第捌幕:便所掃除にはうってつけの日
『……ちらは、飛騨稲荷しや……しょです。非常回線にて反復放送しております――。
現在、市中心街は多数の発狂市民により占拠されており、行政として、市警等に対しては早急な対処・対応をお願いしているところです。
市役所と致しましては、市民の皆さんには次のように勧告致します。
(一)市中心街等の「緊急退去命令」の対象地区にお住いの方は、速やかな退去をお願い致します。また現在、当該地区内を移動中の方も同様です。
(二)現在、市中心街等を除く市内全域には「準退去命令」が発令されております。できるだけ速やかに、可能な限り市中心街等から遠ざかって下さい。
(三)以上の二点を可能な限り実行して頂きたいのですが、万が一、実行不可能な場合におきましては、安全だと思われる建物に避難し、脅威が去るまで待機して下さい。
(四)本事象の脅威性を鑑みて、夜間は原則、外出禁止とします。ただし、身の安全が確保できない場合は、この限りではありません。
なお、本市は県知事・県議会の命令により、「緊急隔離地区」に指定されました。本日午後六時以降、許可なく市外への離脱を試みる者は、治安当局の「指導」等を受けます。
次に、比較的安全な避難所と、比較的安全と思われる避難経路をお知らせ致します。ただしこの情報は、本日午後四時の時点での情報です。
飛騨稲荷神学校は比較的安全な避難所です。比較的安全な経路は次の三つで、稲荷大橋を北上する経路と大宮橋から迂回する経路、それから……――』
§ § §
猫というものは、非常に可愛らしい生き物だと思う。
とりわけて黒猫はそうだろう。
冬風院葵嗣は、食肉目ネコ科の動物は全般好きだったが、トラよりもライオンよりもまず猫が好きだった。
飼い猫としてのイエネコはその起源を古代エジプトに求めることができ、当時は非常に神聖な動物として崇拝されたという。と同時に、猫は魔性の生き物とも見做され、黒魔術師や魔女の使い魔、悪魔の化身などとも考えられて、特に黒猫は不吉な存在であるとした伝承も世界各地に残されている。
今、葵嗣の目の前で美味そうに煮干しを食んでいるこの黒猫は、野良の身でありながら毛並みの色つや、撫で心地ともに申し分なく、中世西欧人が魔性の存在として恐れたのもまことに首肯できる。
「うまいか?」
膝を折ってしゃがみ込み撫でてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めて喉を鳴らしはじめた。こいつは一々、人のツボをピンポイントでついてくる奴なのだ。
みい……と鳴いてさらなる餌をねだるミイに追加の煮干しを分け与えてやりつつ、これ以上はやんねーと呟いて下品にべーと下を出してみせる。
「せっせっせーのよいよいよい、と」
しばらくの間そうして、猫の前足の片方を伸ばしたり持ち上げたりして弄って戯れていると、
「二尉、殿……」
背後で声がした。フィボナッチ隊の中で二等園尉の階級にある聖騎兵は葵嗣しかいないのだから、おそらくは自分が呼ばれたのだろうと立ちあがる。
駅舎正面の北口とは違って南口はそれほど大きな改札ではなかったから、警備の部隊も向こうほどたくさんはあてがわれてはいない。葵嗣が指揮を執る第壱小隊以外の遊撃部隊にも二尉の士官は葵嗣以外いないのだから、普通に考えれば自身を呼ぶ声なのだろうが。
「なんだ?」
「ひぃ!」
思ったより低い声が出てしまい内心焦る。また怖がらせてしまった。
自身の副官に胸中で、今日十幾度目かの謝罪をしていると、
「は、はいっ。たっ、ただいま戻りましたっ」
無言で頷くと、今度は何に怖がっているのだろう、副官はまた双肩をビクつかせて半歩後ずさった。
