第19話 見えない予定
秋の気配が少しずつ深まり始めた頃、木村は再びデータセンターを訪れていた。
共同研究も八か月目に入り、現場の技術者とも以前より自然に話せるようになっている。
応接室ではなく、その日は運用管理室へ案内された。
壁一面に並ぶ大型モニター。
画面には、施設全体の運転状況がリアルタイムで表示されている。
GPU使用率。
サーバー負荷。
冷却水温度。
電力使用量。
熱回収量。
数字は数秒ごとに更新され、まるで生き物のように変化していた。
「見ていて飽きませんね。」
木村が思わずつぶやくと、運用責任者が笑った。
「私たちも毎日見ていますよ。」
「ただ、問題は"今"じゃないんです。」
「明日なんです。」
木村はその言葉に反応した。
「明日の運転ですか。」
「ええ。」
担当者はモニターを操作し、一週間分のGPU使用率を表示した。
ある日は一日を通して四〇%前後。
別の日は深夜だけ九〇%を超えている。
その翌日は三〇%まで落ち込む。
「冷却設備は余裕を持って運転しています。」
「でも、本当は必要な時だけ能力を上げたい。」
「その方が電力も節約できますから。」
木村はグラフを見つめながら言った。
「需要が予測できれば、運転計画も立てやすくなりますね。」
「そのとおりです。」
担当者は少し困ったように笑う。
「でも、それが分からない。」
「今日の夜、大規模なAI学習が始まるのか。」
「明日は推論だけなのか。」
「私たちにも直前まで分からないことがあります。」
木村は首をかしげた。
「運用している会社なのに、ですか。」
「私たちは設備を管理しています。」
「でもGPUを使うのは、お客様なんです。」
担当者は別の画面を開いた。
そこには予約状況らしき一覧が表示されていたが、多くの項目が伏せられている。
「どの会社が。」
「何を学習しているのか。」
「どれくらいGPUを使う予定なのか。」
「契約上、私たちが詳しく知ることはできません。」
木村は少し驚いた。
「設備は管理していても、需要そのものは見えていない……。」
「そういうことです。」
担当者は苦笑した。
「冷却設備は熱を相手にしています。」
「でも、本当に知りたいのは情報なんです。」
その言葉が、木村の胸に残った。
熱を制御するには、熱だけを見ても足りない。
熱が生まれる"予定"を知らなければならない。
研究室へ戻る車の中でも、その一言が頭から離れなかった。
ボイラーの研究では、気温や曜日を調べれば需要を予測できた。
病院にもホテルにも、人の生活という規則があった。
しかしデータセンターには、その規則が見えない。
見えないのではない。
**情報として存在しているのに、届いていないだけなのだ。**
木村はノートを開き、大きく一行だけ書いた。
**「熱を予測するには、情報を予測しなければならない。」**
その一文が、新しい共同研究の出発点になった。
翌日、木村は研究室のホワイトボードに二本の線を引いた。
一つは、これまで何度も扱ってきた病院の熱需要。
もう一つは、データセンターの熱回収量。
病院のグラフは穏やかだった。
診療が始まる朝。
昼間のピーク。
夕方から夜へ向かって緩やかに下がっていく。
「やっぱり、人の生活にはリズムがありますね。」
隣でデータを見ていた学生が言う。
木村はうなずいた。
「だから予測できる。」
「昨日と今日で少し違っても、大きくは外れない。」
今度はデータセンターのグラフを映す。
教室が静かになった。
昨日は深夜に急上昇。
今日は一日中穏やか。
三日後には再び大きく跳ね上がる。
誰が見ても、規則性を見つけるのは難しかった。
「先生。」
学生の一人が口を開く。
「これ、本当に予測できるんですか。」
木村は少し考えてから答えた。
「予測できないデータはありません。」
「理由が分かっていないだけです。」
教授はそのやり取りを静かに聞いていた。
「研究者は、不規則という言葉を簡単に使ってはいけません。」
「必ず理由があります。」
「まだ見えていないだけです。」
その日の午後、木村は再びデータセンターの運用担当者へ連絡を取った。
「昨日見せていただいた熱回収量ですが、もう少し詳しく教えていただけませんか。」
担当者は快く応じてくれた。
オンライン会議の画面には、GPU使用率と冷却設備の運転履歴が表示される。
「こちらが昨日です。」
GPU使用率は午後十時から急上昇し、夜明け近くまで九〇%前後を維持していた。
それに合わせるように、冷却設備の負荷も上昇している。
「何か特別な運転だったんですか。」
木村が尋ねると、担当者は首を振った。
「私たちは予定どおり冷却しただけです。」
「GPUを大量に使うジョブが入ったんです。」
「その予定は事前に分かるんですよね。」
担当者は少し言葉を選んだ。
「全部ではありません。」
「事前予約されるものもあります。」
