灰色の記憶
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それでは、どうぞお楽しみください。
三十歳で、俺は死んだ。
仕事帰りだった。見慣れた駅を出て、いつも通る交差点を渡っていたことまでは覚えている。疲れていたし、何かを考えていた気もするが、その内容はもう思い出せない。
気づいたときには、強い光と音があった。
そして、次に目を開けたとき。
俺は赤ん坊になっていた。
最初は夢だと思った。身体は思うように動かず、言葉も話せない。視界もぼやけていて、目の前にいる人間の顔すらまともに判別できなかった。
それでも時間が経つにつれて、夢ではないことが分かってきた。
俺を抱き上げる女がいる。大きな手で頭を撫でる男がいる。二人が話しているのは知らない言葉で、暮らしている家も、前世の記憶にはない造りだった。
何より、俺自身の身体が明らかに赤ん坊だった。
前世の記憶を持ったまま、俺は別の人間として生まれ直していた。
三歳になる頃には、この世界が前世とはまったく違う場所だとはっきり理解していた。電気も車もなく、家は木と石で作られている。村の外には魔物がいて、剣や弓を持った人間が普通に歩いていた。
そして、この世界には魔法があった。
初めて大人が指先から小さな火を生み出すところを見たときは、前世の知識を持っていた俺でも、しばらく言葉が出なかった。
異世界。
結局、その言葉が一番近かった。
水桶に映った自分の顔を眺めたこともある。髪も瞳も黒く、特別整っているわけでもなければ、目立つ特徴があるわけでもない。どこにでもいそうな、平凡な子供の顔だった。
前世と似た髪と目の色には少しだけ安心したが、それ以上のものはなかった。容姿にも身体にも、特別な何かがあるようには見えなかった。
俺の名前は、レオン・アルヴェイン。
父はガルド。
村で狩人をしている、大きな身体の無口な男だった。口数は少ないのに俺を肩へ乗せるのは好きらしく、狩りから帰ってくると、ときどき何も言わず俺を持ち上げた。
母はミレナ。
よく笑う人だった。料理は少し苦手で、とくにパンはよく固くなった。
でも、俺はその固いパンが好きだった。
前世では、家族と呼べる人間とゆっくり過ごした記憶はあまり多くない。だからなのか、この世界での何気ない毎日は、不思議なくらい心地よかった。
四歳になった頃。
俺は初めて、自分の《ステータス》を意識して見ることができた。
名前:レオン・アルヴェイン
年齢:4
Lv2
職業:なし
筋力:5
耐久:5
敏捷:6
魔力:4
精神:8
《体術 Lv1》
しばらく眺めてから、俺が抱いた感想は単純だった。
普通だ。
多分、かなり普通。
父のような力があるわけでもなければ、村で魔法を使う大人たちのような魔力があるわけでもない。身についている技能も《体術 Lv1》だけで、特別な職業も持っていない。
転生した。
異世界へ来た。
前世の記憶まで残っている。
だから、少しくらい期待していたのだと思う。
誰にもない才能があるとか、途方もない魔力を持っているとか、神から特別な力を与えられているとか。そんなものが一つくらいあるんじゃないかと。
でも、なかった。
少なくとも、そのときの俺には何もなかった。
それでも、不満はなかった。
父と母がいる。毎日飯を食えて、夜になれば安心して眠れる場所がある。朝になれば母の声が聞こえ、父が狩りへ出ていく。
それで十分だった。
本当に、それだけでよかった。
あの日までは。
◇
村が襲われたのは、俺が四歳の終わり頃だった。
最初に聞こえたのは悲鳴だった。続いて、何か大きなものが砕ける音が響き、家の外が急に騒がしくなる。
父が立ち上がった。
俺を見てから、母を見る。
それだけで父の表情が変わった。
「ミレナ。レオンを連れて逃げろ」
母が何かを言おうとしたときには、父はもう壁に立てかけてあった弓と腰の斧を掴み、家の外へ出ていた。
俺も母に抱き上げられる。
