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第97話 湯気のヴェールと、アクァルテルクス

乳白色の湯気が、王城の大浴場を幻想的なヴェールのように包み込んでいた。


高い天井から降り注ぐ魔石ランプの光は湯気に乱反射し、空間全体をふんわりとした真珠のような色合いに染め上げている。ちゃぷん、と響くお湯の微かな音だけが、静謐な空間に心地よく反響していた。


洗い場に置かれた小さな木製の丸椅子。そこに、首にタオルをかけたレンがちょこんと座っている。


その後ろには、湯あみ着に身を包んだシルフィーが、両手にシャンプーのボトルを握りしめてガチガチに緊張して立っていた。


「ほらほら、シルフィーちゃん! 洗ってあげるんでしょ? レンも待ってるわよ〜!」


少し離れた広い湯船の中から、ナタリーの面白がるようなヤジが飛んでくる。

シルフィーは「ひゃうっ」と肩を跳ねさせると、意を決したように深呼吸をした。そして、シャンプーのふんわりとした甘い泡を手のひらで立てると、そっと、壊れ物にでも触れるかのようにレンの頭へと手を伸ばした。


「レン、し、失礼しますね」


「お、おう……!」


背後から聞こえる上ずった声に、レンの身体もピーンと丸太のように固まった。


だが、シルフィーの白魚のような指先が、泡越しにレンの頭皮へとそっと触れた瞬間。そのあまりにも優しく、温かい感触に、レンの肩からスッと無駄な力が抜けていった。


シュワシュワ、もこもこ。


柔らかい泡が弾けるくすぐったい音と共に、シルフィーの手のひらから、春の花畑を思わせるような甘く爽やかな香りが広がっていく。

泡が髪から首、鎖骨へと、レンの体を滑り落ちていく。


4年間、一人きりで過酷な特訓に身を投じてきたレンにとって、誰かの手で優しく髪を洗ってもらうことなど初めての経験だった。アリスに洗ってもらう時は手際が良すぎて「作業」という感じだが、シルフィーの不器用で恐る恐るな手つきは、不思議とレンの心の一番深いところを温かく溶かしていった。


「……痛くないですか? 傷に、沁みたりしていませんか……?」


「ん。全然痛くない。……シルフィーの手、すごく柔らかいな」


泡だらけの指が、びくりと止まる。


「っ……!」


レンがポツリと素直な感想を漏らすと、シルフィーの顔が湯気よりも熱く真っ赤に染まった。


だが、その指先から伝わってくるレンの黒紫の髪の柔らかさと、彼が確かに生きて、自分の目の前で静かに呼吸をしているという事実が、シルフィーの胸の奥底にあった「彼を失うかもしれない」という恐怖を、ゆっくりと洗い流していく。


二人の間に、静かで、穏やかな時間が流れ始めた。

ちゃぷん、ちゃぷんという水音と、優しい泡の音だけが響く中、4年間という離れ離れだった長い空白を埋めるように、二人は自然と言葉を交わし始めた。


「……修業、辛くないですか? 痛い思いをして、傷ついて……」


「痛いけど、俺が望んだことだから平気だ」


レンは目を閉じたまま、はっきりと答えた。


「俺は、シルフィーの隣に立ちたいんだ。シルフィーが世界を平和にしたいなら、俺がその剣となりたい。……そのための力が欲しい」


「レン……」


シルフィーの手が、ほんの少しだけ震えた。

ただ純粋に、大切な主を守りたいという真っ直ぐな忠誠心。

シルフィーは、泡だらけのレンの頭を、まるで動物を撫でるように優しく、ゆっくりと梳いた。



その光景を、湯気越しに少し離れた場所から見つめる視線が二つあった。


「はぁ〜……いいわねぇ〜。下心がないこのくらいの年の子たちのイチャイチャは」


広々とした湯船の縁に腕を乗せ、ナタリーがとろけるような笑顔で目を細めていた。 彼女の目から見れば、10歳の男女の初々しい触れ合いなど、恋愛というよりは「寄り添い合うつがいの小鳥」のように微笑ましい。血みどろの死闘を繰り広げていた狂犬が、今はすっかり牙を抜き取られ、聖女の指先に身を委ねて目を細めているのだ。そのギャップがたまらなく尊かった。


「まったく、うちの弟は本当に可愛いわね。シルフィーちゃんも、立派に『お姉ちゃん』してるじゃない」


「ええ。そうですね」


ナタリーの隣で、肩までお湯に浸かったアリスが静かに同意した。

普段は氷のように冷徹なメイドの顔も、今は温かいお湯と、目の前で繰り広げられる尊い光景によって、わずかに和らいでいる。


「二人とも、まだ『好き』という恋愛の感情が明確には分からないでしょうから……こういう強引なイベントで距離を縮めさせるのも良いですね」


「でしょでしょ? 私のファインプレーよね!」


アリスが、ふっと目を細めた。


「ええ。……お酒が欲しくなってきました」


アリスがぽつりと漏らした本音に、ナタリーは「あははっ! アリスがお酒飲みたいなんて珍しい!」と声を上げて笑った。

大人たち(保護者たち)にとって、この大浴場を満たしているのはただのお湯や湯気ではない。見ているだけで胸の奥がキュンと締め付けられ、極上の甘口ワインでも飲んでいるかのように心地よく酔わされる、至福の空間であった。



「――はい、終わりましたよ。お湯、かけますね」


洗い場では、シルフィーが手桶に温かいお湯をすくい上げていた。


「おう」


「目、瞑っていてください」


ざばぁっ、と。 優しい温度のお湯が、レンの頭の上から降り注ぐ。


甘い花の香りの泡が足元へと流れ落ち、床のタイルを伝って排水溝へと吸い込まれていく。何度かお湯をかけ、完全に泡を洗い流し終わると、シルフィーは首にかけていたタオルで、レンの濡れた髪をわしゃわしゃと優しく拭き取った。


「どうですか……? ちゃんと、洗えていましたか?」


少し不安そうに上目遣いで尋ねるシルフィー。 レンはタオル越しに軽く頭を振って水気を飛ばすと、振り返り、10歳の少年らしい、何の淀みもない無垢な笑顔を向けた。


「ありがとな、シルフィー。すげぇ気持ちよかった」


その、あまりにも真っ直ぐで破壊力のある笑顔に、シルフィーの心臓がトクン、と大きく跳ねた。


「っ……ふふっ、どういたしまして!」


シルフィーは顔の熱を隠すように、とびきり嬉しそうな笑顔を弾けさせた。 王城の地下牢から始まった少年の孤独は、4年の時を経て、確かにこの温かい光の中へと辿り着いていた。 ぽかぽかと温かな湯気と、満ち足りた静寂。


四人の賑やかで、かけがえのない平和な入浴タイムは、胸が痛くなるほどの尊い余韻を残したまま、静かに幕を閉じたのだった。


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