第十三話 不思議の国と記憶。
あちこち挨拶まわりのような事を済ませて、またアリスお母さんのところへ戻ろうかな……と考えていたら、耳元で声が響いた。
「ルナ。ちょっと来てくれるかい?」
おっと、木崎さんのお呼び出しだ。どこにいるのかな、と鼻をすんすんと動かすと、木崎さんらしき匂いが、ある方角から感じ取れた。犬になってから、こういう教わっていないのに無意識下で出来てしまう事に驚きながらも、受け入れる自分がいる。それがいいのか悪いのかはわからなくて、ちょっと複雑だ。
「ルナ、退屈じゃなかったかい?」
てこてこと歩いて木崎さんのデスクらしき所へ辿り着くと、頭を撫でられる。別にそんな事はないですよ、と頭を振ると、木崎さんは、よかった、と微笑んだ。
「へえ、本当に会話してるみたいだな」
目を丸くする人物の声に反応してそちらへ向くと――あ。
「ルナー! 久しぶりじゃないか! 相変わらず可愛いなあ」
ぐりぐりぐり、と力強い手が私の頭を少し乱暴に撫でる。彼の愛情表現はとてもまっすぐで、どこかくすぐったい。そしてちょっと痛い。
「風来さん、相変わらずなのね」
相変わらず私が話しても、くうん、と鳴いているようにしか聞こえない。けれど尻尾をぱたぱたと振れば、風来さんは破顔する。ふふ、彼は表情から何から、動物が好きで仕方がないって言っているみたいだよね。
「風来、あんまりべたべたしないでもらえるかな」
およ?
足が地面から遠ざかると思えば、次には腕の中。どうやら木崎さんに抱き上げられたようだ。……別に私はかまわないんだけどなあ。
「いいじゃないか、ちょっとくらい! ルナは唯一、俺を受け入れてくれる子なんだから!」
「お前は扱いに繊細さが欠けるんだ。自業自得」
「本当は俺がルナを引き取るつもりだったんだぞ、横からかっさらいやがって!」
え!? 風来さんが……私を引き取るつもりだったって……一体、どういう事?
困惑しながら木崎さんと風来さんの顔を交互に見るけれど、木崎さんはそれ以上何かを言うつもりはないのか、ふん、と鼻で笑って済ませた。
「パートナーが欲しいなら、まずはその粗雑さを改めるんだね。それじゃあルナ、お昼に行こうか」
あ、お仕事で呼び出されたんじゃないのね。そういえばお腹がへりました。
「ついでにこの魔石も食べておいてくれるかい?」
「そっちがメインだろ! 俺とお前の努力の結晶をついでで済ますんじゃねえよ!」
涙目で叫ぶ風来さんをまるっと無視して木崎さんが私の口へと魔石を放り込む。なるほど、社外秘を私の中に入れておくわけですね。初めてのお仕事だけどえらい簡単だな。私がきちんと魔石を飲みこんだ事を確認すると、木崎さんはそのまま私を抱っこして出入り口へと歩く。……なんかこう、風来さん、かわいそうだな。
お昼ってどこで食べるんだろう。疑問に思っていると、一般のお客さんも食べられるという社員食堂へ辿り着いた。へー、なんか会社みたい――てまあ、会社といえば会社なのか。
「どっちにしようね」
メニューはシンプルに、和食セットか、洋食セットか、麺類か、となっていた。でも名前はあっさり定食とこってり定食と麺類各種って書いてある。洋食とか和食っていう名前はないんだね。でもメニューの中にパスタって言葉があります。うーん。
「動物用は、こっちだよ」
木崎さんに指し示された先にあるのは、鶏肉か魚かの選択肢がある二つのメニュー見本。私は少し考えて、魚がいいと木崎さんに示す。木崎さんは、微笑んで頷いた。
欲しいセットを注文すると、カウンターのおばさんが魔石を取り出す。するとカードみたいなものを木崎さんが取り出して、石に触れた。どうやらあれで支払いを済ませたらしい。ひょっとすると、値段で魔石の種類が変わって、減る量が変わるんだろうか。いやでもそれじゃあさすがに大雑把すぎるよなあ。
「昔はお金って、こういう形じゃなかったんだけどね」
木崎さんが微笑む。どうやら私が考えていた事がわかったらしい。
「今は全部、カードで管理されているんだ。銀行が管理している場所からこのカードにお金を入れて、使うんだよ」
