第10話「灰谷の朝ごはん」
灰谷に来て十七日目。
朝。
セルディオが旅支度を整えていた。
昨夜は空き家の一軒に泊まった。たった一晩だが、ゆっくり眠れたらしい。顔色が昨日よりいい。
俺は台所に立って、握り飯を握った。
塩を利かせた根菜の混ぜ飯。握りたてだから温かい。
笹の葉に包んで、セルディオに渡した。
「道中の飯だ」
「……ありがとうございます」
セルディオが受け取った。両手で、大事そうに。
村の入口まで見送った。
俺だけじゃない。全員がいた。
マルトが「元気でやれよ、若いの」と笑った。
エルナが「お体に気をつけて」と頭を下げた。
ドランが「またこいよ。飯食わせてやるぜ」と胸を叩いた。ドランの飯は食わせない方がいいと思うが。
リーネは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
フィオが「さようなら、です」と手を振った。
セルディオが馬に跨った。
「ガルドさん」
俺を見下ろした。
「次に会うときは、胸を張れる自分になります」
「勝手にしろ」
返した。
口元が緩んでいるのが自分でも分かったが、直す気はなかった。
セルディオが一度振り返って手を振り、街道を走り去っていった。
金髪の背中が小さくなっていく。
大きく息を吐いた。
「疲れましたか?」
横にリーネがいた。
「……ああ」
正直に言った。
昨日の支援魔法——あれで魔力をかなり持っていかれた。体が重い。頭の奥がぼんやりする。
魔力の回復は睡眠と栄養でしか戻らない。今日は無理をしないほうがいいだろう。
「珍しいですね。ガルドさんが弱音を吐くのは」
「弱音じゃない。事実の報告だ」
小屋に戻ろうとした。
エルナが前に立った。
「なら、わたくしが朝ごはんを作りますわ」
「え?」
「お任せくださいませ」
ドランが手を挙げた。
「俺も手伝うぜ!」
マルトが「わしも何かできるかのう」と腰を上げた。
フィオが「ぼくも!」と目を輝かせた。
リーネが「わたしもやります」と言った。
俺は、椅子に座ったまま、その光景を見ていた。
五人が台所に立っている。
俺の台所に。
「……俺がいなくても飯が出るのか」
声が勝手に出た。
リーネが振り返った。
「当たり前です。ガルドさん一人に全部やらせるわけないでしょう」
当たり前。
その言葉が、妙に胸に響いた。
前の人生では——一度も聞かなかった。
毎朝五時に起きて資料を作っても。
休日に呼び出されて対応しても。
誰かが「手伝う」と言ってくれたことは、なかった。
転生してからも。
二十年間、パーティの全てを回しても。
誰も「一緒にやる」とは言わなかった。
今、五人が台所にいる。
初めてだ。こんなの。
後頭部を掻いた。
「そうか……そうだな」
ありがとう、とは言えなかった。
言い慣れていない。
だが——まあ、伝わっただろう。多分。
しばらく待った。
台所からいろいろな音が聞こえてくる。
鍋がぶつかる音。卵が割れる音。何かが焦げる匂い。
ドランの「あっ」という声。
エルナの「まあ」というため息。
マルトの「ふむ。火が強すぎたかのう」という呟き。
リーネの沈黙。沈黙は大体ろくなことが起きていない。
フィオの「殻が……入っちゃいました……」という報告。
嫌な予感がする。
台所を覗いた。
惨状だった。
エルナのスープは上品な見た目だが味見すると味がほとんどない。塩を入れ忘れたらしい。
ドランの肉炒めは真っ黒に焦げている。「火力だと思った」と本人は言い張っている。
マルトのスープは一口飲んだら喉が焼けそうなほど辛い。「薬味を少々入れただけじゃが」。少々の定義がおかしい。
フィオの目玉焼きは殻まみれだ。黄身が潰れている。だが、一生懸命作ったのは分かる。
リーネは——几帳面に手順を守って作ったらしいパンケーキが、見た目は完璧だった。
一口食べた。
甘い。甘すぎる。
「……塩と砂糖、間違えたか」
「……間違えてません」
「甘いぞ」
「……間違えました」
全員がしょんぼりしている。
五つの料理。五通りの失敗。
「……うん」
全部を見渡した。
「まあ、ひどいな」
正直に言った。
嘘はつかない主義だ。
五人の肩がさらに落ちた。
だが。
「貸せ」
立ち上がった。
エルナのスープに塩と胡椒を足す。ドランの焦げた肉から焦げていない部分だけ切り出す。マルトの辛いスープに白湯を足して薄める。フィオの卵は殻を取り除いて崩す。リーネのパンケーキは千切って具にする。
全部を鍋に入れた。
少し煮込んで、味を見て、塩を足して、香草を散らした。
六つの椀に注ぐ。
「食ってみろ」
全員が恐る恐る口をつけた。
「……おいしい」
フィオが声を上げた。
「だろ?」と言おうとして、やめた。
これは俺が作ったんじゃない。
五人が作ったものを、俺がまとめただけだ。
ドランが「やっぱガルドの飯が一番だぜ!」と叫んだ。
「俺は手直ししただけだ。お前らが作ったんだぞ」
エルナが「悔しいですわ。次はもっと上手に——」と目を細めた。
マルトが「まあ、次は上手くやるとするかのう」と顎髭を撫でた。
リーネが真顔で宣言した。
「わたしは塩と砂糖の容器に印をつけます」
