第75話 気まぐれな寵と、ロイヤルペット
時は遡る。
シルフィーが帝国主催の半成人式へ出席するため、アルヴァレイン王都を出立した、まさにその日の朝。
王城の奥深く、第三王女ナタリーの私室に併設された広大な衣装部屋にて。
レンは壁一面の鏡の前に立たされ、死んだような目で自身の姿を見下ろしていた。
「……殺せ。いっそ、ひと思いに殺してくれ……」
数時間前。専属メイドのアリスに連行されたレンは、抵抗も虚しく湯殿へと放り込まれ、これまでの人生で蓄積された泥と垢を徹底的に削ぎ落とされた。
そして今、着せられているのは、ナタリーが王室御用達の仕立て屋に徹夜で作らせたという『見習い執事服』である。
だが、ただの執事服ではない。
なぜかボトムスは膝上丈の半ズボンであり、純白のブラウスにはふりふりのレースがあしらわれ、極めつけに、頭には黒猫の耳を模したフードまで被らされていた。
「きゃあああ! 可愛いっ! 何これ最高じゃない!」
ソファに寝そべっていたナタリーが跳ね起き、目をキラキラと輝かせてレンの周りをぐるぐると回る。
「顔立ちは端正だし、肌も綺麗だし、ちょっと不機嫌そうなこの表情がたまらないわね! 仕上げのネクタイは私が締めてあげるわ!」
「は? ちょ、やめ……」
ナタリーは深紅のネクタイを手に取ると、レンの首元に勢いよく回した。
「こうして、ここをクロスさせて、ギュッて引けば……」
ギュウゥゥッ!!
「ぐえっ……!? げほっ、がはッ!?」
加減を知らない王女の力が込められ、ネクタイがレンの首を容赦なく締め上げる。
気管を完全に潰されたレンは白目を剥き、首元を掻きむしりながらバタバタと悶え苦しんだ。
「あ! 締めすぎちゃった! あはははは!」
呼吸ができずにのたうち回るレンを見て、ナタリーは腹を抱えて爆笑している。
「てめぇ……ッ、ぜぇっ、はぁっ……」
「あはは! つい力が入りすぎちゃった♡」
悪びれる様子もなくアリスにバトンタッチするナタリー。
「あぁ、素材が最高すぎるわ。もう剥製にして、私の部屋に飾っておきたいくらい」
「てめぇの趣味悪すぎだろ……てか、これ絶対護衛の服じゃねぇ! なんで半ズボンなんだよ! なんで猫耳なんだよ!」
羞恥と怒りと酸欠で顔を真っ赤に染めながら、レンは頭のフードを引きちぎろうとした。
だが、ナタリーはくすくすと笑いながら、猫のようにしなやかな動きでレンに近づき、その鼻先をツンと突いた。
「あら、脱ぐの? 今日からあんたは私の『付き人』兼『アリスの見習い』なのよ。……ここで投げ出して、シルフィーちゃんがどうなってもいいの?」
「ッ……!」
ナタリーが顔を寄せる。
「あんたが王城のマナーも知らない野良犬のままだと、シルフィーちゃんが恥をかくの。私がこの服を着ろって言ったら着る。……それが『立派な男になる』ための第一歩じゃないのかしら?」
シルフィーの名前を盾にされると、レンに抵抗する術はない。
ぐっ、と奥歯を噛み締め、悔しそうに拳を握りしめながらも、彼はフードから手を離した。
こいつには勝てない——口車に乗せられている。そう分かっていながら、それでもシルフィーの隣に立つために耐えるしかないのだ。
「ふふっ、いい子ね。やっぱりあんた、私の可愛い『弟』として飼ってあげるわ」
「……誰が弟だ、クソが」
ナタリーは聞いちゃいない。
「アリス! ほら、この子のネクタイがぐちゃぐちゃよ。綺麗に結び直してあげて」
ナタリーの鶴の一声で、静かに控えていた銀髪のメイド――アリスが、音もなくレンの前に進み出た。
「あのさ、アリス……お前からも何とか言ってくれよ。こんなの、付き人どころかただの道化じゃねぇか……」
レンは救いを求めるように、透き通るような青い瞳を見上げた。
しかし、アリスは表情一つ変えることなく、淡々とレンの前に跪いた。
「レン。動かないでください。ネクタイが歪みます」
「っ……」
アリスの白く細い指先が、レンの首元に伸びる。
その所作はあまりにも優雅で、一切の無駄がない。冷たいようでいて、指先が肌に触れる瞬間の微かな温もりが、レンの胸を妙にざわつかせた。
「アリス……俺、本当にこれ着なきゃダメなのかよ」
「ナタリー様のご命令ですから。……それに、サイズはぴったりです」
アリスは静かな声でピシャリと撥ね退け、レンのネクタイを完璧な形に整える。
反論を許さない冷徹な態度。なのに、首元を絞められた跡をそっと撫でるように直してくれるその手つきには、どこか母性的な優しさが滲んでいて、レンはそれ以上悪態をつけなくなってしまう。
(……くそっ。こいつら、ペースが違いすぎる)
絶対的な権力と気分で振り回してくる奔放な主人(姉)と、淡々としながらも絶対的な包容力で逃げ道を塞いでくる完璧なメイド。
アルヴァレイン王国の第三王女の私室で、レンは己の無力さを痛感していた。
だが、これもすべてはシルフィーのため。彼女が帝国から帰ってきた時、胸を張って隣に立てる自分になるためなのだ。
「まぁ、衣装の確認はこれくらいでいいわ」
十分にレンを堪能したナタリーが、満足げに頷いた。
「明日からは本格的にアリスの下で働いてもらうわよ。私の『可愛い弟』なんだから、王城で恥をかかないように、ビシバシ鍛えてもらいなさい」
「……分かったよ。やればいいんだろ、やれば」
レンはふいっとそっぽを向いた。
口では悪態をついているが、その小さな背中には、彼なりの悲壮な覚悟が宿っている。
「ではレン。まずは使用人としての基本的な立ち振る舞いから叩き込みます」
アリスが静かに立ち上がり、透き通る瞳でレンを見下ろした。
その手には、いつの間にか分厚いマナー本と、銀のトレイが握られている。
夕暮れの光が、不格好な見習い服の少年と、完璧なメイドの影を長く伸ばす。
遠く離れた少女の幸せを祈りながら、一人の無力な少年が、己を変えるための第一歩を踏み出した。




