同じ場所へ
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それでは、どうぞお楽しみください。
その1本は、それまでと同じ高さからは来なかった。
ゼノは右の前脚の内側で膝を深く沈め、下から斜めに剣を振り上げた。刃は、粉の落ちた白い線の上を、外れずになぞっていった。
「重ね断ち」
名前は、剣が通ったあとに届いた。ゼノが技の名前を口にするのを聞くのは、これで3度目だった。
杭の横で、調査担当が紙から顔を上げた。
「これも、名前だけ書きますか」
「はい。何をする技かは、たぶん見ていれば分かります。でも、まだ言えません」
調査担当は頷き、前の2つの名前の下へ、もう1つを書き足した。
巨体が首を振り、ゼノの立つ岩を前脚で削った。ゼノは崩れた石の上へ左足を残し、上体だけを傾けて剣を戻す。さっきとは姿勢も、足場も、刃の入る角度も違う。それでも剣先は、前の傷の上へ帰ってきた。
1本ずつなら、どれも浅い。俺の目でも分かるほど、刃は鱗の奥まで入っていない。けれど、浅い線が同じ場所へ重なるたびに、白かった線の真ん中だけが、少しずつ色を変えていった。
1度で硬い鱗を断つのではない。外れないことで、硬さを削っているのだ。
巨体も、狙われている場所に気づいたらしかった。首を岩壁へ寄せて傷を隠し、尾でゼノの足場を薙ぎ、降りる先へ前脚を落とす。動きは大きいが、道が狭いぶん、ゼノが逃げられる場所も少なかった。
ゼノは傷を追って岩壁の側へは入らなかった。前脚の内側に残ったまま、巨体が首を戻すのを待つ。圧力を撃つには、首をこちらへ向けなければならない。そのときだけ、隠した傷がもう一度外へ出る。
首が戻った瞬間、ゼノの剣がまた同じ線へ入った。落ちる粉が増える。俺なら、どれだけ深くなったかを確かめるために目を止めるところだった。ゼノはもう、次の前脚と尾を見ていた。
鉤爪が、横から来た。
ゼノは無拍で爪の内側へ入った。けれど、着いた足の下で崩れた石が転がった。着地が半歩ずれる。爪の先が、ゼノの右の脇腹を掠めていった。黒い服に、細い血の線が広がった。
「ゼノ、右脇腹!」
声を上げても、ゼノは傷を見なかった。傷の側へ身体を捻れば、剣が首の線から外れる。呼吸も足も崩さず、外套の内側で風装を整え、巨体の次の向きだけを見ていた。
俺の右足が、前へ出かけていた。
その足を、支えの出口で止めた。俺が前へ出れば、巨体の撃つ線が1本増える。戻る道の上に立つ人間も、1人増える。ゼノが自分で動けているうちは、ここから傷を見て、戻ったときに要る手当てを伝える方が先だった。
北西の救助から戻ったゼノと手合わせをした日に、俺は、一緒に動く相手も数に入れると決めた。ここで前へ出ないのは、ゼノを数から外すことじゃない。
「歩ける傷に見える。血も、増えてない」
盾の陰から、ガイウスの声が飛んだ。
「本人に聞ける距離じゃない。決めるな」
「……見える範囲では、歩幅は変わってない。右の脇腹を庇う動きも、まだ見えない」
「それなら、使える」
杭の横で、調査担当が紙の端を押さえた。
「今のは、書きますか」
「お願いします。右の脇腹です。爪の先が掠めました。血は、今は増えていません。深さは、空けてください」
調査担当は、言ったとおりに書いた。深さの欄は、白いまま残った。
後ろの曲がりの手前から、レムスの声が届いた。あそこからは、前が見えない。
「前で、何かありましたか」
「ゼノの右脇腹、爪が掠めた。動きは、変わってない」
「分かりました。……前を見るのは、見える人で分けてください。1人で全部を見ようとすると、どれかを落とします。後ろは、私が見ています」
ガイウスが、盾の縁の上から前を見たまま言った。
「なら、脇腹は俺が見る。血が増えるかどうかだけな。お前は足を見ろ。歩幅と、着くところだ」
「分かった。変わったら、すぐ言う」