(どうしたもんか……)
葵嗣は胸中で無言の思案に耽るが、曹長はその無言を苛立ちによるものであると推察したらしい。
「指揮所で確認しましたところ、わっ、我が方の損害率は三割ほどのよ、ようですっ」
「……続けろ」
「はっ! 我がフィボナッチ隊ほか、金沢派遣隊の七隊は残存兵力は百二十余。合流した塩小路光明三尉旗下の〈南部方面群〉の残存兵力は五十余名とのことですっ。以上です!」
「……新しく合流した部隊があるだろ」
「は、はひっ! も、申し訳ありませんっ、〈東部方面群〉の残存部隊がありましたっ、三十名ばかりと伺っておりますっ!」
なるほど全体だと、ざっと二百名ほどか。
勿論これは単純計算であって、部隊長や指揮官クラスの兵士が殉教ないし不在のこの状況では、部隊全体の指揮系統は不明瞭かつ不完全だ。当然個々が、個々の持つポテンシャルを十分発揮することは極めて困難である。
「どうしろってンだよ……ッ」
「ひぃ!」「みゃう!」
つい低い声が出てしまう。別に不機嫌なわけでもない。
連絡はついているのに何ら明確な指示を寄越さない司令部に対する呟きなのだが、か弱く鳴いて縮こまるミイの背中を撫でつけて悪かったな、大丈夫だと安心させつつ、思考の半分ほどで今後の動向について考えてみる。
「なあー」
ふと足元から鳴き声が聞こえ、意識を呼び戻すと先ほどのミイがじゃれて足にまとわりついている。制服に毛がつくと後で手入れが大変だから抱っこしなかったのに。
(ええい、クソ!)
葵嗣は部下がいるのも忘れて、
「おいで」
胸の前で腕を交差させて籠を作ってやると、ミイはなあなあと鳴きながら飛び乗ってきて満足そうにすっぽりとそこに収まった。
「あ、あの……葵嗣さま?」
腕の中でごろごろと喉を鳴らしながら甘えてくるミイを肩に乗せてやってバランスを保っていると、少年は心底言いにくそうに口をもごつかせる。
言いたいことがあるならはっきり言えと無言の催促をすると、彼は恐る恐る口を開いた。
「葵嗣さま。その猫は、いかがなさるおつもりですか? ま、まさかお飼いになる訳ではございませんよね?」
「……なぜそんなことを聞くんだ」
「き、規則では、寮はペット禁止だからですっ」
「…………」
葵嗣は眼前の副官と見つめ合って、続いて右肩に乗っかっている黒猫と顔をつきあわせた。
「なあー、なあ!」
突然、ミイが器用に前足を使って肩から葵嗣の頭上へと上がった。
勝ち誇ったような、至極愉快そうな声で幾度か鳴いている。なるほど、やはりミイもオスなのだと知れた。
葵嗣も小さい頃は高いところなどが好きで、良く実家の屋上や時計塔などにこっそり登って叱られた記憶がある。
「発狂市民を視認! 数、六ッ!」
その時、唐突に兵の声が轟いた。「そのさらに後方十メートルに、新たな発狂市民の集団あり! 数、八ッ!」
「葵嗣さま、真っ直ぐこちらに歩いてきます!」
見張りのためロータリーの少し向こう、通りに面するところに置いていた見張りのうちの幾名かが駆け戻ってきた。
葵嗣の周りで、兵士らの矢継ぎ早の報告を聞いていた他の兵士たちにも緊張が走る。
大通りに面する北口のロータリーと違い、南口は改札の大きさもそれほどのものではなく、ロータリーも主に乗降客を相手にしたタクシーや、彼らの送り迎えのための車を駐車させるスペースといった雰囲気が強い。
また北口とは違って市街地の中心と対面しているわけではなかったから、警備の部隊は葵嗣のフィボナッチ隊第壱小隊と、元々この南口の警備を担当していた第六鎮圧隊のユークリッド隊、ベルヌーイ隊の残存部隊だけだ。兵員数でいえば、二個小隊ほどにすぎない。
「見張りの兵士をロータリー半ばまで後退させろ。各員、敵とは一定距離を保って交戦すること。第壱小隊、現場にて援護射撃の準備、急げッ」
