待てなかった夜
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それでは、どうぞお楽しみください。
翌朝、左腕の傷はさらに小さくなっていた。
昨日までは腕を上げるだけで傷の奥が引っ張られる感覚があったが、今朝はほとんど痛まない。指を握って開き、肘を曲げても問題はなく、これなら軽く剣を振るくらいならできそうだった。
それでも剣には触らなかった。治療師から言われたのは明日からであり、あと一日を惜しんで傷を開けば、ダリオの話を聞いた意味がなくなる。
朝食を終えると、ゼノと一緒にギルドへ向かった。治療室で包帯を外した年配の女性は、傷口を押したり腕を曲げさせたりしながら状態を確認し、最後にもう一度だけ治癒魔法を使った。
「問題ないね。今日は普通に過ごしていい」
「剣は?」
「明日からだって昨日も言っただろ」
「もう痛くない」
「痛くなくなった日に無理する奴が一番面倒なんだよ」
反論できなかった。
女性は新しい布を薄く巻きながら、明日からも最初は軽く動かすよう念を押した。骨や腱に大きな損傷はなく、傷が開かなければその後は徐々に元へ戻して構わないらしい。
治療室を出たところで、フィナが受付からこちらへ歩いてきた。普段は忙しくても表情を崩さないのに、今日は眉間に薄く皺が寄っている。
「ゼノさん、少しよろしいでしょうか」
「何かあったか」
「昨日の調査隊の件です」
俺も足を止めた。
昨日、北へ出た三人の冒険者は夕方には戻ってきている。アイアンベアらしき大型の足跡を発見し、さらに北へ調査範囲を広げることになったと聞いていた。
「今朝、同じ三名が再調査に出ました。予定では昼前には一度戻ることになっていたのですが、まだ戻っていません」
窓の外を見ると、太陽はもう高い。
「予定地点は?」
ゼノが聞くと、フィナはすぐに地図を広げた。
「昨日アイアンベアの足跡を確認した場所から、さらに北へ二キロほどです。そこから先には入らず、痕跡だけ確認して戻る予定でした」
「三人のランクは?」
「全員Dランクです。三人とも北側での活動経験があります」
昨日会った三人を思い出す。
槍の男と弓の男、それから剣を持った女。装備も使い込まれていて、森に慣れていない新人には見えなかった。
「アイアンベアに襲われた?」
俺が聞くと、フィナは首を横に振った。
「分かりません。遭遇して戦闘になった可能性はありますが、単純に調査に時間がかかっているだけかもしれません」
また、答えのない情報だった。
分からないことを勝手に繋げない。昨日ゼノから教えられたことを思い出し、俺はそれ以上の予想を口にしなかった。
「捜索を出す時間は決めてるか」
「予定から三時間遅れた時点で出します。ただ、念のため先に動ける方へ声をかけ始めています」
ゼノが地図を見る。
「俺が行く」
フィナが少しだけ安心した顔になった。
「お願いできますか?」
「ああ」
一緒に行きたいという言葉がすぐに浮かんだが、俺は一度飲み込んだ。今日はまだ剣を振るなと言われているし、昨日も「必要のない人間は行かない」と教えられたばかりだ。
それでも確認だけはしたかった。
「俺は?」
「留守番だ」
「怪我がなかったら?」
「それでも今は連れていかん」
「何で?」
「捜索は戦闘より面倒だからだ」
少し意外だった。
ゼノは地図上の森を指でなぞる。
「敵がいる場所へ行くなら、最初から戦う準備ができる。だが捜索は、敵がいるのか、人が怪我してるのか、迷ってるだけなのか、それすら分からん。痕跡を探しながら進み、見つけたあとの撤退まで考える必要がある」
「俺じゃ無理?」
「今のお前を連れていけば、俺は三人を探しながらお前も見なきゃならん。お前は戦えるが、追跡の経験はほとんどないだろ」
言い方は冷たいが、意味は分かる。
弱いから置いていかれるだけではない。今の俺には捜索そのものの経験が足りない。
「分かった」
「珍しく早いな」
「昨日言われたから」
ゼノがほんの少し笑った。
「成長したな」
たぶん、褒められている。
◇
ゼノは必要最低限の荷物だけを持ち、別のCランク冒険者一人と北へ向かった。
俺はギルドに残った。
宿へ帰ってもよかったが、調査隊が戻ったときに話を聞きたかったので、フィナの許可をもらって待合所の端に座る。昨日借りた地理の本も持ってきていたので、それを読みながら待つことにした。