「……そうしてくれ」
フィオが笑った。
「次はぼく、殻入れないです!」
「頼むぞ」
なんだ、これ。
楽しいじゃないか。
食後。
外に出た。
村の中を歩く。
修繕された家屋。ドランが建てた柵と見張り台。拡張された畑。エルナの薬草園の苗。フィオが練習で灯した光の焦げ跡が地面に残っている。
十七日前。
ここには何もなかった。
朽ちた家屋と、伸び放題の雑草と、一つの井戸。
今は——人の暮らしの匂いがする。
洗濯物が風に揺れている。畑の案山子に帽子が乗っている。かまどから薪の煙が細く上がっている。
井戸端に座った。
空を見上げる。
青い。雲が一つ、ゆっくり流れていく。
リーネがやってきた。
隣に——少し離れて座った。
「ガルドさん」
「ん」
「ここは、どうなるんですか? これからも誰か来ますか?」
「さあな。来る奴は来るだろう。来なくても別にいい」
「……そうですか」
リーネは空を見上げた。銀髪が風に揺れる。折れた角が朝日に光っている。
「わたしは、ここにいます」
静かな声だった。
宣言じゃない。確認だ。
ここにいる。この場所に。
「ああ。知ってる」
それだけで十分だった。
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。
風が吹いて、畑の案山子の帽子がかたかた鳴った。
マルトが近づいてきた。
「お前さん」
「何だ」
「最初は”自分のために生きる”と言っておったな。変わったか?」
考えた。
ゆっくりと。
「いや、変わってない」
「ほう?」
「ここにいる連中と飯を食うのが、俺にとっての”自分のための生き方”なんだろう。多分」
マルトが笑った。
「ふむ。良い答えじゃのう」
良い答えかどうかは分からない。
だが——嘘じゃない。
夕方。
全員で夕飯を作った。
俺が指示を出す。
「ドラン、野菜を切れ。もう少し小さく——まあ、それくらいでいい」
「おう!」
「リーネ、食材を氷魔法で冷やしておいてくれ。肉が傷む前に」
「……分かりました」
「エルナ、薬草園からハーブを摘んできてくれ」
「かしこまりましたわ」
「マルト、火の番だ。火加減を見てくれ」
「了解じゃよ」
「フィオ、食器を並べてくれ」
「はい!」
フィオの声が弾んでいる。「です」じゃなく「はい」。
心を開いた子供の声だ。
鍋をかき混ぜながら、後ろを振り返った。
五人がそれぞれの持ち場で動いている。
ドランが巨大な根菜と格闘している。
リーネが几帳面に食材を並べて冷却している。
エルナが摘んだハーブの香りを確かめている。
マルトが火の加減を見ながら顎髭を撫でている。
フィオが真剣な顔で椀を六つ並べている。
「……悪くない」
何度目だろう、この言葉。
でも、毎回少しずつ意味が変わっている気がする。
テーブルに着いた。
六人分のスープ。湯気が上がっている。
窓の外は夕焼けだ。
橙色の光が小屋の中に差し込んで、六つの椀を照らしている。
手を合わせた。
「いただきます」
全員が続いた。
「いただきます」
スープを、一口。
「うまい」
十七日前。
一人で、一つの椀で、同じ言葉を言った。
あの時は——自分のために作った飯だった。
今は違う。
六人で作った飯だ。
六人分の手間と、六人分の失敗と、六人分の笑い声が入った飯。
うまくないわけがない。
目尻が下がるのを感じた。
泣きはしない。もう泣く歳じゃない。
ただ——温かいな、と思った。
食器を洗った。
井戸端で水を汲み、一つずつ丁寧に。
星が出ていた。あの日と同じ、降るような星空。
「明日の朝飯は何にするかな」
独り言。
背後から声が飛んできた。
「パンが食べたいです」
リーネだ。
「肉!」
ドラン。
「目玉焼き!」
フィオ。
「ハーブティーがいいですわ」
エルナ。
「なんでもいいが、多めに頼むぞ」
マルト。
椀を拭きながら、笑った。
「はいはい。全部作るよ」
五人がそれぞれの小屋に戻っていく。
灯りが一つずつ灯り、一つずつ消えていく。
最後に俺の小屋の灯りだけが残った。
暖炉の火を落とす。寝台に横になる。
天井の隙間から、星が一つ見えた。
十七日前と同じ星だ。
あの夜は一人だった。
今は——小屋の外に、五つの寝息がある。
目を閉じる。
明日も朝が来る。
畑に水をやって、飯を作って、薪を割って。
リーネが「別に」と言い、ドランの尻尾が揺れ、マルトが「ふむ」と顎髭を撫で、エルナが「まあ」と微笑み、フィオが「お姉ちゃん」とリーネを呼ぶ。
そんな一日が、また始まる。
それだけで——十分だ。
灰谷の夜が、穏やかに更けていく。
——しかし。
目が落ちかけた、その時。
遠く——村の入口の方から、微かな灯りが近づいてくるのが見えた。
窓に目をやる。
数人の人影。
疲弊した旅人たちが、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「すみません——」
声が聞こえた。
「ここに、居場所をなくした者でも泊まれる場所はありますか」
俺は——。
後頭部を掻いた。
立ち上がって、扉を開けた。
夜風が頬を撫でた。
「……飯、食うか」
灰谷の物語は、まだ続く。