葵嗣の指示に従って見張りの前衛が広場の中央部まで下がってきた。ユークリッド隊とベルヌーイ隊が指揮官を中心にそれぞれ両翼に展開する。一定の距離を保ちながら、やがて発狂市民の群れがロータリー内に侵入してきた。
「極力弾薬は節約しておきたいんだ。前衛が奴らを引きつけている間に、両翼は背後に回り込んで銃剣で刺し殺せ。タイミングを合わせろよ」
云いながら、葵嗣は腰に吊った大型拳銃を抜き取ってその残弾を確認する。
第壱小隊の部下たちは片膝をついて機銃の狙いを澄まし、僚隊は完全なる包囲網の形成に成功した。
葵嗣は反対の左手を顔の辺りまで上げて、次の瞬間、ゆっくりとそれを振り下ろした。
刹那、二隊の兵士たちが各々の機関銃の先端を奴らの頭部めがけて突き立てる。六体の発狂市民はたいした抵抗もなく無力化された。
「よし。次だ。前衛は再び中央へ集まれ。各隊はもう一度、さっきの位置にッ」
『了解ッ!』
こうしてその次の八体も、また何の抵抗もなく刺殺せしめられていく。
――結局、頭上に頂いた猫をどうするのかは有耶無耶となった――。
§ § §
曹長は中一生。神学校の飛騨稲荷支部校中等部に在籍し、栄誉ある〈聖年騎士団〉の聖騎兵であることに誇りを持っていた(勿論これは本心である。本当である!)。階級は曹長であった。
普通、騎士団は訓練兵である二等兵にはじまり、在学中の六年間の間に十度の昇進が定期で定められてあって、最終学年である高等部三年次では三尉の階級に、高等部卒業の際にはこれまでの戦績や武勇に応じて二等園尉以上の階級で卒業することができるようになっている(卒業時の昇進も数に入れれば合計十一回になるが)。
中一生の間には昇進は三度あり、さしたる手柄や功績がなくとも普通にそこそこ職務を全うしていれば兵長の階級となれるのだが、準幹部候補兵卒の曹長はすでに「曹長」の階級にある。
階級が上がれば、その分だけ褒賞金の額も大きくなるが、別にお金欲しさに神学校に進学したわけではないし、そもそも曹長は高い階級や役職など望んでいたわけではなかったのだ。
それが、何をどう間違ったのか、準幹部の候補兵卒に選抜され、訓練課程を修了するや否やいきなり夏風院葵嗣二等園尉の副官を命ぜられ、と同時に二尉の小隊の副長職まで押しつけられてしまったのである。
「ううぅー。ホントに怖いよー……」
男子トイレの洗面所で手を洗いながら、曹長は小さくその身を震わせた。何も外気が寒いことによるためではない。無論、上官が怖いことによるためである。
「まだ悩んでらしたんですね」
視線を上げると、壁面の鏡越しに兵長の折襟章をつけた少年が立っていた。
「兵長くん」曹長は鏡の中の彼に視線を合わせた。
「その兵長って言うの、好い加減……。はあー……。もういいです、どうぞ好きに呼んでください」
呆れた様子でそう告げて、兵長は洗面台の前を通りすぎた。
「人の用を足すところを覗くのが、あなたのご趣味なんですか」
「バっ、バカ! 違うよ!」
曹長は慌てて視線をそらし、身体ごと反転して少年に背を向けた。「ただ、ちょっと……。兵長くんのところは、上官の菊嗣さまと上手くいってるなーと思って」
「ああ、またその話ですか」
今日は本当に冷えて困りますねーと云う声が背後からして、曹長は少しむっとした。確かに兵長にはもう幾度となく相談には乗ってもらってはいたが、そこまで適当に聞き流さなくたっていいじゃないか。
「曹長くん。そこまで腹を立てなくてもいいじゃないですか。僕に手を洗わせないつもりですか」
「バッ! 違うよ、そんなつもりじゃあ!」
「どれだけ馬鹿というんですか君は、バカなんですか」
