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熱の居場所 ―ある研究者の記録―  作者: カワカン
第二部 統合 (Systems Integration)

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15/30

第15話 街は、一つのシステム

 共同研究が始まって一か月ほどが過ぎていた。


 木村の机には、施設ごとの運転データが何冊ものファイルになって積み重なっている。


 病院。


 ホテル。


 温浴施設。


 それぞれの熱需要は、以前よりも高い精度で再現できるようになっていた。


 木村は新しいシミュレーション結果を見つめ、小さく息をつく。


「ここまでは見えるようになった。」


 そうつぶやきながら、別の施設のデータを並べる。


 すると、不思議なことに気付いた。


 ある施設で熱需要が下がる時間帯に、別の施設では需要が増えている。


 その逆もある。


 木村は二つのグラフを何度も見比べた。


「……偶然かな。」


 さらに別の日のデータを表示する。


 やはり同じ傾向が続いている。


 木村が腕を組んで考え込んでいると、教授が静かに近づいてきた。


「何か気になることがありましたか。」


 木村はモニターを指差す。


「施設ごとに見ると問題はないんです。」


「でも、全部並べると動きがつながって見えるんです。」


 教授はしばらく画面を眺め、小さくうなずいた。


「ようやく、そこへ来ましたか。」


 木村は教授を見上げる。


「そこ……ですか。」


 教授は近くのホワイトボードへ歩き、一枚の地図を貼り付けた。


 共同研究先を中心とした地域の地図だった。


 病院。


 ホテル。


 温浴施設。


 公共施設。


 それぞれの位置へ印が付けられている。


 教授は地図を見つめながら静かに言った。


「今までは、一つの設備を見てきました。」


「今日からは、街を見てみましょう。」


 木村は地図へ視線を移す。


 今まで別々に見えていた施設が、一枚の地図の上では一本の線で結ばれているように思えた。


 研究はまた、新しい視点を迎えようとしていた。






 教授は地図の前へ立つと、病院を指さした。


「この施設は、一日中ほぼ一定の熱を使っています。」


 次にホテルへ指を移す。


「こちらは朝と夜に需要が集中します。」


 さらに温浴施設。


「ここは夕方から利用者が増えます。」


 木村はそれぞれの運転データを思い浮かべながら、小さくうなずいた。


「確かに、使い方が全然違います。」


 教授は地図の上に三つの施設を線で結ぶ。


「もし、それぞれを別々の設備としてではなく、一つのシステムとして考えたらどうでしょう。」


 木村はホワイトボードへ目を向けた。


「一つのシステム……。」


「つまり、街全体で熱をやり取りするということですか。」


 教授は静かにうなずく。


「そう考える研究もあります。」


「地域熱供給です。」


 木村は資料をめくりながら地図を見つめた。


 病院では昼間も熱を使う。


 ホテルは朝と夜。


 温浴施設は夕方以降。


 需要の山は、それぞれ少しずつずれている。


 木村はそのグラフを重ね合わせた。


 すると、今まで別々に見えていた波形が、一つの大きな流れとして見え始めた。


「もしかすると……。」


「熱を融通できれば、設備をもっと効率よく動かせるかもしれない。」


 教授は穏やかに笑った。


「それが今日の研究課題です。」


「設備ではなく、街全体をモデル化してみましょう。」


 木村は地図を見つめたまま、小さく息をのんだ。


 一つの設備を理解するだけでも難しかった。


 今度は、その設備同士のつながりまで考えようとしている。


 研究はまた、一段広い世界へ踏み出そうとしていた。





 木村はすぐにシミュレーションモデルを書き換え始めた。


 病院。


 ホテル。


 温浴施設。


 これまで別々に扱っていた需要を、一つのネットワークとして接続する。


 施設ごとの熱需要を時間軸に並べ、余った熱を別の施設へ送る条件を追加した。


「まずは理想的な条件で計算してみます。」


 教授は静かにうなずいた。


「仮説を立てるには、それで十分です。」


 計算が始まる。


 数十秒後、画面に新しいグラフが表示された。


 木村は思わず身を乗り出す。


「ボイラーの起動回数が減っています。」


「しかも、蓄熱槽の利用率も上がっている……。」


 熱を必要とする時間が少しずつ異なることで、一つの設備だけでは捨てられていた熱が、別の施設では有効に使われていた。


