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快傑雪之丞  作者: ているず


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快傑雪之丞 第二話 登場編

一 桜色の剣士


 天保十二年、春。

 この年の正月三十日、五十年にわたって天下を治め、隠居後も大御所として権勢を振るい続けた徳川家斉の死が公となった。それから数か月。江戸が暖かさを増す頃、老中首座・水野忠邦による改革が動き始めていた。

 贅沢はならぬ。華美な衣服はならぬ。高価な菓子も、凝った髪飾りも、季節を先取りした初物も、ことごとく御法度。

 町人たちは首をすくめ、着物の色を地味なものに替え、ひそひそと不満を囁き合った。どこか息苦しい春だった。

 ――その江戸の町を、桜色の着物が歩いていた。

 淡い紅の地に、満開の花びらを散らした小袖。緋色の帯。腰には一振りの刀。

 そして、高い位置で一つに束ねた、長い黒髪。結い目から真っ直ぐに垂れたその髪が、歩みに合わせて、馬の尾のように左右に揺れている。

 改革の触れなど、どこ吹く風。すれ違う者は皆、思わず足を止めて振り返る。江戸の娘なら、髪は島田か銀杏返しに結うものだ。長い髪を高く一つに束ね、腰に刀を差して歩くのは、男の、それも前髪を残した若衆くらいのものである。娘なのか、若衆なのか。どちらにせよ、一度見たら忘れられない顔立ちだった。

 その歩みが、ふと止まる。

 寺の並ぶ細い通りの真ん中に、黒い壁が立ち塞がっていた。

 ――いや、壁ではない。人である。

 見上げるほどの大男だった。六尺をゆうに超える体躯に、黒の着物と袴。はだけた胸元には岩のような筋肉が盛り上がり、青々と剃り上げた頭の下では、太い眉と鋭い眼光、顎を覆う髭が、見る者すべてに同じ言葉を連想させる。

 やくざの親分。

 しかも、相当な貫禄のある、である。

 大男は、ゆっくりと振り返った。

「……何だとコラァ。もっぺん言ってみろや!」

 地鳴りのような声だった。通りの端で様子を窺っていた町人たちが、ひっと息を呑んで後ずさる。

 だが、桜色の着物の主は、にっこりと微笑んだ。

 花がほころぶような、実に可憐な笑みで。

「ウザい。むさい。デカい」

 一語ずつ、丁寧に区切って。

「邪魔だから、どいて頂戴」

 沈黙が落ちた。

 どこかで鶯が、やけに呑気な声で鳴いている。

 大男は、しばらく無言で相手を見下ろしていた。それから、ずい、と一歩踏み出す。巨体が影となって、細身の相手をすっぽりと覆った。

「お前……度胸があるのか、単なる馬鹿なのか」

 低く、唸るように。

「この俺に、喧嘩売ってんのか?」

 問われた側は、きょとんと首を傾げた。

「まさか。あたしは弱い奴と喧嘩する趣味はないわ」

 にこりと、また花のような笑み。

「邪魔だから、退いてほしいだけ」

 通りの空気が凍りついた。見物人の誰かが「あの綺麗な顔、潰されちまうぞ」と弱々しく呟いた。

 大男のこめかみに、太い青筋がびきりと浮かぶ。

「……いい度胸だ」

 岩のような拳が、ゆっくりと持ち上がる。

「一発ぶん殴ってやるから、覚悟しな!」

 言うが早いか、拳が唸りを上げた。

 丸太で殴りつけるような一撃だった。この界隈で、この拳を受けて立っていられた者は一人もいない。ならず者が五人がかりで挑んで、五人まとめて川に叩き込まれたという話も、誇張ではないと皆が知っている。

 ――だが、そこにはもう誰もいなかった。

 桜色の袖がふわりと舞う。拳の内側へ、滑り込むように一歩。

 次の瞬間、白足袋の爪先が、大男の股間へ寸分の狂いもなく吸い込まれた。

「っ――!!」

 声にならない呻きが漏れる。見物人の男たちが、一斉に内股になった。

 しかし大男は倒れなかった。脂汗を流しながらも踏みとどまり、歯を食いしばって拳を振るう。右、左、また右。一発でも当たれば勝負は決まる。

 当たらない。

 ひらり、ひらりと、まるで風に舞う花びらを掴もうとしているようだった。拳が届く寸前に、そこにいたはずの姿が半歩ずれている。

「あら、しぶといのね」

 感心したような声が、すぐ横から聞こえた。

 大男がそちらを向くより早く、刀の鞘尻が、剃り上げた頭のてっぺんに振り下ろされた。

 ――ゴン!

 鐘でも撞いたような、実にいい音が通りに響き渡った。

 巨体がぐらりと揺れ、そのまま前のめりに崩れ落ちる。額を地面につけ、両手をついたその姿は、図らずも見事な平伏の形になっていた。

「……おみそれ、しました……」

 地面に向かって、くぐもった声が漏れる。

 桜色の背中は、もう歩き出していた。振り返りもせず、ひらひらと片手を振って。

「アンタもね。思っていたより強かったわよ」

    ◇

 残された大男――源助は、地面に額をつけたまま、遠ざかる草履の音を聞いていた。

(何なんだ、あいつは……)

 股間はまだ鈍く疼いている。だが、それはいい。卑怯だの何だの言うつもりはない。喧嘩とはそういうものだ。

 問題は、その後だった。

(初手の金的は別にしても……この俺が、触れることすら出来んとは……)

 物心ついてから今日まで、喧嘩で負けたことは一度もない。相手が刀を抜こうが、十人で囲もうが、最後に立っていたのはいつも自分だった。

 それが、一発もかすらなかった。

 負けたのだ。生まれて初めて。それも、指一本触れられないまま。

(あいつ、女じゃねぇだろ……)

    ◇

 その一部始終を、通りの端で見ていた男がいた。

 頭に手拭いを巻き、くたびれた着物を着た若い男である。脇に抱えた紙の束は、刷り上がったばかりの瓦版だ。

「あの源助さんが……こんなあっさり……」

 この界隈で、源助に喧嘩を売る馬鹿はいない。売られた側がどうなるかは、皆よく知っている。

 その源助が、桜色の着物の誰かに、一方的に地面に這わされた。

 男の目が、だんだんと光を帯びていく。

「これは……」

 ごくりと唾を呑む。

「――売れるぞ……」

    ◇

 そんな騒ぎなどすっかり忘れた様子で、桜色の着物は大きな武家屋敷の門前に立っていた。

 黒塗りの重厚な門。手入れの行き届いた松。門番の詰所。どこから見ても、相応の格式を持つ大名家の屋敷である。

 その門に向かって、間延びした声が投げかけられた。

「頼もう~。誰かいる?」

 ややあって、脇の潜り戸から門番の侍が顔を出した。怪訝そうに眉をひそめ、上から下まで、派手な着物をじろりと眺める。

「……何用でござる?」

「正弘様はいる? それか、家老の本村か」

 門番の眉間の皺が、いっそう深くなった。主君の名を気安く口にする、どこの馬の骨とも知れぬ派手な若造。そういう目である。

「お二人とも不在だ。今はこの屋敷には、留守居役しかおらぬ。出直されよ」

「えっ。じゃあ丁稚の助六は? 板倉の爺さんでも……」

「お引き取りを」

 ――バタン!