曹長は半歩退いて場所を開けてあげる。液体石鹸で念入りに手を洗った兵長は、濡れた手を勢いよく振ると、
「ひゃう!」手の雫がこちらの顔に飛び散った。地味にひどい。
「だから何度も申し上げたでしょう。僕はそんなに菊嗣さまには好かれていないと。まして仲がいいだとか親しい、だなんて」
ハンカチを出して顔に飛んだ水滴を拭き取りつつ曹長は言葉を返す。
「そんなことないもん! 兵長くんは仲がいいよ、菊嗣さまと。見てて分かるもの。菊嗣さまは兵長くんのことすっごく信頼してるし、頼りにしてるよ、断言してもいい!」
「……ば、バカなんですか。何を、大声て言って……っ」
「……? とにかくっ! 兵長くんは菊嗣さまに信頼されてて、とってもとっても大事にされてるってことなのっ! 分かった?」
「…………」
「分かったっ? どうなのっ、兵長くん!」
どうしたのだろうか。急に押し黙り、顔を俯けてしまう兵長。
曹長はますます頭に来てしまった。
どうして誰も僕の話をまともに取り合ってくれないんだろう。僕はこんななにも真剣に悩んでいるのに!
「だから、兵長くん! 僕の話をちゃんと聞いてよっ。兵長くんは菊嗣さまに――」
「もうそのへんで許してあげて」
『――っ!』
唐突に声がして、曹長はトイレの入り口の方を直視した。兵長も続いて顔を向けた。
「さ、三尉どの……」
兵長が呆然とした声で呟いた。あまりの驚きにこれでもかとその双眸を見開いて声の主を凝視している。
「……菊嗣さま。盗み聞きとは趣味がよろしいようで」兵長は何とかそう言い返すと、ふいとその視線を別な方へと逸らしてしまう。
「うーん、確かに悪かったねー。ゴメンね? でも、残念ながら盗み聞きしてたのはボクだけじゃなかったんだよねー」
『…………?』
曹長と兵長は二人して顔を見合わせた。兵長が不審そうな顔で菊嗣の方を見やる。
「出てきなさい、悪い子さん」
小さく笑いながら、菊嗣は外にいるのであろうその人物に対して呼びかけた。
((どの口が言うんだ))
三尉の呼びかけに、その人物はおずおずといった様子で姿を現した。
「あ、あおっ、葵嗣さま!」今度は曹長が呆然とする番だった。
「よぉ……」
「どうして二尉殿がっ、ここに!」
葵嗣が少々極まりが悪そうな顔をしたので、
「君たちが洗面台のそばで立ち話してたから、中に入れなかったみたい」
曹長のその問いに対しては代わりに菊嗣が答えた。「ボクは特に用はなかったんだけどー、アオくんが見えたからさー。何してんのかなーと思って」
「俺は別に……。立ち聞きしようと思って立ってたわけじゃねえよ。ただ……」
「ただ? なに、アオくん?」
だんだん消え入るような声になって、しまいには葵嗣は俯いてしまった。一度だけ、ちろりと曹長の方に窺うような目を向けたが、それもすぐにそらしてしまう。
「ああー。なるほどー」
「そういうことですか」
「……? つまり、どういうことですか?」
「…………」
「もう! じれったいなあ! アオくんもアオくん、曹長くんも曹長くんっ!」
尉官用制帽を脱いで乱暴に頭を掻く葵嗣を、菊嗣と兵長は同じような半笑いの顔で注視する。曹長には何が何のことなのかさっぱり分からなかったが、葵嗣には察せられたのだろうか。ふいと顔を明後日の方へ向けている。
「だから、アオくんはね――っ!」
ううぅ! ああ……ッ
その時、突然背後の個室トイレの一つから妙な呻き声が聞こえた。
刹那――
「ううぅッ!」
勢いよく個室の戸が開いて、中から一人の若い駅員がゆっくりと歩み出てくる。肌の血色が尋常なそれではない。そして何よりこの青年は、右の腕がどう見てもまともな方向を向いていなかった。
(間違いない、発狂者だ!)
