剣を持たない仕事
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それでは、どうぞお楽しみください。
翌朝、左腕の痛みはかなり弱くなっていた。
目を覚まして最初に指を動かし、次に肘を曲げてみる。昨日よりずっと楽だったので、これなら剣も振れるのではないかと思ったが、壁際に立てかけた剣へ手を伸ばすことはしなかった。
三日間は振るなと言われている。
昨日のダリオの話まで聞いて、一日で約束を破るほど馬鹿ではないつもりだった。
朝食を終えたあと、ゼノと一緒に冒険者ギルドへ向かう。昨日と同じ治療室へ入ると、年配の女性は俺の左腕から布を外し、傷の腫れや熱を順番に確かめた。
「悪くなってないね」
「剣は?」
「昨日言っただろう」
「確認」
「三日だよ」
やはり駄目だった。
女性は傷を洗ってから、昨日と同じように治癒魔法を使った。淡い光が消えるころには傷口がかなり狭くなっていたが、まだ強く握ったり、何かにぶつけたりすれば開く可能性があるらしい。
「明日もう一度見せな。それで問題なければ、日常生活はほぼ普通に戻していい」
「剣は?」
「明後日から。最初は軽く」
「何回?」
「回数じゃなくて、痛みが出ない範囲だよ」
答えになっていない気がしたが、隣にいるゼノを見ると、余計なことを聞くなという顔をしていた。
治療室を出る。
昨日より腕はずっと軽い。それでも明日まで何も振れないと思うと落ち着かなかったが、今日は宿に戻って地図の続きを見るつもりだった。
ところが受付の前を通ったところで、フィナに呼び止められた。
「レオン君、少しお時間ありますか?」
「ある」
「ゼノさんもお願いします」
受付の奥にある小さな机へ案内される。
そこには昨日見た周辺地図と、何枚かの報告書が置かれていた。
「昨日のお話について、今朝追加の報告が入りました」
フィナが地図の北側を指す。
「アルネリア北東の街道近くで、別の冒険者がグレイファング二体を確認しています。戦闘にはならず、そのまま北西へ移動したそうです」
「昨日の二体?」
俺が聞くと、フィナは首を横に振った。
「分かりません。距離を考えると同じ個体の可能性もありますし、別の群れの可能性もあります」
ゼノが地図を見る。
「死体は?」
「ありません。足跡だけです」
昨日、俺とダリオが逃がした二体がそのまま動いているのかもしれない。けれど、同じグレイファングだと決める証拠はない。
昨日ゼノに言われたばかりだった。
分からないものを、勝手に分かったことにしない。
「それで、北側を調べるんですか?」
「はい。ギルドから三人の冒険者を出すことになりました。ただ、その前に昨日の村周辺について、もう少し詳しく教えていただきたいんです」
フィナは新しい紙を広げた。
簡単な村の図だったが、家の位置までは書かれていない。
「ダリオさんからの報告はまだありませんし、昨日その場を見た方はレオン君とゼノさんだけです。どこで鹿を見つけたのか、グレイファングがどこから村へ来たのか、それから逃げた方向をできる限り正確に知りたいそうです」
剣を使う話ではなかった。
それなら俺にもできる。
「紙、借りていい?」
「もちろんです」
椅子を引き寄せ、地図を見る。
昨日の景色を頭の中で戻していく。
砦から北東へ進み、森に入った場所。途中で静かになった鳥の声。血の臭いにゼノが気づき、その先で鹿の死体を見つけた。
俺は地図の上に指を置いた。
「砦から村に行く道はここ。鹿がいたのは、道から少し北に外れたところだと思う」
「どのくらいですか?」
「歩いて……二、三分くらい。真っすぐじゃなくて、少し下ってた」
フィナが書き込んでいく。
俺はさらに村の位置を見る。
「村に来た二体は西から見えた。でも、最初から真っすぐ西から来たわけじゃないと思う」
「理由は?」
「俺たちが北から村に入ったとき、見えなかったから」
フィナの手が止まる。
ゼノも俺を見る。
「続けろ」
「村へ着いてすぐ、ダリオは西、ゼノは北を見に行った。それからそんなに時間が経ってないのに、西側に二体が出た」
昨日の状況を思い返す。
俺は村の中に残り、《戦域把握 Lv2》で入口や家、柵の位置を確認していた。二体が姿を見せたのはそのあとだ。
「ダリオが西へ行ったのに会ってないなら、もっと南を回ってきた可能性がある」
ゼノが地図の西側を見る。
「ダリオが戻ったとき、別の二体と接触したと言っていたな」
「うん」
「なら、お前が見た二体が南寄りから回り込み、ダリオが見た二体が西か北西に残っていた可能性はある」
「でも、決まりじゃない」
「ああ」
ゼノが頷く。
少し嬉しかった。
昨日なら、同じ方向にいたというだけで全部を繋げていたかもしれない。今は可能性として考えても、それを事実にはしない。