 目の前で、潜り戸が勢いよく閉ざされた。

「な……」

 閉まった戸を前に、しばし呆然と立ち尽くす。

「……ま、まあ。他にもコネはあるし」

 気を取り直すように、ぽんと手を打つ。

「最悪、そっちを訪ねれば……」

 そこで、ぴたりと動きが止まった。

 頼れそうな顔を、一つ一つ思い浮かべる。指折り数える。

 そして、その顔から、すうっと血の気が引いていく。

「家の場所……知らなくね……?」

 思い返してみれば、どこへ行くにも誰かが連れて行ってくれた。道順など、気にしたこともなかった。

 春の青空の下、桜色の着物が、ただ一人ぽつんと取り残されていた。


二 行き倒れ


 いつまでも門の前に突っ立っているわけにもいかない。当てもなく歩き出しながら、ちらりと来た道を振り返る。

 戻る場所が、ないわけではなかった。

(でもねぇ……)

 あの屋敷を出てきたときのことを思い出す。止める声を背中で聞き流し、「あんたの助けは要らないわ。あたし一人でなんとでもなるもの」と啖呵まで切ってきたのだ。

「大見得切って出てきただけに、戻るのも嫌だし……」

 しおしおと戻るなど、矜持が許さない。

 それから、数日が過ぎた。

 懐の金は、あっという間に消えた。旨そうな料理屋に入り、気に入った扇子を買い、ふらりと入った居酒屋では居合わせた客に気前よく奢り……気づけば、財布はすっからかんになっていた。

 その間も、町を歩けば妙な視線が突き刺さった。ひそひそと囁かれる声。指を差してはしゃぐ娘たち。もっとも本人は、この美貌だから仕方ないわね、と気にも留めていなかったのだが。

 ぐう、と腹が鳴った。

 思い返せば、ここ数日、酒しか口にしていない。残り少ない銭を、飯にするか酒にするか。迷うまでもなく、毎度、酒を選んできた結果である。

「おなか……空いたわね……」

    ◇

 その夜は、見事な満月だった。

 寺の縁側で、源助は腕を組んで夜空を睨んでいた。

「くそう……あの瓦版売り……」

 あの喧嘩から数日。例の瓦版売りは早速それを刷って売り歩き、今や江戸のどこへ行っても同じ話で持ちきりだった。孤児院の子供たちまで、その一枚を持って帰ってきた。そこには、でかでかと躍る文字があった。

 ――剛腕の源助を一撃で粉砕!

 見出しはまだ続いていたが、源助はそこから先を読む気になれなかった。ご丁寧に、地面に額をこすりつける大男の絵まで添えてあったのだ。子供たちには腹を抱えて笑われ、近所の連中には妙に優しい目を向けられた。

「変な記事、書きやがって……」

 ため息をついて立ち上がる。もう遅い。そろそろ寝るかと、山門の方へ目をやったときだった。

「ん……?」

 月明かりの下、門の前の道に、何かが転がっている。

 淡い色の布。投げ出された白い手。脱げかけた草履。

 ――人だ。

「ああっ!!」

 源助は縁側から飛び降りた。巨体に似合わぬ速さで駆け寄り、膝をつく。

 桜色の着物の誰かが、道端にぐったりと横たわっていた。目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。

「おい! 嬢ちゃん!! 大丈……」

 抱き起こそうとして、その顔を月明かりが照らした。

 源助の言葉が、途中で凍りつく。

 あの日、嫌というほど目に焼き付けた顔だった。

「……夫……」

 ――!!

    ◇

 寺の一室に、行灯の明かりがぼんやりと灯っていた。

 空になった椀が三つ、膳の上に重ねられている。冷や飯に味噌汁、漬物、それから源助が子供たちの明日の分から取り分けた干物。それを、桜色の着物の行き倒れはあっという間に平らげてしまった。「貧相ね」と、ひどい一言を添えて。そのくせ、椀には米粒一つ残っていない。

 源助は胡坐をかいたまま、呆れたように息をついた。

「何だ……腹が空いて寝ていただけか……」

 月明かりの下に倒れている姿を見たときは、肝が冷えた。

「狼藉者に手籠めにでもされたのかと思ったぞ……」

「起きてあんたの顔が見えて、手籠めにされるのかと思ったわ」

 さらりと返される。箸を置く仕草だけは、妙に品が良い。

「物取りや狼藉者なら、さっくり斬り捨てて金を奪ってやれたんだけど」

「……物騒だな、おまえ……」

 冗談とも本気ともつかない口ぶりに、源助は頭を掻いた。あの日の身のこなしを見た後では、冗談だと笑い飛ばせない。

「家出でもしてたのか?」

「まあ、そんな感じね」

 答える声が、ほんの少しだけ沈んだ。行灯の光が揺れて、伏せた睫毛の影が頬に落ちる。

「腕には自信があったから、何でもできると思ったんだけれど……」

 膝の上で、白い指がきゅっと握られた。

「駄目ね……」

 しんみりとした沈黙が流れる。

 源助は少し考えてから、わざとらしく鼻を鳴らした。

「江戸で話題の超絶美形の剛腕男色ともあろう者が、随分としおらしいこって」

「……男色って……何のことよ……」

 怪訝そうに顔を上げた相手の前に、源助は懐から一枚の紙を取り出して放った。

 くしゃくしゃになった瓦版だった。

 でかでかと躍る見出し。その横に、刷り物とは思えないほど念入りに描き込まれた、凛々しい剣士の絵。

 どこからどう見ても、自分の顔だった。

「なっ!!」

 瓦版をひったくるように掴む。

「何なの、これ……」

「俺とお前の喧嘩を見ていた瓦版売りが書いたらしい」

 源助は腕を組み、渋い顔で続けた。

「今や江戸で、物凄い話題になっているぞ、お前」

 震える手で、見出しを読み上げる。

「天下無双の男色……剛腕の源助を一撃で粉砕……超絶美形の天才剣士が、江戸の町に現れた……」

 読み終えたところで、ばっと顔を上げた。

「何であたしが男色なのよ……」

「そりゃ、帯刀してるからだろ。おまけに、その頭だ」

 何を今さら、という顔で源助は言った。

 この江戸で、刀を差して歩くのは武士だけだ。女なら、髪は島田か丸髷に結う。長い髪を高く一つに束ねて垂らすのは、男の髪だ。どれほど華やかな着物を纏っていようと、その頭に、腰の刀とくれば、それは男の、それも女装を好む若衆の類だと誰もが思う。

