11-3 約束の地
叙任式から、四か月。
とても良い天気だ。雲一つない快晴。夏を絵にかいたような青空が広がっている。
シャールーズはベッドから起き出し、木々の間から覗く煌めく湖を眺めた。
上半身裸のままだから、少し肌寒い。
「う……ん」
朝日の眩しさに、アフタルは寝返りを打った。
ゆるく三つ編みにした金髪。眠りの中でも恥じるように、白い肌を毛布で隠している。
窓を開いたせいか、アフタルが小さくくしゃみした。
「しまった。ちゃんと着せておくべきだった」
床に落としたままのアフタルの寝間着を、慌てて拾い上げる。
亜麻布の寝間着を少々手荒に扱ったせいか、胸元に並ぶボタンがとれてしまっている。
これはまたミーリャに文句を並べ立てられるだろう。いや、ミーリャだけではない。ラウルにも小言を言われてしまう。ねちねちと。
「ま、見なかったことにしよう」
シャールーズは寝間着を丸めて、ベッド脇に置いた。そしてガウンを毛布の上からかけてやる。
「……私は見ましたよ」
いつの間に入って来ていたのか、ラウルが開いた扉の前に立っていた。
腕を組んで、たいそう不機嫌そうだ。
「なんで勝手に入ってくるわけ? 夫婦の寝室だぞ」
「ノックしました。何度も」
「聞いてねぇ」
シャールーズは今は大公配殿下なのだが、ラウルにはそんな身分は何の関係もなさそうだ。ちなみに大公配殿下という言葉自体がないので、急遽新たに作ったらしい。
それまでは女王であれ女性の大公であれ、夫は王配殿下と呼ばれていたので、混乱をきたすことがないようにだろう。
将来、盟主国であるサラーマに女王が誕生する可能性もあるだろうから。
「まったく、もう」
ぶつぶつ言いながら、ラウルは勝手にクローゼットを開けて、アフタルの服を用意した。
「今日は確か国境の視察でしたね」
「ああ。視察という名目で、湖畔でのんびりしようってところだ」
「……詳細な説明は不要ですよ」
ラウルは苦笑したが。それでも彼も分かっている。建国したばかりの君主は忙しく、本来の休日だけではアフタルもしっかりと休めない。
会議に視察、他国との外交。仕事は山のようだ。
無理にでも任務の名を冠した休息を与えなければならないのだ。
「でしたら、ドレスはお召しにならない方がいいですね。陽射しが強いので日傘も用意しましょう」
「湖の側なら木陰があるだろ」
「それまでの道中に用います。アフタルさまは日焼けをなさると、肌が赤くなられますので」
お前は侍女か。それともアフタルの保護者か。
ラウルはたたんだ服を手に、ベッドの横に立つ。
「おはようございます。もうお目覚めの時間ですよ」
「……今、起きます」
「いえ、そのままで。私が、目のやり場に困りますから」
上体を起こそうとしたアフタルを、ラウルは制止する。
そりゃそうだよな。シャールーズはラウルから服を受け取ると、彼女の顔を覗きこんだ。
「おはよう」
約束通り、朝のキスをする。
ふふ、と柔らかくアフタルが微笑んだ。だが次の瞬間、言い方は変だが彼女の頭が目覚めたらしい。
「い、今、ラウルの声が聞こえました」
「はい。ここに」
アフタルはラウルを確認し、毛布をまとっただけの自分の姿を認識し、キスされた唇に手を触れて、目を丸くした。
「きゃあああっ!」
さっきまで使っていた枕を投げつける。ついでにシャールーズの分の枕も。
ぼすん! ぼすん!
枕は二つとも、ラウルとシャールーズの顔にぶつかった。避ける暇すらなかった。
「たいしたもんだ。目を瞑っていても命中率が上がっている」
「威力も増していますね」
「クッション部隊とか作ったらどうだ?」
「大公殿下自らが、指揮なさるのですか? 武器としては平和的ですね」
暢気に会話するシャールーズとラウルの前で、アフタルはベッドにもぐりこんで、丸くなった。
男性たちは、恥じらいというものが分かっていない。
◇◇◇
視察とは名ばかりのお出かけ。対岸にカシアの国境の町であるオスティアがぼんやりと見える湖畔に、布が敷かれた。
そこにアフタルとシャールーズが腰を下ろしている。
ラウルは少しだけ離れた場所で、木にもたれるように立っている。
「ほら、湖がきれいだぞ。アフタル」
シャールーズが声をかけても、アフタルはうつむいたままだ。
侍女が用意してくれた飲み物を黙って飲んでいる。
「恥ずかしがることでもないだろ」
「……ちゃんと寝間着を着て寝るべきでした」
「あー、それはごめん」
彼女の顔にかかる金髪を、シャールーズは手で払ってやった。
アフタルはきゅっと強く瞼を閉じ、頬も耳も赤く染めていた。
大公となり、結婚してから四か月。その間にも、アフタルはどんどん大人びてきた。
年齢を重ねただけではなく、人の上に立つという自覚のせいだろう。
だが、こんな風に時折見せてくれる初々しさが、懐かしくも好ましい。
今のシャールーズはアフタルの夫であり、守護精霊の立場はラウルに譲っている。
それでも、ふと思う。
おとなしいのに気丈なお姫さまと過ごした日々は、今もずっと輝いている。
泣かせても傷つけても、自分を信じてくれる。まっすぐに見つめてくれる。そんなアフタルを、嫌いになれるはずがない。
(俺の約束の地は、アフタルの隣なんだよな)
湖を渡る風が、草を揺らした。
青い小花をつけた草の葉が、しゃらしゃらと鈴のような音を立てて風になびく。
シャールーズはアフタルの手を取ると、その手の甲にくちづけた。
「機嫌を直せよ。我が主」
懐かしい呼称に、アフタルが顔を上げた。その瞳は潤み、唇は真横に引き結んでいる。
「わたくしのこと、好きですか?」
「当り前のことを訊くなよ」
「……返事になってません」
「嫌いなら、こんな風に一緒にいないだろ」
(俺はお前に操を立ててたんだぜ)
口にするには恥ずかしいので、それは言葉にはしない。
「ちゃんと好きって言ってください。いつもみたいに、甘く囁いてください」
「……っ」
思いがけない要求に、シャールーズはラウルを見遣った。ラウルは、こんな風に甘えてくるアフタルを見るのが初めてなのか、驚いた表情を浮かべている。
だが、シャールーズは知っている。
彼女が手にしたグラスの中に、レモンとミントが入っているのを確認してしまったから。
となると、この液体は蜂蜜酒だ。
「誰だよ。酒を入れたのは」
草の上に置かれた籠の中を見ると、紙が一枚入っていた。
――大公配殿下、襲われないでくださいね。
ミーリャ! と叫ぶシャールーズの声に、木々にとまっていた鳥が一斉に飛び立った。
パラティアは今日も平和だ。