フィナが地図へ二本の線を引いた。
「鹿の位置、村、複数の目撃地点を見ると、かなり広い範囲を動いていますね」
「群れが大きい?」
俺が聞く。
「それも考えられます。ただ、別々の群れが同時に南へ下りている可能性もあります」
フィナは報告書を一枚めくった。
「実は今朝、もう一つ気になる報告がありました。北の森で狩りをしている猟師が、大型の獣の痕跡を見つけています」
「大型?」
「まだ種類は特定されていません。木の幹にかなり高い位置まで爪痕があり、地面にも大きな足跡が残っていたそうです」
ゼノの目が地図の北へ向く。
「グレイファングが避ける程度か」
「その可能性があります」
つまり、グレイファング自身が何かから逃げているのかもしれない。
それなら、普段より南に出てきた理由にもなる。
ただし、これもまだ可能性だった。
「今日調べる三人は、その足跡も見る?」
「はい。戦闘が目的ではありません。種類と移動方向を確認して、危険度を判断するための調査です」
フィナがそう言ったところで、受付側から声がかかった。
調査へ向かう冒険者たちが到着したらしい。
◇
来たのは男二人と女一人だった。
全員成人で、装備もこれまで見てきた新人冒険者より使い込まれている。先頭の男は短い槍を持ち、もう一人は弓、女は腰に剣を下げていた。
名前までは聞かなかった。
フィナが俺の描いた地図を三人に見せる。
「こちらが昨日現場にいたレオン君です。村周辺の位置関係を補足してもらいました」
槍を持った男が俺を見る。
「この子が?」
「はい」
左腕の包帯にも目が向いた。
「グレイファングに?」
「うん」
「よく帰ってきたな」
俺が何と答えるか迷っていると、ゼノが隣から口を挟む。
「こいつが倒したのは一体だ。もう一体は逃がした」
「ゼノ」
「事実だろ」
そうだけど。
槍の男は地図へ視線を戻した。
「鹿を見つけた場所はここで間違いないか?」
「たぶん、この辺。道から北に外れて、少し低くなってた」
「水場は見た?」
聞かれて思い出す。
「鹿の近くにはなかった。でも村へ行く途中、細い川を一回渡った」
「幅は?」
「俺が跳べるくらい」
男が少し困った顔をする。
ゼノが代わりに答えた。
「二メートル弱だ」
「最初からそう言え」
俺に言われても困る。
弓を持った男が笑った。
それからいくつか質問され、覚えている範囲で答えていく。木の種類までは分からなかったが、坂の向きや、鹿の頭がどちらを向いていたか、足跡が多かった場所なら思い出せた。
《戦域把握 Lv2》を使っていたときの感覚も残っている。
昨日は戦うために覚えた情報だった。
今日は、それが別の人間の調査に使われている。
三人が出発する前、槍の男が地図を畳んだ。
「助かった。現地で探す範囲をかなり絞れる」
「俺、行かなくていい?」
言ってから、ゼノの視線を感じる。
槍の男は包帯を見て苦笑した。
「その腕で来られても困る。それに今日は戦いじゃなくて調査だ」
「見るだけなら」
「駄目だ」
ゼノと男の声が重なった。
諦めるしかなかった。
三人がギルドを出ていく。
俺はその背中を見送りながら、少しだけ変な感じがしていた。
「何だ」
ゼノが聞く。
「何もしてないのに、役に立った」
「昨日見たことを話しただろ」
「でも戦ってない」
「仕事は敵を斬ることだけじゃない」
昨日から、似たことばかり言われている気がする。
剣を振らなくてもできることがある。
戦わなくても役に立てることがある。
今まで知らなかっただけで、冒険者の仕事にもそういう部分があるらしい。
◇
昼過ぎ、ギルドを出る。
今日はもう治療も報告も終わったので、宿へ戻るつもりだった。
大通りへ出たところで、正面から見覚えのある金色の髪が近づいてくる。
エリオットだった。
隣にはマルクもいる。
エリオットは俺を見ると、すぐに左腕へ視線を落とした。
「怪我をしたのか?」
「グレイファングに噛まれた」
「依頼で?」
「違う。村で」
説明すると長くなるので、それだけ答える。
エリオットは包帯を見たまま少し眉を寄せた。
「剣は振れるのか?」
「三日禁止」
「そうか」
思ったより普通の反応だった。
「エリオットは今日も訓練?」
「ああ。午前は剣で、午後は体術だ」
やっぱり訓練している。
胸の奥に、昨日と同じざわつきが少し戻ってきた。
俺が休んでいる間にも、エリオットは進んでいる。
「三日分、離される」
思わず言うと、エリオットが首を傾げた。
「何が?」
「剣」
「三日で?」
「三日もある」
エリオットは少し考えたあと、自分の右手首を見る。
「僕も去年、一週間振れなかったことがある」
「怪我?」
「手首を痛めた。先生に止められた」
横にいたマルクが笑う。
「こいつも最初は聞かなかったけどな」