 源助は、ずいと身を乗り出した。

「なんでお前、刀持ってんだよ」

「……」

「男でも女でも、どっちでも良いけどよ」

 源助は、本当にどうでも良さそうに手をひらひらと振った。

「そんな事より、お前は強いな。俺は喧嘩で無敗だったんだぞ」

 だった、と過去形で言うのが、少しばかり悔しそうではあった。

 瓦版を膝に置いたまま、桜色の剣士は小さく肩をすくめた。

「見たものを全部覚えて、出来ちゃう体質なのよ」

 事もなげな口調だった。

「何となく剣術を見ていたら、覚えちゃったのよね」

「……何となく、で、あれか」

「何の役にも立たないけれど」

 源助は、思わず身を乗り出した。

「役に立たない?」

 この江戸で、あれほどの腕を持っていて。

「いやいや、稼ぎ放題じゃねぇか」

「押し込み強盗でもするの?」

 涼しい顔で返される。冗談なのか本気なのか、相変わらず読めない。

 源助は、にやりと笑った。その顔で笑うと、ますます悪党の親玉にしか見えない。

「いやいや、逆だ」

 太い指が、ぐっと握られる。

「悪党どもを、ぶちのめす!」

    ◇

「まあ、これを見ろ」

 源助が文机の引き出しから取り出したのは、数枚の紙の束だった。

 人相書である。いかにも凶悪そうな男たちの顔が、墨で荒々しく描かれている。その一枚には、こう記されていた。

 ――盗賊一味の頭領。しばしば江戸の町を荒らし、民を悩ます。賞金、十両。

「俺は日頃、この寺で孤児の面倒を見ている傍ら、賞金稼ぎをやっている」

「やくざの傍ら、賞金稼ぎじゃなくて?」

「ちげーよ」

 即答だった。言われ慣れているらしい。

 源助は人相書を膝に置き、開け放った障子の向こう、夜の庭へと目を向けた。

「俺の両親は、武家に殺されてな」

 ぽつりと、何でもないことのように。

「俺も孤児だったんだよ。だから、親のない子をほっておけなくてな」

 行灯の火が、小さく揺れた。

 向かいの剣士は何も言わなかった。ただ、膝の上の手が、ほんのわずかに強く握られただけだった。

「子供たちを食わせるには、金がいる。悪党を捕まえりゃ、町の連中も助かる。一石二鳥ってやつだ」

 源助は、人相書の束をとん、と指で叩いた。

「ただな。俺一人では手に余る悪党がいてな」

 そして、真っ直ぐに相手の顔を見た。

「お前もどうだ?」

 しばしの沈黙。

 庭の向こう、寺の屋根の上に、まん丸い月がかかっている。剣士はそれをぼんやりと見上げてから、ふっと口元を緩めた。

「暇つぶしには、良いかもしれないわね……」


三 悪党退治


 翌日の昼下がり。

 町外れに、崩れかけた塀を巡らせた古屋敷があった。もとはどこぞの商家の寮だったらしいが、今では真昼間から下品な笑い声と、賽子の転がる音が漏れてくる。

 人相書の盗賊一味が根城にしているのが、ここだった。

 ――ドカァッ!!

 奥の座敷の襖が、内側から吹き飛んだ。

 いや、襖ごと人が飛んできたのだ。白い着物の男が、もんどり打って畳の上を転がり、壁に背中を叩きつける。

「グハァッ……!」

 そのまま白目を剥いて、ずるずると崩れ落ちた。

 隣の部屋で酒をあおっていた髭面の男が、盃を放り出して飛び上がる。

「なっ……殴り込みだ!!」

 破れた襖の向こうから、のっそりと巨体が現れた。黒い着物に剃り上げた頭。拳をにぎにぎと握りながら、源助は座敷を見回した。

 その後ろから、桜色の着物がひょいと顔を出す。抜き身の刀を、天秤棒でも担ぐように無造作に肩へ載せている。

「そんじゃあ、先ず」

 源助が、ごきりと首を鳴らす。

「悪党の拠点を制圧しようか」

「了解」

    ◇

 そこから先は、喧嘩と呼ぶのもはばかられる有様だった。

 奥から、台所から、二階から。刀や匕首を手にした男たちが、怒号を上げて殺到する。ざっと二十人はいただろう。

 源助は、真正面から受け止めた。

 振り下ろされた刀を持つ手首ごと掴み、そのまま持ち上げて放り投げる。男は三人を巻き込みながら庭へ転がり出た。次の男の頭には拳骨が落ち、その次の男は腰帯を掴まれて、米俵のように縁側から放り出された。

「どうしたどうした! それでも盗賊か!」

 どう見ても、殴り込んだ側の方が悪党の親玉である。

 一方で、桜色の袖は、まるで舞いでも舞うように乱戦の中を滑っていた。

 刀は、刃を返している。

 ヒュッ、と風が鳴るたびに、誰かが倒れる。小手を打たれて刀を取り落とす者。胴を打たれてうずくまる者。首筋を叩かれて、そのまま大の字になる者。峰打ちとはいえ鉄の棒で殴られるのだから、痛いものは痛い。

 刀を振り上げた男の腕が、振り下ろす前にはもう打たれている。後ろから突いた匕首は、振り向きもしないまま半歩ずれて空を切る。

 その時、四人が、同時に斬りかかった。前から、後ろから、左右から。逃げ場は、どこにもない。

 桜色の着物は、動かなかった。

 足は、畳の上に据えられたまま、一寸たりとも動いていない。ただ、刀だけが、くるりと一つ、輪を描いた。

 四人が、四方へ同時に崩れ落ちた。

 盗賊の一人を縁側から放り出しながら、源助は、それを横目で見ていた。

(何だ、今のは……)

 踏み込みもせず、退きもせず。ただ立っているだけの場所に、向かってきた者から順に倒れていく。物心ついてから喧嘩に明け暮れてきた源助でも、見たことのない剣だった。

「遅いわよ」

 涼しい声と一緒に、また一人が倒れた。

 屋敷が静かになるまで、さほど時はかからなかった。

 まだ立っていた下っ端たちが、ついに刀を放り出した。

「ば、化け物だ……!」

「やってられるかよ!」

 草履も履かず、裸足のまま塀を乗り越えて逃げていく。その背中に、源助が「もう悪さすんじゃねぇぞ!」と怒鳴った。

 奥の座敷には、一人の男が取り残されていた。

 禿げ上がった額に、小さな髷。鬼瓦のような顔。人相書に描かれていた、あの顔だった。賞金十両の頭領である。

 強面は、もうどこにもなかった。打ちのめされた手下と、逃げ去った手下と、穴だらけの襖を見回して、男はずるずると尻をついた。

「……何なんだ、お前らは……」

 源助は、拳をぱきりと鳴らしながら、頭領を見下ろした。

「俺らか?」

 強面が、にやりと歪む。

「悪党相手の、悪党だ」

 正義の味方を名乗るつもりはなかった。人の家に殴り込み、腕ずくで叩きのめし、首に懸かった金を頂く。やっていることは、目の前の連中とさして変わらない。それくらいは、源助自身がよく分かっていた。