木崎さんの言葉から察するに、どうも電子マネーに似てるっぽいな。クレジットカードっていう事じゃなくて、本当に紙幣がなくなってて、全部電子マネーみたいになってるんだ。
「注文された商品の魔石を取り出してそこに触れると、刻まれた金額分が自動的に減る仕組みになっているんだ。登録や管理は、単純作業のわりに案外と難しくてね。その魔法に適正がある人がそういう職に就いている事が多いよ」
へえー。人間がレジの代わりをしているって事か。そうなると確かに大変そう……でも皆さん、手付きが淀みないなあ。厨房みたいな場所を見ると、さすがに魔法で何かをしているって様子はない。料理人は私たちの世界と変わらないのかもしれないなあ。
注文した料理を受け取って、木崎さんと席に着く。あちこちでごはんをいっしょに食べてる犬や猫がいて、なんだか不思議だ。不衛生なんて神経質に話す人が皆無って事は、本当に動物は仕事上でもパートナーって意識が広く深く浸透している証拠なんだろう。……でも、そういえば、毛が飛ばないかも。ひょっとするとそういう魔法もあるのかな。ありそうだな。
考えつつも、お腹をすかしていた私は目の前にあるお魚をむぐむぐと食べ進める。木崎さんが微笑ましいものを見るかのように目を細めながら、同じくごはんを食べ始めた。なんか、お父さんみたいだな。
「深!」
ふたりしてゆっくりとごはんを堪能していると、どこかから声がかかる。ていうか、今――木崎さんを下の名前で呼んだ?
驚きに思わず顔を上げれば、私の視界いっぱいに完全無欠の美女が飛び込んで来た。
「……河野」
「またそんなつれない呼び方。莉沙って呼んでっていつも言ってるじゃない」
ふふ、と微笑んで席に着く、河野さん? は、少し冷たく感じられる木崎さんの反応を意に介する事なく、弾むような声を上げる。しかし、断りもなく相席ってすごいな。
まあいいか、と私は食事を再開させる。もぐもぐと咀嚼していると、むぐ、と喉に詰まりそうになって、私は慌てて木崎さんがお皿に淹れてくれたお茶を飲んだ。
「ルナ、ごはんは逃げないからゆっくりお食べ」
くすくすと笑って私の背中を撫でる木崎さんに、尻尾を揺らして返事をする。は、恥ずかしい。ちょっと河野さんの存在に気を取られて変なところに入っちゃったんだよ! 決して慌てて食べたわけではないのよ!
「――それ、あなたが飼ってる犬?」
それ。
トーンが落ちた声に顔を上げる。物扱いされた事に多少面食らいながらも彼女を見つめると、ずいぶん敵意剥き出しの表情で睨まれている事に気付いた。
なんですか、怖い。
「何か用事か?」
「え?」
何を言われたかわかっていないかのように目を見開く河野さんに、木崎さんは今度はゆったりとした口調で、なおかつ声量を少し上げながら再度、話しかける。視線も、私から彼女へと動かしていた。
「特に用事がないなら違う場所で食べてくれないか? 食事が不味くなる」
「――どういう意味よ」
さすがにその言いようには傷付いたのか、顔を強張らせて河野さんが苛立ちを含んだ声音を漏らず。しかし木崎さんはそれ以上に、不愉快だといわんばかりの態度で威圧するように言葉を重ねる。怒気を隠しもしないから、かなりのお怒りレベルのようだ。
「さっさとどこかへ行ってくれ。一緒にいて気分を害するような人間と食事を取る趣味が俺にはないんでね」
真っ赤な口紅と同じくらい顔中を赤面させて、綺麗に結われた長い黒髪のポニーテールを揺らしながら、ガタガタと大袈裟な音を立てて河野さんは去って行った。私を最後に睨みつけるのも忘れずに。
「なんで私が睨まれるのよう」
ぼやくように呟くと、尻尾がしょぼん、と萎れた。
なんていうか、白衣がめちゃくちゃ似合う格好してたなあ。タイトな黒いスカートにシャツでハイヒールってなんというベタな。でも服装規定ひっかかりそうな気もする。研究職の人たちはけっこう自由っぽいけどね。しかし同じ部屋にあんな人いたのかな? 同じ部署だとやり辛くならないのだろうか。まあ、あの部屋かなりの広さがあるみたいだったけどね。
「ルナ、怖かった?」
ごめんね、と謝る木崎さんに、ちょっとむかっとした。