そう直感するや曹長はお決まりの文言を唱えることにした。一応確認を取らなくてはならないだろうし、何よりも、金沢では結局一度も述べる機会がなかったのだ。
拳銃を構えつつ、曹長は高らかに宣言した。
「我々は聖年騎士団である! 我々はこの駅舎の防衛並びに警備を命ぜられてある。我々の命令に従い、速やかに歩行を停止せよ! 命令に従わない場合、教務執行妨害と見なすが、」
「ああぁ……」
「そ、そこで止まりなさい。歩行を停止されよ!」曹長はその銃口を彼の頭部に向けた。
男は尚も一歩一歩、確かめるようににじり寄ってくる。
「教務執行妨害で貴君の身柄を拘束する! 我々には拘束権ないし逮捕権がある。我々には銃火器の使用権限が与えられている。貴君は弁護士を雇うことができる。これ以降の貴君の発言はすべて記録されて……。き、記録……されるから……!」
「はああッ! ううぅッ!」
突然、青年が曹長めがけて倒れ込んできた。
「ひいいっ! やめてっ、放して! バカバカっ、放してぇ!」
「なにやってんだよ、お前は!」
「あ、あお……さま! 助けてえッ!」
「ああ、くそっ! ええい、鬱陶しい!」
葵嗣はそう云うなり、曹長の拳銃を半ば引っ手繰ると、
ダン――!
こめかみに弾丸を撃ち込まれた青年はそのままぴくりとも動かなくなった。
「お前は馬鹿なのか? 自分から距離を詰めるやつがあるか!」
「は、はひっ! ごめんなさい!」
「それから菊嗣!」
「えッ? あっはい!」
「便所点検の部隊を監督してたのはお前だろ。どうなってんだよ、ウチの大事な副官を殺す気か? ボケッ!」
上官のいつにない剣幕に内心ビクつきながらも、曹長は何だか顔が熱くなるのをとめられなかった。
(今、大事なって、言ってくれた……)
無論、曹長の記憶の中で、葵嗣にそんな風に言ってもらったのははじめてである。
「おい、へらへらしてんじゃねえよ」
もの凄い凶悪な声色だったが、葵嗣が今どんな恐ろしい顔を晒しているのかを、曹長は拝まずにすんだ。というよりも、拝めなかった。曹長の顔は今、上官の胸部に押し当てられていたから。
「場合によっちゃ、責任問題だぞ。ああ? 聞いてんのか、クソボケッ!」曹長の後頭部を撫でながら、葵嗣は言葉を続ける。「どうしてくれんだよ、こいつが副官を辞めるなんて言い出したら」
「なんでー?」不意に、菊嗣が問うた。「どうして困るの? この子がいなくなったら」
「そっそれは……、その……」
「代わりの子なんて、正直いっぱいいるじゃん。ねえ、兵長?」
「……そうですね、おっしゃる通りです」
その質問は、曹長もおおいに疑問に思っていたものだった。菊嗣と兵長の言うことは至極もっともである。
結局のところ、誰に相談しようとも、曹長は直接彼の口から答えを聞きたかった。
「…………」
『…………』
一同は沈黙して待った。葵嗣は必死に言葉を探しているらしかった(頭上でうんとかすんとか言う苦しそうな声が聞こえる)。
「……必要、だからだ。小隊にとって」
「ふーん。それだけ?」菊嗣の鋭い催促の声が飛ぶ。
「…………。俺にとっても、必要……だ。頼りにしてるし、大切にも思ってる」
「ふふ、そうなんだー」
「だ、そうですよ。曹長くん」
背後で笑いをこらえつつ云う兵長の声を聞きながら、曹長はますます顔が熱くなるのを感じて、葵嗣の背中に回した腕を固くした。