 年月をかけて集めた手下も、稼ぎも、屋敷も。半刻もせずに、すべてが終わったのだ。

 頭領は、もう立ち上がる気力もなく、虚ろな目で天井を見上げていた。

    ◇

 その夜。

 頭領を番所に突き出した二人は、寺にほど近い居酒屋の小上がりで向かい合っていた。

「乾杯!!」

 かちん、と盃が合わさる。

 源助は一息に飲み干して、満足そうに息を吐いた。

「いやぁ、上手くいきすぎだ。半刻もかからず、完全制圧」

 顎に手を当て、しみじみと向かいの相手を眺める。

「お前、強いとは思っていたが、半端じゃないな」

「あの程度ならね」

 頬杖をついたまま、うっすらと頬を染めて微笑む。

「百人いても、相手じゃないわ」

「……冗談には聞こえないな」

 源助は苦笑いした。今日の立ち回りを見た後では、本当にそうなる気しかしない。

「お前なら、本当に全員退治しちまいそうだな」

 そう言って、懐から小さな包みを取り出す。卓の上で開くと、金色の小判が行灯の光を受けて鈍く光った。

「今回のお前の取り分だ。受け取れ」

 町人なら、これだけでしばらくは食うに困らない額である。

 だが、桜色の剣士は、ちらりとそれを見下ろして、つまらなそうに唇を尖らせた。

「なんだぁ……これっぽっちかぁ……」

 源助の手から、盃が滑り落ちそうになった。

「これっぽっちって……」

 まじまじと、相手の顔を覗き込む。

「お前、何処かの大名家の跡取りか何かか?」

 箸の上げ下ろし、盃の持ち方。気にして見れば、どれもこれも妙に品が良い。そのくせ、金の価値も、世間の当たり前も、まるで知らない。

「渡世に疎いし、城の中でぬくぬく育った口か?」

 源助の問いに、相手は頬杖をついたまま、とろんとした目で笑った。

「まーね……」

 盃の縁を、白い指先がなぞる。

「これでも大事に育てられたのよ……あの日までは……」

「あの日?」

 聞き返したが、返事はなかった。

 剣士はゆっくりと卓に突っ伏し、組んだ腕に頬を載せた。閉じた睫毛が、行灯の光に小さく震えている。

「もう……忘れちゃった……」

 それきり、静かな寝息が聞こえ始めた。

「……」

 源助は頬杖をついて、しばらくその寝顔を眺めていた。

 忘れた、という声が、忘れた者の声には聞こえなかった。孤児たちを何人も拾ってきた源助には、それがよく分かる。本当に辛いことを抱えた子ほど、ああいう言い方をするのだ。

 何も言わず、羽織を脱いで、その肩に掛けてやった。


四 人斬り


 数日後。

 町の話題は、またしてもあの桜色の剣士で持ちきりだった。

「ねえねえ、これ見た?」

 小間物屋の店先で、若い娘が瓦版をひらひらと振ってみせる。そこには、綺麗な顔に刀を差した剣士の絵が、前にも増して念入りに描かれていた。

「見たっ!」

「今度は治郎吉一味のアジトに乗り込んで、全員倒したんでしょ?」

「そうそう! 三十人をあっさり血祭りにだって!」

 実際には二十人ほどで、しかも峰打ちだったのだが、瓦版とはそういうものである。

「凄い美形らしいわよ」

「その上、とってもお強いそうね」

 花簪を挿した娘が、胸の前で両手を合わせ、うっとりと天を仰いだ。

「ああっ! 一度お会いしてみたいわ!」

 ――その黄色い声を、苦々しい顔で聞いている男たちがいた。

 着崩した着物に、無数の古傷。通りを歩けば町人が道を譲るような、そういう手合いである。

「チッ……」

 一人が、地面に唾を吐いた。

「源助の腰巾着が……」

「調子に乗りやがって……」

 その中心に、一人の男が立っていた。

 無造作に束ねた髪。顔から首筋にかけて、刀傷が幾筋も走っている。他の男たちとは、立ち姿からして違う。修羅場を潜ってきた者の、重い静けさがあった。

「一度、シメてやった方が良いようだな……」

 低く、そう呟く。

「兵を集めろ」

「はい」

    ◇

 その夕刻。

 日本橋の、とある高級宿。源助から受け取った小判を懐に、早速転がり込んだ宿である。その暖簾をくぐって通りへ出たところで、桜色の着物の足が止まった。

 ――ザッ。

 ――ザッ。

 左右から、前から、男たちが姿を現す。十人。いや、曲がり角の向こうにもまだいる。いずれも刀を差し、あるいは懐に手を入れ、逃げ道を塞ぐようにじわりと輪を狭めてくる。

 桜色の剣士は、騒ぐでもなく、ゆったりとそれを見回した。そして、往来で知り合いにでも会ったように、にこりと微笑んだ。

「あたしに、何か用かしら?」

 男たちの輪が割れて、あの傷だらけの男が前に出た。

「ちょっとお前、顔を貸しな」

 短い沈黙。

 夕風が、結い上げた黒髪を揺らした。

 微笑みが、すっと消える。

 前髪の影の奥で、瞳が紅く光ったように見えた。そこにはもう、居酒屋で頬を染めていた若者の面影はなかった。

 向けられた殺気を、何度も、何度も浴びてきた者の目だった。

「ええ……いいわよ」

    ◇

 翌朝。

 寺の境内を掃きながら、源助はぼんやりと考え込んでいた。

(あいつは、剣術を見て覚えたと言っていたが……)

 治郎吉一味の根城で見た、あの立ち回りが頭から離れない。

(あいつの剣は、実戦で学んだ剣だ……)

 道場で稽古を積んだだけの剣ではない。死に物狂いで向かってくる相手と、何度も何度も実際に渡り合ってきた者の動きだった。

(しかも、相当鍛えている……)

 細身に見えて、あの身体は一日や二日で作られたものではない。

(でなければ、どんなに剣術が優れていても、俺が負ける事はない)

 箒を動かす手が、止まる。

 あの日、匕首を持って飛びかかった下っ端を、横目で見ていた。峰打ちの一撃は、寸分の狂いもなく首筋を捉えていた。男は白目を剥いて崩れ、しばらく息をしていなかった。

(峰打ちだったが……数人は、死にかけていた)

 首。脇腹。こめかみ。狙う場所が、どれも人の急所だった。たまたま刃を返していたから助かっただけで、もしあれが刃だったなら。

(あれは、殺人剣……確実に命を奪う剣技だ)

 そして何より。

 源助は、久しく思い出していなかったものを思い出していた。幼い頃、自分の両親を斬った侍たちの、あの目だ。

 乱戦の合間に一瞬だけ見た、あいつの目は。

(人を斬ったことのある、目だ)

 しばらく、箒を握ったまま立ち尽くしていた。

(俺の思い過ごしであればいいが……)