最初の一時間は普通に読めた。アルネリア周辺の川や街道について、昨日地図で覚えた場所が出てくると位置関係が分かりやすく、北の森林地帯には古い狩猟道がいくつもあることも知った。
ところが二時間ほど経つと、同じ行を何度も読み直すようになった。誰かが入口の扉を開けるたびに顔を上げてしまい、そのたびに調査隊でもゼノでもないことを確認してから本へ戻る。
三人が迷っただけならいい。
怪我をしているなら早く見つかってほしいし、アイアンベアと戦ったのなら、どの程度の傷なのかも分からない。考えても答えが出ないことは分かっているのに、何もできずに待っていると頭の中だけが勝手に先へ進んでしまう。
俺は本を閉じた。
昨日までなら、こういうときには身体を動かしていたと思う。剣を振ったり走ったりしていれば、少なくとも何かをしている気にはなれたが、今日はそれもできないからこそ、待つことの難しさがよく分かった。
「落ち着きませんか?」
声をかけられて顔を上げると、フィナが立っていた。
「うん」
「私もです」
少し意外だった。
「でも仕事してる」
「何もしない方が落ち着きませんから」
似ていると思ったが、フィナがしているのは自分を誤魔化すための仕事ではない。戻ってきた冒険者を受け入れる準備や、追加の人員を探すために必要なことをしている。
「待つのも仕事?」
俺が聞くと、フィナは少し考えた。
「場合によります。でも、勝手に動かないことが一番役に立つ場面はありますよ」
「昨日からそればっかり言われる」
「何をですか?」
「行かない方がいいって」
フィナが少し笑った。
「冒険者は行く仕事が多いですからね。その分、行かない判断ができる人は意外と大事です」
俺はもう一度本を開いた。
今は待つ。それが必要なら、そうするしかない。
◇
太陽が西へ傾き始めたころ、ギルドの入口が急に騒がしくなった。
顔を上げると、最初に入ってきたのはゼノだった。その肩には昨日の槍の男が担がれており、意識はあるものの顔は青白く、右脚に強く巻かれた布が赤く染まっている。
後ろから入ってきたもう一人の冒険者は、弓の男を支えていた。こちらは自分で歩いているが、左の額から血が流れていた。
「治療室へ!」
フィナの声で、ギルド内の空気が一気に変わる。
何人かが駆け寄り、二人を奥へ運んでいく。
俺は入口を見た。
三人だった。
昨日、俺に森のことを聞いたのは三人だった。
戻ってきたのは二人しかいない。
「ゼノ、一人は?」
「まだ森だ」
胸の奥が冷えた。
「生きてる?」
「分からん」
昨日、腰に剣を下げていた女がいない。
「何があった?」
「アイアンベアじゃない」
ゼノは水を一口飲むと、地図のある机へ向かった。俺とフィナもそのあとを追う。
「足跡はアイアンベアで間違いなかった。ただし、成体じゃない。若い個体だ」
「じゃあ、何にやられた?」
「グレイファングだ」
昨日から何度も聞いている名前だった。
「何体?」
「確認できたのは七体だ」
昨日、俺が村で相手にしたのは二体だった。それでも守る場所と人がいるだけで難しかったのに、三人で七体に囲まれれば、逃げることさえ簡単ではない。
「群れ?」
「おそらくな」
ゼノは地図の一点を指す。
「三人はここでグレイファングの新しい痕跡を見つけた。予定外だったが、痕跡が南へ向いていたから少し追ったらしい」
「村の方?」
「ああ。その途中で群れと接触した。最初は四体だったが、戦闘中に別方向から三体増えた」
「囲まれた?」
「そうだ」
ゼノの指が地図上を北へ動く。
「二人は南へ抜けたが、もう一人は群れに分断されて北へ逃げた。俺たちが見つけたときには、この二人だけが戻ろうとしていた」
「助けに行かなかったの?」
口にした直後、自分でも違うと気づいた。
行かなかったのではない。
行けなかった。
ゼノは怒らずに答えた。
「槍の奴は脚を深く噛まれてた。弓の奴も頭を打ってる。二人を置いて追えば、こいつらが戻ってこられる保証がなかった」
昨日と同じだった。
追うか、守るか。全部を選ぶことはできない。
ゼノは二人を選んだ。
「女の人は?」
「セラナ・フィル。Dランク、二十六歳だ」
昨日は名前も知らなかった。
「痕跡は残ってる?」
「途中までな。血もあったが、グレイファングの血も混じってる。本人が怪我をしているかまでは分からん」
生きている可能性はある。
フィナがすぐに人員を集め始める。
「夜間捜索の準備をします。最低でもCランクを二名、それに追跡ができる方を――」
「夜は入らん」
ゼノが遮った。
フィナの動きが止まる。
