えば結果も変わる。
だから明日、自分の目で見ることにした。
◇
翌朝、俺は素材回収と調査を行う一行に加わった。
戦うためではない。
確認するためだ。
昨日教わった追跡のことも思い出しながら森を歩く。足跡の縁や倒れた草を見てみるが、相変わらず自分だけでは新旧を判断できない。それでも、前を歩く追跡役が止まるたびに、何を見ているのかを横から確認した。
やがて、森の様子が変わった。
最初に見えたのは倒れた木だった。
一本ではない。
太い幹が途中から折れ、周囲の低木まで巻き込んで地面へ倒れている。その少し先には大きく抉れた土があり、さらに進むと、岩の表面が砕けて欠けていた。
「これ……」
「前脚だ」
ゼノが答える。
ストーンベアが振った一撃が岩に当たった跡らしい。
俺は欠けた岩を見る。
剣で何回斬れば同じことができるだろう。
考えて、やめた。
今の俺では何回斬っても無理だ。
さらに進むと、戦闘の中心だった場所へ出た。
血が残っている。
地面には巨大な足跡がいくつも刻まれ、木の幹には深い爪痕が残っていた。回収前のストーンベアの死体は少し離れた場所に横たわっており、実際に見るとグレイファングとは比べること自体がおかしいほど大きかった。
俺は無意識に足を止めた。
「でかい」
「成体だからな」
ゼノが横へ来る。
灰褐色の毛は近くで見ると一本一本が硬く、刃を浅く通した程度では皮膚まで届かないことが分かる。後脚には何本もの斬撃痕が集中しており、首には最後の一撃と思われる深い傷が残っていた。
一撃ではない。
何度も同じ場所を狙っている。
「ここから始まった」
ゼノが地面の一角を指した。
昨日聞いた話と、目の前の地形を重ねる。
最初にストーンベアが出た位置。大盾の男が立った場所。魔法で崩れた地面、折れた木、後脚へ攻撃を集中させるために仲間たちが移動した経路を、ゼノが順番に説明していく。
俺は頭の中に置いていった。
《戦域把握 Lv3》。
ただし、今は戦闘中ではない。
残された痕跡とゼノの説明から、昨日ここで何が起きたのかを組み立てる。
ストーンベアが大盾の男へ向かえば、別の者が側面から攻撃する。そちらへ向きを変えれば、ゼノが後脚へ入る。ゼノを狙えば魔法使いが距離を取りながら攻撃し、その方向へ進めば足場を崩される。
一人が倒したのではない。
六人で選択肢を削っている。
昨日の俺たちと同じだ。
ただし、規模も速度も危険もまるで違う。
「ゼノ」
「なんだ」
「ここで後ろに回った?」
地面の位置を指す。
「ああ」
「ストーンベアはゼノを追わなかった?」
「追えなかった。前に盾がいた」
その答えを聞いて、別の位置を見る。
「じゃあ、この人がここにいなかったら?」
「俺はそこには入ってない」
やっぱりそうだ。
ゼノほど強くても、周りを使う。
いや、強いからこそ使うのかもしれない。
自分一人で倒せる相手でも、六人いるなら六人で倒した方がいい。わざわざ危険を増やす必要はない。
「一人で戦えることと、一人で戦うことは別なんだ」
俺が呟くと、ゼノがこちらを見た。
「やっと分かったか」
「少し」
俺はもう一度、戦場全体を見る。
昨日のグレイファング戦で感じたものが、少しだけはっきりした。
自分が強くなる。
それは絶対に必要だ。
仲間がいなければ何もできない人間にはなりたくない。いつかは、このストーンベア程度なら一人でも倒せるくらい強くなりたい。
それでも、一人で倒せるからといって、一人だけで戦う必要はない。
自分が強くなれば、使えるものが一つ増える。
仲間がいれば、さらに増える。
地形も、魔法も、相手の動きも使える。
全部を繋げれば、もっと強くなれる。
そのとき、少し離れた場所で調査をしていた冒険者が声を上げた。
「こっち、見つけたぞ!」
俺たちも向かう。
地面にはストーンベアのものとは違う古い足跡が残っていた。さらに北へ続いているらしい。
調査役たちが時間をかけて周辺を確認する。
やがてフィナから同行を任されていた男が結論を出した。
「少なくとも今のところ、人為的な痕跡はないな」
ストーンベアがなぜ普段の生息域より南へ来たのか。
原因は分からなかった。
餌を追ったのか、縄張り争いに負けたのか、それとも別の理由があるのか。確認できたのは、北から南へ移動してきた痕跡だけだった。
分からないものを、勝手に埋めない。
昨日ベルクに言われたことを思い出す。
なら、分からないままでいい。
今回分かったのは、ストーンベアが南へ移動し、その影響を受けた可能性のある魔物たちも生活圏へ近づいたこと。そして、その危険は今、ひとまず取り除かれたということだけだ。
◇
数日後、北街道の規制は解除された。