 ――タッタッタッ。

 山門の外を、何人もの男たちが駆けていく。皆、同じ方角へ向かっていた。

「おい、何かあったのか?」

 呼び止められた男は、青い顔で振り返った。

「人斬りだ。横町のごろつき共が、二十人斬り捨てられた」

「なっ……!」

 源助は箒を放り出して、駆け出していた。

    ◇

 横町の奥、空き家になっていた古い蔵の前に、人垣ができていた。

 源助がその巨体で人垣をかき分けた瞬間、鼻を突く臭いがあった。

 鉄錆と、生臭いものが混じった、重たい臭い。

 男たちが、転がっていた。

 蔵の前の空き地に、路地の入り口に、塀にもたれかかるように。一人、二人と数えかけて、源助はやめた。皆、見覚えのある顔だった。この界隈で幅を利かせていた、傷だらけの男たちだ。

 どの顔も、自分が斬られたことにすら気づいていないような、呆けた表情のまま固まっていた。

 地面には、乾きかけた赤黒い水たまりがいくつも広がっている。朝の光がその表面に差して、いやにぬらぬらと光っていた。その縁には、もう蠅がたかり始めていた。

 源助は、一番手前に仰向けに倒れている男の傍らにしゃがみ込んだ。

 胸元が、大きくはだけている。左の肩口から胸にかけて、斜めに、一筋。

 たった一筋だけだった。迷いも、積み重ねもない。一太刀で、必要なだけ深く。それ以上は一分も入っていない。

 隣の男は、首筋を。その向こうの男は、脇腹を。どの傷も、一つずつ。どの傷も、寸分たがわず急所だけを通っていた。

 ――首。脇腹。こめかみ。

 つい先日、峰で打たれていた場所だった。

 源助は、立ち上がって、あたりを見回した。

 そして、気づいた。

 空き地の真ん中に、ぽっかりと、何もない場所がある。そこを中心に、五人の男たちが、花びらが開くように、外へ向かって倒れていた。四方から一斉に斬りかかり、そのまま返り討ちにされた形だった。

 その真ん中の土に、草履の跡が一組だけ残っている。踏み込んだ跡も、退いた跡もない。ただ、そこに立っていた。それだけの跡だった。

 治郎吉一味の根城で、横目で見た、あの不思議な剣。

 一歩も動かず、四方の敵を打ち倒した、あの剣。

 背筋を、冷たいものがゆっくりと滑り落ちていく。

「この……刀傷は……」

 疑う余地は、もうなかった。

    ◇

 寺への帰り道。

 桜色の着物は、すぐに見つかった。

 春の青空の下、町家の並ぶ通りを、何事もなかったようにのんびりと歩いている。腰の刀が、歩くたびに小さく揺れていた。

「おい……」

 背後から声をかける。自分でも驚くほど、低い声が出た。

「話がある」

 足が止まる。

 剣士は、すぐには振り返らなかった。横顔だけをこちらに向けて、小さく息をつく。その顔には、何の表情も浮かんでいない。

 源助は、拳を握りしめた。

「お前……人を斬ったな」

 ゆっくりと、剣士が振り返る。

 笑っていた。

 初めて会ったあの日と同じ、花がほころぶような可憐な笑みで。

「それがどうかした?」

「どうかしたじゃねぇ!」

 源助の怒声が、春の通りに響き渡った。近くの軒先で、雀が一斉に飛び立つ。

「人殺しだぞ! お前が悪党になってどうすんだ!」

 だが、桜色の着物は少しも動じなかった。空を見上げるようにして、穏やかに口元を緩めている。

「私は武家よ。斬り捨て御免は知っているでしょ?」

 あたし、ではなかった。

 何気ない一言の中で、その呼び方だけが、冷たく尖って源助の耳に残った。

「何の問題もないわよ」

「そういう問題じゃねぇ!」

 源助は詰め寄った。巨体が影を落とす。初めて会ったあの日と同じ構図だった。だが今日は、拳は握らなかった。

「殺す必要があったのかと聞いているんだ!」

 その顔から、すっと笑みが引いた。

「そんなの……」

 横顔が、わずかに伏せられる。

 前髪の影が落ちた、その奥。

 瞳が、紅く光った。

「……あるに決まっているでしょ……」

 周りの空気が、一瞬で冷えた。春の日差しの下だというのに、源助の二の腕に、ざわりと鳥肌が立つ。

 喧嘩では無敗の男の身体が、勝手に知っていた。これは、決して対峙してはならないものだ。

「私は、私を殺しに来た人間に容赦はしない」

 平坦な声だった。怒りも、憎しみもない。ただ、もう何度も確かめてきたことを、口にしているだけのような声。

「例えそれが将軍であったとしても。私の刀で斬り捨てる」

 源助は、唇を噛みしめた。

「……斬り捨て御免は、制約が厳しい」

 武士が町人を斬っても咎められない、というほど世の中は単純ではない。斬った後には届け出が要る。それだけの理由があったか、徹底的に詮議される。理由が立たなければ、斬った側が罪に問われるのだ。