「ですが、このまま朝まで待てば……」
「今から森に入っても、現場へ着くころには完全に暗い。七体以上の群れがいる場所で、視界のないまま一人を探せば、捜索する側まで遭難する」
フィナは何も言えなくなった。
俺も同じだった。
森の中に一人残っている。怪我をしているかもしれないのに、そのまま一晩待つことになる。
「今行った方が助かるかもしれない」
思わず口に出た。
ゼノが俺を見る。
「そうかもな」
否定しなかった。
「じゃあ――」
「今行ったせいで、助けに入った人間が死ぬかもしれん」
続く言葉が消えた。
「正解は分からん。朝までセラナが生きている保証もないし、今から行けば助けられる保証もない。だから、全員が生きて戻る可能性が一番高い方を選ぶ」
間違っているとは思わない。
たぶん、ゼノが正しい。
俺よりずっと多くの人を助けてきたゼノが、感情ではなく経験からそう判断している。
「夜明け前に出る?」
「ああ。暗いうちにアルネリアを出て、森へ着くころには明るくなるようにする」
俺は地図を見る。
セラナが分断された場所。
そこから北。
血の痕跡が途切れた場所までは、ゼノが印をつけていた。
その位置を、無意識に覚えていた。
◇
宿へ戻って夕食を食べても、セラナのことが頭から離れなかった。
剣を腰に下げていた二十六歳の女で、昨日ほんの少し会っただけだった。俺が村の地図を説明している間もほとんど喋らず、最後に他の二人と一緒に森へ向かった。
それだけの相手だ。
それなのに、眠ろうとして目を閉じると、森の中に一人でいる姿を想像してしまう。
怪我をしているかもしれない。
木の陰で息を殺しているかもしれない。
グレイファングが近くを歩いているかもしれない。
そして、朝になったときにはもう間に合わないかもしれない。
俺は寝返りを打った。
ゼノの判断が正しいことは分かっている。
暗い森で追跡もできない俺が一人増えたところで、捜索が楽になるわけではない。それどころか俺まで迷えば、明日の朝には捜索対象が二人になる。
分かっている。
それでも眠れなかった。
四歳のときのことを思い出す。
あの日、誰かがもう少し早く来てくれていたら。
そんなことを考えても意味はない。
父さんと母さんが助かった保証なんてないし、そもそも誰かが来られる状況だったのかも分からない。それでも子供だった俺は、何度も同じことを考えた。
誰か。
早く。
助けて。
今、森にいるセラナも同じことを思っているかもしれない。
俺は身体を起こした。
駄目だ。
行くべきじゃない。
自分でも分かる。
ゼノに言われたばかりだ。勝手に動かないことが一番役に立つ場面もあると、フィナにも教えられた。
それでも時計代わりの蝋燭が短くなるたび、朝までの時間ではなく、セラナが一人でいる時間が増えているように思えた。
俺はベッドから降りた。
すぐには剣を取らない。
まず机に地図を広げた。
アルネリアの北門から森までの道を確認し、昨日までに覚えた地形と、今日ゼノが印をつけた地点を頭の中で繋げる。調査隊が入った場所から北へ進めば、古い狩猟道があり、その先でセラナは他の二人と分断された。
追跡はできない。
暗い森にも慣れていない。
《戦域把握 Lv2》も、何も見えない場所から情報を作り出せる技能ではない。
自分にできないことを一つずつ確認するほど、行くべきではない理由が増えていく。
それでも、俺は地図を閉じた。
水を入れる。
清潔な布を持つ。
火を起こす道具と、昨日ゼノから借りた周辺地図を荷物に入れる。左腕をゆっくり曲げ、傷に痛みがないことを確かめてから、最後に剣を腰へ差した。
三日ぶりだった。
鞘の重さが腰に戻る。
少し安心してしまった自分が嫌だった。
これは訓練じゃない。
正しい判断でもない。
ゼノに知られれば、間違いなく止められる。
だから黙って行こうとしている時点で、自分でも正しくないと分かっている。
扉へ向かったところで、足が止まった。
ゼノの言葉を思い出した。
一人で全部終わらせようとするな。
昨日、村で言われた。
それから今朝も、必要のない人間は行かないと教えられた。
俺はちゃんと覚えている。
忘れたわけじゃない。
それでも、朝になってセラナの死体を見つけたとき、「言われた通り待っていたから仕方ない」と思える気がしなかった。
もし今ならまだ生きているなら。
もし俺が先に見つけられるなら。
もし少しだけでも、朝まで生き延びる手助けができるなら。
その可能性を捨てて眠ることが、どうしてもできなかった。