外へ出ると、人が走っていた。
いくつもの家から火が上がり、悲鳴が絶え間なく聞こえてくる。その中に、一目見ただけで人間ではないと分かるものがいた。
黒い角を生やし、灰色の肌と赤い目を持っている。形だけなら人間に近いのに、そこに立っているだけで身体が動かなくなるほどの恐怖を感じた。
後になって、俺はそれが魔族と呼ばれる存在だと知る。
そのときは名前なんて知らなかった。
ただ、怖かった。
父は俺たちを逃がすため、その魔族の前に立った。
矢をつがえ、放つ。
放たれた矢は真っ直ぐ魔族へ飛んだが、相手は僅かに首を傾けただけでかわした。父はすぐに二本目、三本目と続けたものの、魔族はそのすべてを避けながら距離を詰めてくる。
速い。
俺には何をしているのか、ほとんど分からなかった。
それでも父は逃げなかった。
「行け!」
父の声が響く。
母が俺を抱いたまま走り出した。
それでも、俺は父から目を離せなかった。
魔族が一気に距離を詰める。
父は弓を捨て、腰に下げていた片手斧を抜いた。狩りで何度も使っている、刃の厚い斧だった。
魔族の腕が振るわれる。
父は身体を沈めてそれをかわし、踏み込んだ勢いのまま斧を振り上げた。魔族も僅かに頭を引いたが、完全には避けきれない。
斧の刃が、黒い右角の根元を掠めた。
硬いものが欠けるような音が響き、小さな黒い欠片が地面へ落ちる。
魔族が初めて足を止めた。
赤い目が細くなる。
父はすぐに斧を構え直した。
でも、次は間に合わなかった。
魔族が踏み込んだ瞬間、父の大きな身体が横へ弾き飛ばされた。地面へ激しく叩きつけられ、握っていた斧が手から離れる。
「お父さん!」
俺は叫んだ。
父は起き上がらない。
魔族の右角の根元には、確かに父がつけた欠けた跡が残っていた。
母の腕に力が入る。
「見ないで!」
俺の顔を胸元へ押しつけ、母は走った。
森へ向かって。
俺を抱いたまま、必死に。
けれど、追いつかれた。
背後から聞こえていた音が、あまりにも早く近づいてきた。
母は森の手前で俺を地面へ下ろした。
身体が震えていた。
それでも母は俺の顔を見て、笑った。
「レオン」
声まで震えている。
「走って」
俺は動けなかった。
父が倒れた。
魔族がいる。
母まで置いていけるわけがない。
「走るの」
母が俺の肩を掴む。
後ろから音がした。
近い。
母は俺を強く押した。
「生きて」
それが、母から聞いた最後の言葉だった。
俺は走った。
何歩か進んで、後ろを見てしまった。
母が倒れるところが見えた。
その瞬間、頭の中で何かが壊れた。
それでも、足だけは動いた。
暗い森へ入る。
木の根に引っかかって転び、泥まみれになりながら立ち上がる。息が苦しくても、足が痛くても、止まれば駄目だということだけは分かっていた。
涙が止まらなかった。
父も母も、もういない。
俺は何もできなかった。
四歳だったから。
弱かったから。
そんなことは分かっている。
それでも、俺の中に残った事実は一つだけだった。
俺は弱かった。
だから、守れなかった。
二度と同じことは嫌だった。
すぐじゃなくていい。
時間がかかってもいい。
何年でも、何十年でも。
強くなる。
誰かを守れるくらいに。
今度こそ、何もできないまま大切なものを失わないくらいに。
視界の端に、淡い文字が浮かんだ。
《精神が上昇しました》
《精神:8 → 9》
さらに、もう一つ。
《新規技能を獲得しました》
《不屈 Lv1》
意味は分からなかった。
表示を確認している余裕もなかった。
それでも足だけは止めなかった。何度転んでも立ち上がり、息が続かなくなっても前へ進んだ。
走った。
森の奥へ。
父と母の姿が見えなくなっても、俺は走り続けた。
そして――
限界まで走ったところで、俺の身体はとうとう動かなくなった。
暗い森の中。
俺はそこで倒れた。
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