「二十人も殺したなら、奉行所も動くぞ。そんな理屈が通るとでも……」

「問題ないわよ」

 剣士は、また空へと目を戻した。紅い光は消えていた。その代わりに、ひどく凪いだ、何も映さない目がそこにあった。

「その時は、どうせ誰かが揉み消すだけだから」

「なっ!!」

 揉み消す。

 二十人の命を、何でもないことのように。そういうことができる誰かが、こいつの背後にはいる。そしてこいつは、それを当たり前のように口にした。

 頭の奥で、何かが焼き切れた。

 幼い日の光景が、許しもなく詰め寄ってくる。地面に倒れた父と母。刀を拭いながら立ち去っていく侍たちの背中。そして、その後に何一つ、誰一人、裁かれなかったこと。

「くそがっ!!」

 源助は吐き捨てた。

「所詮てめぇも……俺の親を殺した奴らの同類か!!」

 剣士が、ゆっくりとこちらを向いた。

 怒りも、否定も、そこにはなかった。ただ、ひどく真っ直ぐな目が、源助を見返していた。

「アンタの親だろうが、私を殺しに来たなら、迷わず斬るわよ」

 言い訳も、誤魔化しもしない。そのことが、かえって源助の言葉を詰まらせた。

「私は今まで、そうやって生きてきた」

 少しだけ、声が揺れた気がした。

「自分を守るためには、例え誰であろうと……斬るしかないの」

 剣士は、目を逸らさなかった。真っ直ぐに、源助を見上げている。

 声は、平坦なままだった。本人は、ただ当たり前の事実を並べているだけのつもりなのだろう。

「今までも……」

 顔色ひとつ変えずに、続ける。

「これからも……」

 ――その瞬間。

 源助を見上げるその顔が、ほんの一瞬だけ、まるで別のものに見えた。

 源助は、息を呑んだ。

 そこにあったのは、人斬りの顔でも、悪党の顔でもなかった。

 だからと言って、それが何なのか、源助には言葉にできなかった。ただ、喉の奥に出かかっていた次の罵声が、そのままどこかへ消えていった。

「悪党退治、楽しかったわ……」

 そう言って、くるりと背を向ける。もう振り返らなかった。

「じゃあね……」

 桜色の背中が、春の日差しの中を遠ざかっていく。緋色の帯が、通りの向こうで小さくなっていく。

「……」

 源助は、動けなかった。

 追いかけて、もう一度怒鳴りつけることもできた。絶縁だと吐き捨てて、二度と寺の敷居をまたがせないこともできた。そうするべきだと、ついさっきまでは思っていた。

 それなのに。

 瞼の裏に焼き付いたあの一瞬の顔が、どうしても消えてくれない。

 あいつは、悪党なのか。

 それとも――。

 答えの出ない問いを抱えたまま、源助はいつまでも、その場に立ち尽くしていた。


五 雪之丞


 北町奉行所。

 江戸の町政を預かる役所の、その奥まった一室に、桜色の着物は通されていた。

 門番に名を告げたわけではない。ただ一言、「奉行に会わせて」とだけ言った。追い返されるはずのその要求が、なぜかすんなりと通ったのだ。

 向かいに座っているのは、当の北町奉行、遠山景元である。

 四十を過ぎ、鬢に白いものが混じり始めた年頃。立派な口髭を蓄え、眉間には深い皺が刻まれている。切れ者の名奉行として、江戸でその名を知らぬ者はいない。

 その景元が、引き結んだ口元のまま、黙って話を聞いていた。

 横町のごろつきたちに囲まれたこと。空き家の蔵の前へ連れて行かれたこと。そこで、刀を抜かれたこと。

 そして、二十人を斬ったこと。

 桜色の剣士はそれを、淀みなく、感情を交えずに語った。まるで他人の話でもするように。

「……以上よ」

 短い沈黙の後、景元は重々しく口を開いた。

「事情は、承知いたしました……」

 深く、息を吐く。

「今回の件は、不問と致します」

 二十人を斬った者を前にして、江戸の名奉行は、眉一つ動かさずにそう言った。そして、自嘲するように、口髭の端をわずかに歪める。

「そもそも……某では、貴方を裁けませぬしな……」

 奉行が、目の前の若者に対して、ひどく丁重な言葉を使っている。その奇妙さを、この部屋の二人以外に知る者はいない。

「水野様は、この事をご存じなのですか?」

「知らないと思うわよ」

 剣士は、気負うでもなく答えた。結い上げた黒髪の毛先を、指先で弄びながら。

「名乗ってもいないわけだし」

「それは何よりでございます」

 景元は、本当に安堵したように頷いた。

「色々、面倒ですのでな……水野様には、某から伝えておきましょう」

 そこで一度言葉を切り、景元は姿勢を正した。

「その上で、この景元に、一つ提案がございます」

    ◇

「これより、雪の……」

 言いかけて、景元は口をつぐんだ。

 その肩が、わずかに弾んだ。久しく誰にも呼ばれていなかった名の、その頭の一文字だけが、一瞬、部屋の空気を揺らした。

 景元は、何事もなかったかのように言い直した。

「……雪之丞と、名乗られよ」

 剣士が、目を見開く。

「貴殿は、紀伊徳川家所縁の大名家の三男……」

 わざとらしいほどにもったいぶった口調で、景元は続けた。

「男色の雪之丞でござる」

 瓦版が勝手に広めた、あの絵空事。それを、この男は丸ごと使うつもりらしかった。

「名乗ったところで、紀伊家は何も言いますまい……」

 なぜ紀伊家が何も言わないのか。景元はそれを説明しなかった。剣士も、尋ねはしなかった。

「その身分であれば、誰も貴方を咎めることはできませぬ」

 剣士は、何も言わなかった。ただ、じっと景元の顔を見つめていた。

 景元の膝の上で、拳がきつく握られていた。

「某はあの時、何もできませんでした……」

 絞り出すような声だった。

 あの時。五年前の、あの騒動。景元は手を貸した。それが正しいことだと信じていた。だがその結果、目の前のこの若者がどんな目に遭ったか。そして自分が、それを止めるために何一つできなかったことを。