全身を1人で追おうとすれば、どこかを見落とす。見る場所を分けると、自分の受け持ちの小さな変化が、前より近くに見えた。ガイウスは片手で腰の袋を探り、手当ての布を、盾の内側の取り出しやすいところへ移した。
巨体が前脚を振り、ゼノが爪の内側へ外れた。着いた足を、俺は見た。
「着いたのは、前脚の内側。歩幅は、さっきと同じ」
「脇腹も、血は増えてない」
ガイウスの声が、俺の声のすぐあとに続いた。2人で1つずつ言えば、どちらの言葉も短くて済んだ。
巨体は傷を守るために頭を低くし、前脚で道を削った。ゼノはその動きに逆らわず、崩れて下がる石を次の足場に変え、下から同じ場所へ刃を戻した。
白い線の真ん中から、小さな欠片が1つ落ちた。
「欠片が落ちました。白い線の、真ん中からです」
「奥へ、入りましたか」
「入ったように見えます。でも、深さは分かりません」
まだ、致命傷には遠い。それでも、硬く閉じていた鱗に、初めて奥へ続く亀裂ができていた。
ゼノは喜ぶ様子を見せず、同じ場所へ剣を向けた。積み重ねたものは、止まる理由にはなっていない。次の1本を外さないための、始まりの場所になっていた。
ゼノの脇腹から、血が1滴、石の上へ落ちた。俺は落ちる間隔を見た。増えてはいない。呼吸も乱れていない。それでも痛みがないとは決めず、傷の位置と長さだけを覚えておく。戻ってから、手当てをする人に伝えるためだ。
言われたとおり、俺は足を見ていた。だから、それが見えた。
ゼノが両足を大きく開き、強く振るための形を作った。左手が柄へ伸びる。両手で握るつもりだったのだと思う。けれど、柄に触れた左の指が、途中で止まった。握り込むまでが、右より一拍遅い。ゼノはすぐに左手を離し、右手だけで振った。刃は、それでも同じ線へ戻った。
訓練場の壁際で、あの手合わせを途中でやめたときのことを思い出した。やめたのは、2回目で左の腕が遅れたからだ。支援の荷を運ぶ前に「……腕?」と聞いたときも、ゼノは答えず、外套の留め具を右手で留め直しただけだった。それから宿の木杯も、訓練の木剣も、ずっと右手だった。今日の剣も、最初から右手だけだ。
今の圧力で痛めたのか、前から残っていたものなのかは、分からない。分からないことを、分かったことにはしない。
「左の腕も、確認する。握り直す手が、遅れた」
ガイウスは一度だけ前を見て、短く息を吐いた。
「……副木も、出しとく」
手当ての布の横に、副木が並んだ。まだ使わない。けれど、要るときになってから荷を探せば、戻る時間がそのぶん削られる。
杭の横で、調査担当が小さく聞いた。
「左の腕も、書きますか」
「はい。握り直すときに、左の指が遅れた、とだけ。理由は、書かないでください。俺には、分かりません」
調査担当は頷き、脇腹の行の下へ、1行だけ足した。
俺は目を回した。杭の根元の砂は増えていない。板の沈みも、さっきと同じだった。支えの後ろの斜面も動かない。
「杭も、板も、変わりなし。後ろの斜面も!」
重ね断ちは、同じ構えを繰り返す技ではなかった。巨体が変えた位置も、崩れた足場も、受けた傷も、全部を抱えたまま、狙う1点だけを外さない。正面から届かなければ前脚の内側へ入り、傷が隠れれば首が戻るまで待つ。変えているのは、そこへ行く道だけだった。
俺は1つが崩れるたびに、止まって作り直してきた。ゼノは、崩れた瞬間から次へ繋げている。足も、風も、目も、息も、同じ1つの場所へ戻り続けていた。
1度で届かないなら、同じ失敗をなぞるのではなく、届く形へ直して重ねる。俺が信じてきた積み方を、戦いの一瞬の中へ縮めたものに見えた。
亀裂が深くなるほど、巨体は首を守る動きを増やした。岩壁へ寄せ、前脚を重ね、圧力を足元へ撃つ。首を守るほど、尾は大きく振られるようになっていた。
その尾の先が、今度はゼノではなく、支えに近い岩の方へ回り始めていた。
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