俺は紙を一枚取り出した。
文字を書く。
『森に行きます。セラナを見つけても、一人で連れて帰れるとは思ってません。見つけたらできるだけ隠れて、朝まで待ちます。ゼノが印をつけた場所から北へ行きます。ごめんなさい。』
書き終えてから、少し考える。
謝るくらいなら行くな。
自分でもそう思う。
それでも紙を机の上へ置いた。
宿の廊下へ出る。
音を立てないように階段を下り、まだ眠っている主人を起こさないよう裏口から外へ出た。
夜のアルネリアは、昼とはまるで違っていた。大通りにはところどころ灯りが残っているものの、人影は少なく、遠くから夜警の足音が聞こえてくる。
北門は夜間閉鎖されている。
そこまで考えて、初めて足が止まった。
当然だった。
城壁のある都市なのだから、好きな時間に外へ出られるわけではない。
どうする。
門が開くまで待てば、ゼノに見つかる。
別の出口を探す。
そう考えた瞬間、自分が何をしようとしているのか分かった。
俺は今、セラナを助けるためではなく、ゼノに止められないための方法を探そうとしていた。
それは違う。
しばらく北門へ続く道の途中で立ち尽くした。
ここで戻ればいい。
まだ何もしていない。
宿へ戻って紙を破り、朝になったらゼノと一緒に行けばいい。
その方が正しい。
頭では分かっていた。
「……それでも」
声が漏れた。
朝まで、あと何時間ある。
その間ずっと、セラナは一人だ。
俺は北門ではなく、冒険者ギルドへ向かった。
昼間、依頼を受けた冒険者たちが夜間に外へ出る場合、ギルドから門へ連絡が入ることがあると聞いたことがあった。自分にその資格があるかは分からないが、城壁を勝手に越えるよりはいい。
閉まりかけたギルドの扉を押す。
夜番の職員が顔を上げた。
「どうしました?」
ここで嘘をつけば出られるかもしれない。
ゼノから頼まれたと言えばいい。
でも、それを言ったら本当に全部を裏切る気がした。
「北の森に行きたい」
職員が眉を寄せる。
「この時間にですか?」
「うん」
「依頼ですか?」
俺は一度だけ迷った。
「違う」
そこだけは嘘をつかなかった。
「今日戻らなかった冒険者を探しに行く」
職員の表情が変わる。
当然、止められる。
そう思った。
「あなた、一人で?」
「うん」
「許可できません。捜索は明朝と聞いています」
やっぱり駄目だった。
「分かった」
俺はそれ以上言わず、ギルドを出た。
正面からは出られない。
ギルドも通してくれない。
そこで諦めるべきだった。
それでも宿へ戻る途中、城壁に沿って歩きながら、昨日ゼノと入った北門とは別の場所を思い出した。
昼間、荷車が何台も並んでいた西寄りの搬入口。
地図にも載っていた。
夜間に完全閉鎖されるかは知らない。
確かめるだけ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はそちらへ歩いた。
行くべきではない理由は、もう十分すぎるほど分かっている。怪我は治りきっておらず、夜の森にも慣れていないうえ、追跡もできない。ゼノにも止められ、ギルドにも拒否された。
それでも足は止まらなかった。
正しいから行くんじゃない。
俺が強いからでもない。
朝まで待つことに、どうしても耐えられなかった。
搬入口が見えてくる。
小さな灯りが一つだけ残っていた。
そして、門扉が完全には閉じていなかった。
夜間に届いた荷を確認しているのか、二人の門番と一台の荷車が見える。荷台には空になった木箱が積まれ、御者が何かの書類を門番へ渡していた。
俺は物陰からそれを見る。
今なら出られるかもしれない。
やめた方がいい。
分かっている。
それでも俺は、荷車が再び動き出すのを待った。
門番の視線が御者へ向いた瞬間、荷台の反対側へ回り込み、影に身体を伏せる。そのまま荷車と一緒に門を抜け、城壁から十分に離れたところで静かに飛び降りた。
誰にも呼び止められなかった。
振り返ると、アルネリアの城壁が夜の中にそびえていた。
ここから戻ることもできる。
まだ間に合う。
けれど俺は剣の柄へ触れ、北へ続く暗い道へ向き直った。
ゼノが正しいことは分かっている。
俺が間違っている可能性が高いことも分かっている。
それでも、もしセラナがまだ生きているなら、朝まで一人にはしたくなかった。
俺は夜の街道を走り出した。
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