「今でも、それを悔いておりまする」

 丁寧な言葉の奥に、五年分の重さがあった。

「水野様も、将軍様も。某が説得してみせまする」

 剣士の眉が、小さく寄った。

「万が一の時は、某が腹を切りましょう……」

 気軽に口にしてよい言葉ではない。それを、この男は何のためらいもなく言ってのけた。

「貴方は、貴方のお好きなように生きられよ……」

    ◇

 奉行所を出ると、外は押しつけるような春の青空だった。

 薄い春霞が、屋根の向こうに淡くたなびいている。

 ゆっくりと、通りを歩き出す。背中にはまだ、景元の最後の言葉が残っていた。

『新たなる道を歩んでみるのも、良いかと存じます……』

 空を見上げる。

『貴方の望むが儘に……』

 雪之丞。

 口の中で、そっとその名を転がしてみる。妙にくすぐったいような、それでいて、不思議と馴染むような響きだった。

 自分が何を望んでいるのか。今はまだ、分からない。ただ、胸の奥の重いものが、ほんの少しだけ、軽くなった気がした。

 ――と、そこで。

「あ……」

 雪之丞の足が、ぴたりと止まった。

 懐に手を入れる。右も、左も。袖も揺すってみる。

 何もない。源助から受け取った小判は、とっくに酒と食い物と、高級宿の宿代に化けていた。

「お金……」

 今しがた出てきた奉行所の門を、恨めしそうに振り返る。

「借りれば良かった……」

 あれだけ格好よく送り出されておいて、今さら戻って金を無心するのは、さすがに体裁が悪い。

 ふう、と溜め息をついて、何の気なしに視線をやる。

 辻の角に、古びた高札が立っていた。そこに貼り出された一枚の紙。

 ――賞金首。

 悪党、安吉。盗賊一味の首領。しばしば江戸に現れ、狼藉を働く。

 賞金、三両。

 雪之丞は、しばらくその人相書を眺めていた。

 それから、ゆっくりと、口元だけで笑った。

    ◇

「雪之丞だ! 雪之丞が乗り込んできやがった!」

 外れの平屋に、汚い怒声が響き渡った。

「出合え、出合え! 全員で雪之丞を叩きのめせ!」

 奥の部屋から、種々雑多な男たちが飛び出してくる。その真ん中を、桜色の着物が、庭の散歩でもするような足取りで進んでいた。

 抜き身を、だらりと下げたまま。

「賞金首はどこかしら?」

 にこやかに、周りを見回す。

「後の雑魚は、逃げるならどうぞ」

「誰が雑魚だコラ!」

「このクソアマ!」

「アマじゃねぇ! 野郎だ!」

「どっちでもいいだろ!!」

 仲間内で揉め始めた男たちを前に、雪之丞は、くすりと小さく笑った。

 刀の刃を、くるりと返す。

「じゃ、始めましょうか」

 ――それから、線香が一本燃え尽きるほどの間。

 平屋からは、悲鳴と、障子や襖のぶち破られる音ばかりが続いた。

    ◇

「御覧じろ! 御覧じろ!」

 数日後の晩。人通りの多い辻で、手拭いを頭に巻いた瓦版売りが声を張り上げていた。あの日、源助の喧嘩を刷って一儲けした、あの男である。

「またまた雪之丞様が、悪党を退治したぞ! 今度は夜盗一味が壊滅だ!」

 わっと人が群がる。刷り立ての紙が、飛ぶように売れていく。

「これで今月、三度目ね!」

「江戸から悪人がいなくなりそうだ」

 町の者たちの声は、どれも明るかった。そこには、怯えも嫌悪もない。江戸の町は、あの桜色の剣士を、すっかり人気者として迎え入れていた。

 その人垣の外で、一人だけ笑っていない男がいた。

「……」

 源助は、腕を組んだまま、その光景を眺めていた。

 あの日から、雪之丞には一度も会っていない。寺に顔を出すこともなかった。

 それでいいと思っていた。あんな奴とは、二度と関わらない方がいい。そう自分に言い聞かせながら、それでも瓦版の売り声が聞こえるたびに、足が勝手にそちらへ向いていた。

 子供たちには「源助さん、また瓦版買ってる」と笑われた。買った後で、一枚残らず細かく読んでいる自分が、何よりも苛立たしかった。

「おい、瓦版売り」

 売り切れに頬を緩めていた男が、振り返って、そのまま固まった。源助の顔を見れば、たいていの者はそうなる。

「これまでに、雪之丞は何人殺した?」

「へ?」

 瓦版売りは、きょとんと目を瞬かせた。それから、得意げに胸を張る。

「全員峰打ちですね。大怪我した人間はいますけれど」

「……」

「賞金首もちゃんと生きたまま、奉行所に引き渡していますよ。そこがまた粋だってんで、娘さんたちに大人気でしてね」

 峰打ち。

 生きたまま。

 源助は、奥歯を噛みしめた。

 そうだ。あいつは、悪党を斬らない。治郎吉一味の時もそうだった。あれほどの腕があれば、刃を返した方がよほど手間だろうに。それでも、あいつは峰で打つ。

 なら、あの横町の二十人は何だったのか。

「いや……」

 自分でも分かるほど、声が低くなっていた。

「あいつを狙った輩が、何十人も斬られているだろ」

「ああ、雪之丞様を襲った連中ですか?」

 瓦版売りは、事もなげに頷いた。

「盗賊ややくざが、雪之丞様を狙って全員返り討ちって奴ですね」

 指を折って数える。

「もう、三十人以上斬り捨てられてますね」

 三十人。

 横町の二十人だけではなかったのだ。あの後も、自分の知らないところで、その数は増え続けていた。

「火付盗賊改方の鬼平様が今の世にいたら、仕事がなくなるってぼやいたでしょうね」

 けらけらと笑う瓦版売りの声が、ひどく遠くに聞こえた。

 悪党は斬らない。だが、自分を殺しに来た者は、必ず斬る。

 ――私を殺しに来た人間に、容赦はしない。

 あの日の言葉は、嘘でも強がりでもなかった。あいつは、本当にその通りにしか生きていない。それは、分かった。

 分かったが、分からない。

 悪党にすら情けをかける奴が、なぜ自分を狙う者にだけは、一切の容赦をしないのか。そもそも、なぜそんなにも狙われるのか。三十人もの人間が、どうしてあいつを殺そうとするのか。

 瞼の裏に、またあの顔が浮かぶ。「今までも、これからも」と言った、あの一瞬の顔が。

 源助は、迷いを振り払うように首を振った。

「……三十人も斬り殺して、町奉行所は何をしているんだ?」

 理由がどうあれ、人が死んでいるのだ。それだけは、何があっても曲げられない。

 だが、瓦版売りは、何を当たり前のことを、という顔で肩をすくめた。

「紀伊家所縁のお武家様って噂で」

 源助の動きが、止まった。

「お奉行様も、手を出せないんじゃないですかね?」

 ――その時は、どうせ誰かが揉み消すだけだから。

 あの日の声が、耳の奥で蛇のように鎌首をもたげた。

 紀伊徳川。御三家の一つ。その名の前では、町奉行も水を打ったように黙り込む。三十人の命が、噂一つで帳消しになる。

 自分の親が斬られたあの日も、そうだった。

 誰も裁かれなかった。誰も償わなかった。斬った側は、何事もなかったように翌日もその翌日も生きていった。斬られた側だけが、すべてを失った。

 あいつは、悪党なのか。

 悪党を斬らずに救う、あの剣士が。

 居酒屋で子供のように寝息を立てていた、あの剣士が。

 あの一瞬、言葉にできない顔をしていた、あいつが。

 分からない。分からない。分からない。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。

 あいつの背後にいて、三十人の死を平然と揉み消す、そういう連中がいるということだ。

 源助の視界が、ゆっくりと暗くなっていく。古い古い、もう癒えたと思っていた傷が、胸の奥でじくりと疼いていた。

 表情を少しも崩さないまま、その目の奥で、暗い火が静かに燃えていた。


六 血の一月


 江戸の外れ、大川を望む一角に、立派な構えの屋敷がある。

 この一帯の賭場と盛り場を一手に取り仕切る、ある一家の本家である。横町で斬られた二十人の多くも、元を辿ればこの一家の息がかかった者たちだった。

 その奥座敷で、一人の老人が、胡坐をかいていた。

 真っ白な髪を無造作に後ろへ流し、同じく白い髭を蓄えている。年の頃は、五十をとうに越えているだろう。だが、はだけた胸元を斜めに走る古い刀傷も、眉間に刻まれた皺も、この男が幾度もの修羅場を自らの腕で押し通してきたことを物語っていた。

 江戸の裏でその名を知らぬ者はいない、大親分である。

「紀伊家か何だか知らねぇが」

 低く、しわがれた声だった。だがその一言で、座敷に並んだ子分たちの背筋が、一斉に伸びた。

「いい加減、たった一人の男色に舐められたままでいられるか」

 この一月、江戸の裏の秩序は、たった一人の剣士に好き放題に踏み荒らされてきた。縄張りを潰され、子分を斬られ、それでも奉行所は動かない。面子を潰されたまま黙っているようでは、もうこの稼業で食ってはいけない。

 老人は、傍らに控える若頭へと目を向けた。

「江戸中の一家に、声をかけろ」

 若頭の眉が、わずかに動いた。江戸中の一家。常の時ならば、縄張りを巡っていがみ合う、敵同士の連中も含まれる。

「金は、いくらでも使っていい。浪人、無法者を、集めるだけ集めろ」

 若頭は、ゆっくりと口元を歪めた。笑ったのだ。

「江戸中の組の全勢力で……」

 異様に光る目が、闇の中で細められる。

「雪之丞の、息の根を止める」

    ◇

 数日後。

 とある寺の境内に、異様な数の男たちが集まっていた。

 着流しを着崩したやくざ。くたびれた紋付きの浪人。どこから流れてきたのかも分からない、目つきの悪い無法者。普段ならば、同じ場所に立つだけで血を見るような連中が、肩を並べて本堂を見上げている。

