33 いざ舞踏会
これから、静かな声のさざめく舞踏会場へ、私は足を踏み入れる。
「大丈夫ですか?」
震える手をリアンが握った。顔を向けると、リアンは心配そうに私を見ていた。
「・・・武者震いよ」
言いながら、私はリアンの手を握り返した。リアンは満足そうに微笑むと、頷いた。
「参りましょうか」
「ええ」
名前が呼ばれ、扉の開いた先に、私は可愛らしいヒールの靴を踏み出した。
すでに、私が”伝説の令嬢”であることは、国王陛下がご自身の舞踏会でお祝いをなさっていた。
鏡の中から戻ってきたとも伝えたようだけれど、実際、どう伝えたのかは教えてもらってはいないので、私にはよくわからない。
どちらにしろ、今日の私は、ノアが目を覚ますまでのお目付役をするだけ、そのスタンスを崩すつもりはなかった。
仰々しい演出はやめよう、と言うリアンの発案の元、私のデビューはさほど大きくない舞踏会に決まったはずだった。王族の舞踏会などとんでもない、と私が固辞したこともあり、リアンは慎重に招待状を選んでくれていた。
それでも、私にとっては充分にきらびやかな世界だった。目がくらむほどに、未知の世界だったのだ。出たいとも、出られるとも思っていなかった舞踏会に、私はついに出たのだ。
顔を上げると、きらめくシャンデリアに淡く浮かぶ人影が幻想的に浮かんだ。ミニオーケストラの奏でる静かな音楽が埋め尽くし、その間で、シャンパングラスを持った人々が笑いさざめく。その視線が、私たちをしっかり捉えている。
めまいがしそう。
さようなら壁の花・・・
・・・さすが、リアンはその視線の多さに動じもしない。考えてみれば、リアンと一緒にいるというだけで睨まれることを忘れていた。リアンとくるなんて失敗したと思ったが、他の誰に連れて来て貰えばいいのかわからない。仕方ない、忘れよう。
その上、視線の中にいるはずの”部屋の秘密”を知る誰かの存在を考えれば、それが単なる好奇心や嫉妬だけではないことは重々承知だ。私を疎ましく思う視線と、そして好ましい眼差しの、それら全てが私をからめとっていき、心を削っていく。そもそも人に注目されることも初めてで、それだけで私は心底疲れてしまった。
「踊りましょうか」
ハッとして、私は顔を上げた。
リアンが、ぼんやりしていた私に、笑顔を向けていた。
「ええ」
頷いて笑顔を返すと、リアンは私をフロアに促し、そして、ダンスが始まった。
「お上手ですね」
そうやって言うリアンのリードは丁寧で、とても優しかった。
「ならいいけれど・・・もしかして、一人で鏡の中で踊っていたのが役に立ったのかもしれないわ。ダンスのレッスンでも褒められたもの」
そうなのだ。伊達に百年、鏡の中にいたわけではないのだ。すると、リアンははにかみながら私を見て微笑んだ。
「僕はあなたの初めて舞踏会で、初めて踊る相手になれた・・・それがすごく幸せです」
「そう?」
「はい。まるで独り占めしているようで、・・・あなただけしかここにいないかのようで、・・・僕は大変満たされています」
これは重症だわ・・・
うっとりした目で私の耳元で囁くリアンは、正装した制服姿なのも相まって、なんだかこの世ならぬ生き物のように見えた。と言っても実際には、この世ならぬというかこの時代ならぬのは私の方で、なんだか申し訳なく思えてきた。
リアンはこんなおばけもどきと踊っていていいのかしら?
私で満たされるとか、ちょっとずれたこと言ってるけど大丈夫かしら?