「でも、急に始まるものもあります。」
「お客様によって運用方法が違うので。」
木村は少し意外そうな表情を浮かべた。
「すると、冷却設備も直前まで準備できない。」
「ええ。」
担当者は苦笑した。
「だから余裕を持って運転しています。」
「本当は必要な時だけ能力を上げたいんですが、それでは間に合わないことがあるんです。」
木村はモニターに映るグラフを見つめた。
病院なら診療予定がある。
ホテルなら予約状況がある。
工場なら生産計画がある。
だから需要を予測できる。
しかしデータセンターだけは違う。
熱は生まれる。
しかし、その予定が見えない。
木村はノートへ一行書き加えた。
『問題は熱ではない。予定が共有されていないことだ。』
その瞬間、研究の焦点が少しだけ変わった気がした。
設備を改良する研究ではない。
情報をどう共有すれば、エネルギーをもっと効率よく使えるのか。
木村の視線は、熱のグラフから、その奥にある「見えない情報」へと向かい始めていた。
研究室へ戻ると、木村はホワイトボードの前に立った。
左側には、これまで研究してきた熱需要の要因を書く。
気温。
曜日。
時間帯。
利用者数。
天候。
どれも、人の暮らしから生まれる情報だった。
右側には、新しくデータセンターと書く。
その下は空白のままになった。
「何が足りない……。」
木村はペンを持ったまま動きを止める。
教授が静かに近づいてきた。
「答えは見つかりましたか。」
「いいえ。」
木村は首を振る。
「熱需要が変わる理由は分かりました。」
「AIの学習です。」
「でも、それを予測する方法が見えません。」
教授はホワイトボードを眺めながら言った。
「では、病院の需要は、どうして予測できるのでしょう。」
「診療時間が決まっているからです。」
「ホテルは。」
「予約があります。」
「工場は。」
「生産計画があります。」
教授は小さくうなずいた。
「つまり、熱を予測しているのではありません。」
「予定を予測しているのです。」
その一言に、木村は顔を上げた。
予定。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
病院には診療予定がある。
ホテルには宿泊予約がある。
工場には製造計画がある。
だから、熱需要を見積もれる。
木村はゆっくりとデータセンターの下へ書き込んだ。
AIジョブ予定
しかし、その文字を見た瞬間、また手が止まる。
「でも……。」
「その予定は見えません。」
「企業にも全部は分からない。」
「顧客情報ですから。」
研究室が静かになる。
今まで見つけたと思った答えが、また壁にぶつかった。
木村は椅子へ腰を下ろし、運用担当者との会話を思い返す。
"私たちも直前まで分からないことがあります。"
"お客様の学習内容は契約上お伝えできません。"
確かに、それは当然だった。
企業にとってAIモデルは重要な資産だ。
開発中のサービスや新製品の情報を外部へ知らせることはできない。
だから予定は共有されない。
木村はノートを閉じ、静かにつぶやいた。
「研究したいのは、AIじゃない。」
「熱でもない。」
「情報の流れなんだ……。」
教授はその言葉を聞いて、少しだけ笑みを浮かべた。
「設備は熱を運びます。」
「では、社会は何を運ぶのでしょう。」
木村は答えなかった。
いや、答えられなかった。
情報。
物流。
電力。
人。
社会には目に見えない流れが無数にある。
そして、その一つが欠けるだけで、熱もまた最適には動かない。
木村は再びホワイトボードの前へ立った。
病院。
ホテル。
工場。
データセンター。
それらを一本の線で結び、その中央に大きく一つの言葉を書いた。
予定
熱需要を予測する研究だと思っていた。
しかし、本当に研究すべきものは、その一歩手前にある。
未来の予定を、どう社会全体で活かすのか。
その問いが、新しい共同研究の輪郭を少しずつ形づくり始めていた。
数日後、共同研究の定例会議が開かれた。
大学と企業の担当者が集まり、木村はホワイトボードの前へ立つ。
そこには、これまで整理してきた図が描かれていた。
病院。
ホテル。
工場。
データセンター。
それぞれの横には、「診療予定」「宿泊予約」「生産計画」といった文字が並ぶ。
ただ一つ、データセンターだけが空白だった。
「今まで私は、この空白を埋めようとしていました。」
木村は静かに話し始めた。
「AIジョブの予定が分かれば、熱需要を予測できる。」
「そう考えていました。」
企業の担当者もうなずく。
「それが分かれば、私たちも助かります。」
「でも、お客様の情報ですから……。」
木村は首を横に振った。
「昨日までの私も、そう考えていました。」
ホワイトボードへ新しい線を引く。
AIジョブ予定
その横へ、大きく一本の線を引いて消した。
「でも、必要なのは予定そのものではありません。」
会議室が静まり返る。