後ろの一士官と一兵卒はきっとニヨニヨと意地悪な笑みを浮かべ合っているに違いない。そういうところは本当に、副官は上官に良く似てくるのだ。
「そ、そんなに怖かったのか?」
頭上から心配そうな声がかかる。
どこかで、みい……と鳴く猫の声が聞こえたような気がした。
曹長は気にせずに、ただ葵嗣の撫ぜる手の感触を味わうことに徹することにした。撫でられるのも、たぶんはじめてだと思う。
「兵長も。変なことで悩んでないで、ちゃんと言葉にしてね」
「……何のお話ですか。僕は、別に……」
「別に誰かの代わりとか。そんなんじゃないよ、ホントに」
「……そうですか」
背後でそんな風な会話が聞こえたような気がした。あの兵長が、嬉しいという感情を声にまで漏らしてしまっている。それくらい声色が明るかった。しかし、正直なところ、今の曹長にはそれどころではなかった。
いつまでも上官の胸を借りているわけにもいくまい。
熱い――おそらくは林檎のように紅潮したこの顔を、いかに元の状態に冷ましてやるか。
そればかりが、今の曹長には気がかりなのであった。
§ § §
「みいっ!」
「しーっ。ミイくん、静かに。みんなに気づかれちゃいますからね」
「ねえ、ユキくーん。僕、おトイレなんだけどー」
腕に野良の黒猫を抱いてその背を撫ぜていると、後ろの少年が半ば懇願にも似た声を出した。
「梅嗣、少し静かにしてください。四人にバレちゃうじゃないか」
「……。ユキくんって、意外といい趣味してるよね」
「………黙りなさい」
トイレトイレとうるさい梅嗣に負けて、雪嗣はしぶしぶその場から離れることにした。仕方がないので二人で装甲列車の化粧室を目指す。
「別に、僕だって聞きたくて聞いていたわけじゃないですよ」
ホームを移動する道すがら、先ほどの失礼な発言に対しての弁明をする。「桜乃さまに指示されたこと、もう忘れたんですか。僕ら三人がしでかした事の懲罰として、構内のお便所を掃除するようにと」
「ちゃんと覚えてるよう! でもその前に、おトイレがしたかったの! ユキくんが邪魔するからー、もうっ! また敬語になってるしー」
なるほど確かにそうだと雪嗣は苦笑して、けれど何だか癪だったので本人に直接にではなく胸中でのみ誤っておく。
「いいじゃんか、別に。気にせずに堂々と入って用を足せばさあ」
「君って人は本当に。あなたには配慮や思いやりといった心はないんですか?」
「盗み聞きをしてまで相手を察する気持ちなんか、僕はいらないよう」
「…………」
そう言われてしまっては反論する言葉がなくて、雪嗣は顔を背けるより他にはどうすることもできなかった。自分一人にだけ聞こえるように小さく鼻を鳴らす。
車輌のステップの前に立つと、先に梅嗣に道を譲った。雪嗣も後からステップを上がり、前を行く梅嗣の後を追った。
もう一度小さく鼻を鳴らし、周囲には他に誰もいないことを確認すると、雪嗣は舌を出した。
そういえば、彩都准将の副官はどこに行っただろう。桜乃と准将の二人から課された指示を完遂しない限り、いつまでたっても雪嗣らの懲罰は完了しない。
「ねえ、桜庭一尉は? とっととお掃除すませたいんだけどー」
「し、知らないっ。後にして!」
「……はいはい」
騒がしく駆けて行く梅嗣を追うようにして、雪嗣はゆっくりと車内通廊を進んでいった。
〈第捌章・終〉