 木村は小さく笑う。


「街全体で見ると、無駄が減るんですね。」


 しかし教授は、画面から目を離さなかった。


「本当にそうでしょうか。」


 木村は振り返る。


 教授は地図を指さした。


「病院とホテルは、この距離です。」


「熱を運ぶ配管は、どれくらい必要になりますか。」


 木村は言葉を失う。


 配管の長さ。


 熱が移動する間の損失。


 送水ポンプの消費電力。


 建設費。


 シミュレーションには、まだ何一つ入っていなかった。


 木村はゆっくりとうなずく。


「熱は、ただ送ればいいわけじゃない……。」


 教授は穏やかに微笑んだ。


「一つの問題を解決すると、新しい問題が姿を現します。」


「研究とは、その繰り返しなのです。」


 木村はホワイトボードへ新しい項目を書き加えた。


 **配管距離。**


 **熱損失。**


 **送水エネルギー。**


 **建設コスト。**


 街全体を一つのシステムとして考え始めた途端、研究の世界はさらに広がった。


 それでも木村は不思議と焦りを感じなかった。


 新しい課題が見つかることは、前へ進んでいる証なのだと、少しずつ分かり始めていた。






 ホワイトボードには、新しく書き加えられた条件が並んでいた。


 熱需要。


 配管距離。


 熱損失。


 送水エネルギー。


 建設コスト。


 木村はその文字を眺めながら、小さく息をついた。


「街全体で考えれば、すべてが良くなると思っていました。」


「でも、それは違うんですね。」


 教授は静かにうなずいた。


「一つを良くすれば、別の何かに影響します。」


「熱を遠くまで送れば、利用できる熱は増えます。」


「しかし、そのための設備も必要になります。」


 木村はホワイトボードの矢印を見つめる。


 熱は流れる。


 その流れを支えるためには、新たなエネルギーも必要になる。


 街全体を一つのシステムとして見るほど、答えは単純ではなくなっていく。


「つまり……。」


 木村は静かにつぶやいた。


「研究は、一番良い答えを探すことじゃない。」


「何を優先するかを考えることなんですね。」


 教授は穏やかに微笑んだ。


「その通りです。」


「工学には、唯一の正解はありません。」


「限られた条件の中で、最も納得できる答えを探し続けること。」


「それが、私たちの仕事です。」


 木村はノートを開き、新しいページを開いた。


 **共同研究 No.4**


 しばらく考え、ゆっくりと書き始める。


 **『最適とは、一つを最大にすることではない。』**


 さらに、その下へ書き加える。


 **『街全体の調和の中で、答えは決まる。』**


 書き終えた木村は、ホワイトボードをもう一度見つめた。


 一つの設備から始まった研究は、今では街全体を見渡すところまで広がっている。


 視野が広がるほど、課題も増えていく。


 それでも木村は、不思議と迷わなかった。


 答えは一つではない。


 だからこそ、研究は続いていくのだ。:::




 研究室を出ると、外はすっかり夕暮れに染まっていた。


 木村は研究棟の前で足を止め、街並みを静かに見渡す。


 病院の窓には明かりがともり始めている。


 ホテルには宿泊客を乗せた車が次々と到着する。


 温浴施設の駐車場も、少しずつ車が増えていった。


 昼間は別々に見えていた建物が、今は一つの街として動いているように見える。


 そこでは、人が働き、人が休み、人が集まり、それぞれの暮らしの中で熱が使われている。


 木村は静かにつぶやいた。


「街そのものが、一つのシステムなんだ……。」


 少し後ろを歩いていた教授が、その言葉を聞いて穏やかに笑う。


「だから研究は面白いのです。」


「一つの設備を理解すると、その向こうに街が見えてきます。」


「街を理解すると、その向こうには、また新しい世界が見えてきます。」


 木村はもう一度、夕暮れの街を見つめた。


 一つひとつの建物は独立しているように見えても、熱も、人も、見えないところでつながっている。


 今日見つけた答えも、きっとその一部に過ぎない。


 そう思うと、不思議と胸が躍った。


 木村は教授と並んで歩き出す。


 街の灯りは、ゆっくりと夜の中へ広がっていく。


 その光を眺めながら、木村は次の研究課題を静かに思い描いていた。


 研究は、街とともに、さらに広い世界へ歩み始めていた。



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