「私たちは、どんなAIを学習するのか知りたいわけじゃない。」
「どんなサービスを開発しているのかも知る必要はありません。」
木村はペンを走らせる。
22時~翌6時 GPU使用率90%(予定)
その下に、
予想発熱量 ○MW
と書く。
「必要なのは、この情報だけです。」
「誰が使うのか。」
「何を開発しているのか。」
「それは秘密で構いません。」
「でも、今夜どれだけ熱が発生する予定なのか。」
「その情報だけ共有できれば、地域全体の熱利用は大きく変わります。」
企業の担当者が身を乗り出した。
「つまり……。」
「AIの情報を共有するんじゃない。」
「エネルギーに必要な情報だけを共有する。」
「そういうことですか。」
木村は大きくうなずいた。
「はい。」
「熱利用に必要なのは企業秘密ではありません。」
「熱需要の予報です。」
研究室に沈黙が流れる。
教授はホワイトボードを見つめながら、小さく笑った。
「木村さん。」
「あなたは以前、街を設計すると言いましたね。」
「はい。」
「街を設計するとは、配管を引くことではありません。」
「情報の流れも設計するということです。」
その言葉に、木村ははっとした。
ボイラーを動かすのは燃料。
ヒートポンプを動かすのは電気。
では、街全体のエネルギーシステムを動かすものは何か。
それは、未来を知らせる情報だった。
木村はホワイトボードの中央へ、大きく一つの円を書いた。
情報
そこから、
病院。
ホテル。
工場。
データセンター。
蓄熱槽。
地域熱供給。
すべてへ線を伸ばしていく。
「熱だけでは、街は動きません。」
「情報だけでも、街は動きません。」
「でも、この二つがつながった時。」
「初めて、本当に賢いエネルギーシステムになる。」
教授は静かにうなずいた。
「研究とは、新しい技術を生み出すことだけではありません。」
「別々だった世界を結び、一つの仕組みにすることです。」
木村はホワイトボードいっぱいに広がる図を見つめた。
研究の対象は、もうボイラーだけではない。
熱だけでもない。
人の暮らしと、AIの計算と、情報の流れ。
そのすべてが、一つの街を支えている。
ようやく、自分が目指す研究の姿が、はっきりと見えた気がした。
共同研究会議が終わり、企業の担当者たちが帰っていく。
研究室には、夕暮れの柔らかな光だけが差し込んでいた。
ホワイトボードには、今日描いた図がそのまま残されている。
病院。
ホテル。
工場。
データセンター。
それらを結ぶ配管。
そして、その上を横切る一本の線。
情報
木村は、その文字をしばらく見つめていた。
教授が静かにコーヒーを置く。
「何を考えていますか。」
木村は少し笑った。
「最初は、ボイラーを効率よく動かしたかっただけなんです。」
「熱損失を減らしたい。」
「起動回数を減らしたい。」
「それだけだったんです。」
教授は黙って耳を傾ける。
「でも研究を続けるうちに、熱だけ見ても答えは見つからないことが分かりました。」
「人を見て。」
「街を見て。」
「未来を見て。」
「そして今日は、情報まで見ることになりました。」
教授は窓の外へ視線を向けた。
夕焼けの街に、少しずつ明かりが灯り始めている。
「研究というものは。」
教授は穏やかな声で言った。
「対象は変わっていきます。」
「けれど、本当に変わっているのは、研究者自身なのです。」
木村も窓の外を見る。
以前なら、夜景はただの夜景だった。
今は違う。
マンションの給湯。
病院の空調。
ホテルのボイラー。
そして街のどこかでは、誰かがGPUを予約し、AIの学習を始めようとしている。
その予定は画面の向こうにしか存在しない。
しかし、その小さな予定が、数時間後には大量の熱となって現れ、街のエネルギーの流れを変えていく。
木村は静かにつぶやいた。
「熱は、目に見える。」
「でも、その未来を動かしているのは、目に見えない情報なんですね。」
教授は小さくうなずいた。
「だからこそ、研究する価値があります。」
二人はしばらく言葉を交わさなかった。
窓の外では、一つ、また一つと街の明かりが増えていく。
人が帰宅する時間。
飲食店が賑わい始める時間。
そして、誰にも気づかれないまま、どこかのデータセンターでは夜間のAI学習が始まろうとしていた。
熱は、情報を追いかける。
木村は、その当たり前でありながら誰も意識していなかった関係を、ようやく言葉にできた気がした。
共同研究 No.8
『熱は、情報によって未来が形づくられる。』
『研究とは、目に見えないつながりを見つけ、社会の新しい仕組みを描くことである。』
木村はノートを閉じ、研究室の明かりを消した。
廊下へ出ると、静かな大学の向こうで街の灯が揺れている。
その一つひとつの光の先には、人の暮らしがあり、AIの計算があり、そして、まだ誰も描き切れていない未来が広がっていた。