周辺の巡回はしばらく続けられるものの、グレイファングの大きな群れが人里へ向かう痕跡は新たに確認されなかった。若いアイアンベアの痕跡も再び北寄りへ移り、今回の一連の騒ぎは少しずつ収束へ向かっていった。
セラナも宿へ戻れる程度まで回復した。
まだ冒険者として復帰するには時間が必要らしく、右脚には包帯が残っている。それでも杖を使えば自分で歩けるようになり、ギルドへ顔を出す回数も増えていた。
その日、俺が訓練場へ向かおうとしていると、入口でセラナに呼び止められた。
「レオン」
「何?」
「一応、もう一度言っておこうと思って」
嫌な予感がする。
セラナは杖へ体重を預けながら、俺を真っ直ぐ見た。
「助けに来てくれたことには感謝してる。本当に」
「うん」
「でも次に誰かを助けに来るなら、ちゃんと仲間を連れてきなさい」
やっぱりそれだった。
「分かってる」
「本当に?」
「最近みんなそれ聞く」
「信用をなくした自分を恨みなさい」
何も言い返せなかった。
セラナは少し笑う。
「でも、昨日聞いたわ。村ではちゃんと大人の指示を聞いたんでしょう?」
「うん」
「逃げた狼も、一人で追わなかった」
「うん」
「なら、少しは信用してあげる」
少しだけらしい。
俺は訓練場へ向かおうとして、ふと振り返った。
「セラナ」
「何?」
「また冒険者やる?」
彼女は自分の右脚を見る。
「やるわよ」
答えるまでに、ほとんど間はなかった。
「怖くない?」
「怖いわよ」
セラナは笑った。
「でも、それとやるかどうかは別でしょう?」
俺も少しだけ笑った。
「うん」
分かる。
今なら、その意味がよく分かった。
◇
北の騒ぎが収まると、俺の日常も少しずつ戻ってきた。
ただし、以前とまったく同じではない。
左腕が完全に治るまでは負荷を管理しながら、朝は走り込みと身体づくりを行い、その後に剣を振る。昼には依頼や対人稽古を入れ、空いた時間には追跡役から教わった痕跡の見方を試し、夜には魔力操作を続けた。
魔力を右手と左足へ同時に流す。
歩く。
走る。
剣を持つ。
最初は剣を構えただけで片方が乱れたが、何百回も繰り返すうちに、一振りだけなら維持できることが増えた。
二振り目で消える。
なら、次は二振り。
できたら三振り。
走り込みでも同じだった。速く走るだけではなく、疲れた状態でも足運びを崩さないよう意識し、坂道では歩幅を変え、平地では短い全力走を繰り返す。跳躍や片足での姿勢維持、体幹を使った鍛錬も続け、剣を振れない時間があったからこそ、剣以外に鍛えられるものがいくらでもあると以前より強く意識するようになった。
もちろん、剣もやめない。
《剣術 Lv5》。
ようやく《超越》して届いた場所だ。
でも、それだけでは足りない。
剣を振り、身体を鍛え、魔力を動かし、足跡を見る。対人稽古では距離を測り、終われば何を間違えたかを考える。
全部続ける。
一つずつなら、俺より上手い人間はいくらでもいる。
それでも構わない。
今はまだ、繋げ始めたばかりだから。
そんな日々が続いたある日の午後、俺は訓練場で木剣を振っていた。
左腕はもうほとんど気にならない。
魔力を両足へ流しながら踏み込み、一振りする。剣を止めずに身体を返し、二振り目へ繋げたところで右足の魔力が乱れた。
「またか」
一度止まり、原因を考える。
踏み込んだ瞬間に剣へ意識を寄せすぎている。
なら、次は――。
「相変わらず変なことしてるね」
聞き覚えのある声だった。
俺は振り返る。
訓練場の入口に、一人の少年が立っていた。
淡い金色の髪。
整った青い上着。
細身の剣を腰に下げた、俺より一つ年上の少年。
エリオット・レイフォード。
以前、五本勝負で四度負けた相手。
「久しぶり」
エリオットが笑った。
俺は木剣を下ろす。
「久しぶり」
前に会ったときとは少し違う。
身長が伸びた、というだけではない。
立ち方。
剣を提げた位置。
何気なくこちらへ歩いてくる足運び。
以前より無駄が少ない。
俺が森で戦い、怪我をして、《戦域把握》を伸ばし、《超越》している間。
こいつも剣を振っていた。
当然だ。
俺だけが進んでいるわけじゃない。
「少しやる?」
エリオットが腰の剣へ触れる。
俺は木剣を握り直した。
以前なら、その笑顔を見ただけで四対一という結果を思い出していたかもしれない。
今も覚えている。
忘れる必要はない。
負けたから、ここまで来た。
そして目の前の相手も、あの日のままではない。
「やる」
俺が答えると、エリオットの笑みが少しだけ深くなった。
追いついたとは思わない。
でも、どれくらい離れているのかは知りたい。
俺は訓練場の中央へ歩き出した。
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