「二日目からは聞きました」
「初日に木剣を持ってただろ」
「振ってはいません」
「持つ必要もないだろうが」
俺はエリオットを見る。
エリオットも休むのが嫌だったらしい。
才能があるなら、休んでも平気なのだと思っていたわけではない。ただ、俺よりずっと早く上手くなる相手が、止まることを怖がるとは少し意外だった。
「一週間、何してた?」
「最初の三日は休んだ。そのあと、先生の稽古を見ていた」
「見るだけ?」
「頭の中では動かした。自分ならどこへ踏み込むか、先生ならどう返すかを考えた」
マルクが肩をすくめる。
「治った初日にやりすぎて、また止めたけどな」
「……あれは失敗でした」
同じことをする人は結構いるらしい。
俺は少し笑った。
「何だ?」
「ダリオにも同じ話された」
「誰だ?」
「昨日会った人」
それ以上は説明しなかった。
エリオットは俺の左腕をもう一度見てから言う。
「治ったら、またやろう」
「手合わせ?」
「ああ」
前回は五回やって、一回しか勝てなかった。
次にやればどうなるだろう。
俺も変わっている。
でも、エリオットも止まっていない。
「次は二回取る」
「なら僕は五回取る」
「前も四回だった」
「だから次は五回だ」
そう言って、エリオットはマルクと訓練へ向かった。
俺はその背中を少しだけ見送ったが、昨日のような焦りは強くなかった。
エリオットは今日も強くなる。
俺は今日は剣を振れない。
その差はなくならない。
それでも、今やるべきことまで間違える理由にはならなかった。
◇
夕方。
宿で地図を読んでいると、扉が叩かれた。
ゼノが入ってくる。
「調査隊が戻った」
俺はすぐに顔を上げた。
「何だった?」
「まだ確定じゃない」
ゼノは机の前まで来ると、俺が広げていた地図の北側を指した。
「大型の足跡は見つかった。グレイファングのものよりかなり新しい」
「何の魔物?」
「おそらくアイアンベアだ」
聞いたことがない。
「強い?」
「グレイファングよりはな。成体なら正面からやり合いたくない冒険者も多い」
ゼノはさらに北を指す。
「問題は、そいつが本来いる場所より南へ出てきていることだ」
「じゃあ、アイアンベアがグレイファングを追い出した?」
「可能性はある。ただし、まだ決めるな」
分かっている。
大型の足跡があった。
グレイファングが南へ来た。
二つは繋がっているかもしれないが、まだ証拠は足りない。
「明日、もう一度調査する?」
「ああ。ギルドが追加の人員を出す」
「俺は?」
ゼノが俺の左腕を見る。
「治療」
「終わったら?」
「治療」
「そのあと」
「休め」
やっぱり。
俺は椅子の背にもたれた。
「行きたい」
「知ってる」
「役に立てるかもしれない」
「今日もう役に立っただろ」
言われて止まる。
確かに、地図を描いた。
昨日見たことを話した。
戦ってはいない。
それでも調査隊は助かったと言った。
ゼノは机の上の地図を指で叩く。
「明日の調査で何か分かれば、次の動きが決まる。それまではお前が行っても邪魔になる可能性の方が高い」
「怪我してるから?」
「それもある。もう一つは、お前にできることがないからだ」
少し刺さる。
でも事実なのだろう。
「強ければ行ける?」
「違う」
ゼノは首を振った。
「強くても、必要ない奴は行かん。仕事は『できるか』だけじゃなく、『必要か』で決まる」
昨日の村でもそうだった。
ゼノとダリオが外を調べた。
俺は村に残された。
あのときは、自分だけ置いていかれたような気がした。
けれど、村には戦える人間が必要だった。
結果として、俺が残っていたからリクを守れた。
「必要なところに行く?」
「そういうことだ」
ゼノはそう言って部屋を出ていった。
俺はしばらく地図を見る。
北には、まだ知らない何かがいる。
グレイファングが動いた理由も分かっていない。
行けば、きっと学べる。
それでも今の俺は、そこに必要とされていない。
以前なら、それでもついていく方法を考えたかもしれない。強くなるためなら、見られるものは全部見たいと思っていた。
今も見たい。
でも、行かない。
俺は左腕を机の上に置き、傷を開かないように力を抜いた。
今日やったのは、治療を受けて、昨日見た景色を地図にして、覚えていることを調査隊へ伝えただけだった。剣は一度も握っていない。
それでも誰かが、その情報を持って森へ入った。
剣を持たない日にも、できることはある。
明日は明日で、必要なことをする。
そして腕が治ったら、また振ればいい。
壁際には二本の木剣と一本の剣が並んでいる。
俺はそれらに触れず、地図の北側へもう一度目を落とした。
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