だって、なんで木崎さんが謝るのよー! 木崎さんが謝る必要なんてないじゃない。なんだか、彼女の代わりに謝罪されたみたいで、すごく嫌だ。……まあ、あの態度からいって木崎さんにとっての河野さんは、特別な親しみを抱く人ではないのだろうけど。でも、あんな失礼な人の為に謝って欲しくなんてない。
本当は木崎さんに首を振る事も出来たけれど、無言で私はごはんを食べ続けた。そんな私を少し気にしながらも、木崎さんは食事を続ける。私がどう思っているかなんて、相槌だけでは伝わらないから、この場で取り繕うように謝罪を受け入れたくはなかったし、何よりもそんな言葉を発して欲しくはなかった。
木崎さんは私の大切なひとだ。なんたって、パートナーだもの。それなのに、木崎さんに勝手に絡んで、私に謝罪させるような結果をもたらしたあの河野って女が――お前なんかもう呼び捨てだ――すごく嫌だと思った。でもそれと同時に、ただのペットなのに、図々しい感情かもしれない。そんな風にも思えて、余計に苛立ちと哀しさが私を襲い、木崎さんに結局は何も伝える事が出来ないまま、食事の時間は終わった。
「ルナ、お腹いっぱいになった?」
木崎さんの言葉に、私はこっくりと頷く。片づけを終えて、木崎さんが私を抱き上げようとしたけれど、私はそれを避けるようにテーブルを下りた。木崎さんの瞳が少し揺れる。私は別に傷付けたいわけじゃない。けれど、気持ちがぐちゃぐちゃしてて、今は上手く接する事が出来ないから、距離を置きたかった。ちらちらとこちらを窺う視線を寄越す木崎さんに申し訳ないという感情を抱きつつも、苛立ちもまだまだ消えていない。こんなに自分て面倒くさかったかな、なんて考えながら歩いていたら、あっという間に職場へと戻って来た。
「……また、用事があったら呼ぶね」
木崎さんの言葉に頷くと、困ったように笑いながら彼が私の頭を撫でる。その手を拒否しなかった事に多少は安心したのか、最後にはいつも通りの笑顔で私の元を去って行った。
「……何でこんなにイライラしてるんだろう」
はあ、とため息を吐いて、とぼとぼと歩き出す。邪魔な場所にいるのは忍びないから、端っこにでもいようと壁際を目指す。アリスお母さんの姿が見えないし、匂いもしないから、きっと天音さんとお昼休憩を取っているのだろう。まあ、ひとりになりたかったし、ちょうどいいかな……。
移動して、伏せをした状態になると、どうも眠気がくる。自分の感情がどうしてこうなってしまったのか考えたいのに、どうにも上手くいかない。ごはんも食べたから、眠くなるのは当然なのかもしれないけれど……うう、まだまだ小さいから仕方ないか、な……。
『ねえ、見て。満月』
『――は、月が好きだな』
『んー、月というか夜が好きなのかな』
『名前が――だから?』
『そうかも。あと、夜が好きじゃないと辛いから』
『馬鹿。別に嫌いだっていいんだよ』
『でも嫌いになっちゃうと、夜がくるのが怖いよ』
『そしたら俺が手ぇ握ってる』
『……そんなの、だめだよ』
『どうして?』
『だって、もうすぐ、結婚するじゃん。そしたら』
『そしたら何? 俺がお前の――ていうのは変わらないだろうが』
『…………うん』
泣き顔を見られたくなくて、枕に顔を埋めた。そんなのはお見通しだったのだろうけれど、顔を逸らして、ただ黙って手を握ってくれた。優しい、とても優しい時間だったのを覚えている。
「――ルナ」
目の前にある顔が、一瞬――に見えた。でも違う、とすぐに思い直す。私は今、犬で、ここは魔法の国だから。私の顔を覗きこむその顔が――なわけが、ない。わかっているのに、どうしてか私はそれを信じられそうもない。だって今まで――と一緒にいて、目覚めたら傍にある顔が――じゃないなんて変だ。そもそも私は、どうしてここにいるんだろう。私の部屋じゃないんだろう。あの時は、一時退院が許されて、帰れた事が嬉しくて、一緒に眠ってくれた最後の日だった。どうして忘れていたのかも、今はわからないくらい、自然に記憶が浸透していく。
まばたきをして、もう一度目の前にある顔を確認した。
「木崎さん……?」
呟いた声は、きゅうん、と鳴いた声に変わった。私は、それが酷く哀しくて、もう一度声を上げてみた。
「――おにいちゃん」
やっぱり、私の知った声で、その言葉が発せられる事はなかった。