親族欠乏症の脅威だわ、伝染るかもしれない・・・
私はおののきながらダンスを続けた。そしてまた、別の意味でもおののいていた。とにかく踊りやすい。私を気遣うようによく見ていて、でも少し強引に行けるところは行って、それに無理がない。
なんでもできる人って、こうなのね。
ダンスといえば、デイヴィッドは上手だった。何しろ、私とずっと踊らされていたんだもの。あれだけやらされれば社交界の伊達男になってもおかしくない。結局、記憶を失ったり私を探したりでデビューしたんだかしていないんだか、伊達男にはならなかったみたいだけど。
ニコラスがどうだったかといえば、私にはさっぱりわからない。そんなことを気にしたこともなかった。・・・今思えば、悪いことをした気分だ。もう少し考えてあげていれば・・・いやいや、私に思わせなかったのもそれはそれでダメじゃない? 手紙でも言ってたじゃない。私は悪くない。ただしニコラスも悪くない。
踊り終わると、リアンは私を引っ張ってすぐにフロアから外れた。
「リアン?」
「喉が渇いたでしょう。軽食とお飲み物を」
向かった先には、確かに軽食とワインが置かれていた。
「どうぞ」
リアンが差し出してきたのは白ワインで、私は素直に手にとって、そのまま飲んだ。冷たくて美味しい。
「こちらはサンドイッチですが、・・・お口に合うといいのですが」
私はまたしても、黙ってそれを手に取ると、黙々と食した。少ししょっぱくて食べ切りやすい大きさで、美味しかった。
食べ終わると、今度はリアンは水を出してきた。
「こちらをどうぞ」
それを飲んでいると、リアンが私をうっとりと見つめているのに気がついた。私が首をかしげると、リアンは微かに笑った。
「嬉しいんです」
「何が?」
「何も警戒しないで、僕の出したものを食べてくれる、あなたを見ることができて」
・・・調教だろうか。私は調教されている。なるほど。由々しき事態だ。
そうは思えど、逃げ出すはずもなく、私は水をそのまま飲み干した。
そこへ、誰かが声をかけてきた。
「リアン」
顔を向けると、洒脱な装いの男性が手をあげて笑顔を向けてきていた。
「やぁ、キース」
「そちらのご令嬢をご紹介いただけるかな」
「ああ、紹介しよう。彼女はソフィア・アレクス・ピアニー、ピアニー家のご令嬢だ」
リアンの私の紹介を聞きながら、キースは目を瞬かせた。
うっとりとするような伏せがちなまつげに、甘いマスク、これは・・・なんというモテ男・・・
記憶の中で、モテ男にはいいイメージがない。ニコラスなど、無自覚なモテ男の典型じゃないの。
思わず警戒してリアンの後ろに隠れそうになり、寸でのところで思い直し、リアンの腕を握り直した。強すぎたのか、リアンがふと気がついて少し微笑む。
「ソフィア・アレクス・ピアニーと申します」
「私はキース・サミュエル・ポールサム、侯爵家のしがない次男坊です」
柔らかい笑顔で言われれば、それにほだされる女性が多かろう。私はまだ緊張を解さないまま、丁寧に礼をした。モテ男と近づくのは、それだけでトラウマが呼び起こされる。
「それでは、彼女がそうなんだな」
「ああ」
私が首をかしげると、キースはニコリと微笑んだ。
「”鏡の中”」
私は目を見開いた。
「・・・リアンと仲の良いお友達ですのね?」
驚いた。雰囲気が似ても似つかない。似てるのは、”顔がいい”という条件だけだ。
ただ、どこかで見た気がするのだけど・・・どこにでもいるわけではないのに、なんだか見たことがあるのは、きっと私のトラウマが刺激されているからなんだわ。きっとそう・・・ああ、いやだわ。私の中にこんな部分があるなんて。
「だと嬉しいと思っておりますよ、ソフィア嬢」
「なら、あなたを信用するわ。ええ、例えモテ男だろうと、きっと良い人に違いないのよ。リアンが信用して私の話をしているんだもの。そうでしょう?」
私の独り言を含むような言葉に、リアンが微妙な顔をして頷いた。