 数える気にもならない。山門の外にまで、人の波は溢れていた。

「……雪之丞と、全面戦争だ」

 誰かが、ごくりと唾を呑みながら呟いた。

 本堂の階段の上に、一人の男が進み出た。髭面の、いかつい男だ。組んだ二の腕には、刀傷がいくつも重なり合っている。この寄せ集めの軍勢を、実際に率いることになった代貸しである。

 男は、境内を埋め尽くす顔を一つずつ眺め回し、そして、腹の底から声を張り上げた。

「必ず雪之丞の首を獲る!!」

 地鳴りのような声が、境内の空気を震わせる。

「死ぬ気で戦え! 野郎ども!!」

 うおおおおっ――!!

 幾百という男たちの雄叫びが、うねりとなって春空へ立ち昇っていった。屋根の鳶が、一斉に飛び立つ。

    ◇

 そのころ。

 町を挟んだ向こうの通りで、桜色の着物が、ふと足を止めて空を見上げていた。

 遠くで、何かが湧き上がるような、かすかなどよめきが聞こえた気がした。

 雪之丞は、その方角へ目を細める。

 そして、いつものように、花がほころぶような可憐な笑みを浮かべた。

 腰の刀の柄に、そっと白い指が触れる。

 ――血の一月が、始まろうとしていた。

    ◇

 最初の夜は、すぐにやってきた。

 月のない、蛙の声だけがやけにうるさい夜だった。町外れの路地を、提灯の灯りがいくつも、いくつも駆け抜けていく。

「取り囲め! 単身では挑むな!」

「挟み撃ちだ! 絶対に逃がすな!」

 怒号が飛び交う。裸足の足音、抜き放たれた刀の鳴る音。路地という路地が、人で塞がれていく。

 前にも、後ろにも。

 その輪の真ん中で、桜色の着物が、ただ一人立ち止まっていた。

 提灯の火に照らされたその顔に、もう笑みはなかった。

 前髪の影の奥で、二つの瞳が、紅く燃えている。

「逃げる?」

 ただ一言。

 そう問い返した声は、不思議と静かだった。だが、それを耳にした男たちの何人かは、理由も分からないまま、思わず半歩後ずさっていた。

 ――その半歩が、生死を分けた。

 前に出ていた二人の男の間を、桜色の風がすり抜けた。

 刀が、一度だけ閃いたように見えた。

 だが、男たちは二人とも、その場に膝を折っていた。一人は背を、もう一人は脇腹を。着物が裂け、黒いものが大きく、夜の空気に飛び散る。それが血だと分かったのは、提灯の火がその飛沫を赤く映した、その後だった。

「そんな必要、ないわ」

 振り抜いた刀を、そのまま肩の上へと掲げる。刃が、提灯の灯りを受けて、細く青白い光を流した。

 路地を埋めた男たちが、息を呑む。

 何十人といるはずなのに、誰一人として、すぐには踏み出せなかった。

「一人たりとも、生かして帰すつもりはないわ」

 敵意も、怒りもない。ただ、そう決めている者の声だった。

 一人でも逃がせば、その一人が、次は十人を連れて戻ってくる。十人を逃がせば、百人が。

 ――それを、この若者は、もうずっと前に、身をもって知っていた。守ってくれる者がいなくなったあの日から、ずっと。

「死ぬ覚悟がある者から、かかって来なさい」

 沈黙。

 蛙の声すら、いつの間にか止んでいた。

 男たちの中で、ぶるりと身を震わせた者がいた。刀を握る手が、汗で滑る。誰かの喉が、ごくりと鳴る。

 その沈黙を破ったのは、一人の男の怪声だった。

「舐めるな!」

 歯を剥き出し、自分自身を奮い立たせるように彼は叫んだ。

「たかが一人だ! 囲め!!」

 その声に背を押され、男たちが一斉に動いた。

 紅い瞳が、その全てを、ただ静かに映していた。

    ◇

 抗争が始まって、五日が過ぎていた。

 その間、源助は寺からほとんど出なかった。子供たちを外に出さないためだ、と自分には言い聞かせていた。だが本当は、街へ出れば、否応なくそれを目にすることになるのが、分かっていたからだ。

 その朝、門徒の男が、息を切らして駆け込んでくるまでは。

    ◇

「な……」

 路地に一歩足を踏み入れた瞬間、源助の足は止まった。

「何だ……これは……」

 春の空は、いやに青かった。その光の下に、男たちが転がっていた。

 石畳の上に。店先の溝の縁に。壁にもたれかかるように。縁石から滴り落ちた赤いものが、溝の中で細い線になっている。店の障子にも、板壁にも、何かを叩きつけたような飛沫が、大きく飛び散っていた。

 横町で見たものと、同じだった。

 一人に、一筋。迷いのない、必要なだけの傷。

 ただ、その数が、あの時とは比べ物にならなかった。この路地だけではない。辻の向こうにも、その先の通りにも、同じものが続いているのが見えた。

「雪之丞が……やったのか……」

 答える者はいない。分かり切った問いだった。

 源助は、転がる男たちの顔を、一つずつ見ていった。そして気づいた。自分が、ある一つの顔を探していることに。

 桜色の着物を。

「この数が相手では……」

 喉の奥が、ひどく乾いていた。

「流石のあいつも、死んだかもしれないな……」

 口にしてから、その言葉の重さに、自分で驚いた。

 あんな奴。二度と関わらないと決めた、人斬り。死んだところで、自業自得ではないか。

 ――それならなぜ、俺はここに来たんだ。

「源助さん!」

 知らせに来た門徒の男が、通りの向こうから駆け戻ってきた。

「日本橋の方で、今も斬り合いが続いています!」

 今も。

 その一言に、胸の奥で何かが、わずかに緩んだ。こんな時に、こんな場所で。そんな自分が、たまらなく嫌だった。

「……よし、行くぞ……」

 歩き出した足元に、抜き身の刀が一振り、投げ出されていた。その先に、仰向けに倒れた男の足がある。刃には、一滴の血もついていなかった。この男は、一太刀も振るうことなく斬られたのだ。

 源助が、そこから目を上げた時だった。

「な……」

 ――ザワザワ……。

 通りの先で、遠巻きに立ち尽くしていた町の者たちが、一斉にどよめいていた。そして、水が割れるように、左右へと道を開けていく。

 誰も、声をかけようとはしなかった。つい先日まで「一度お会いしてみたい」とはしゃいでいた娘たちも、店先の影に身を縮めて、ただ息を殺している。

 その人垣の割れ目を、桜色の着物が歩いてきた。

 抜き身の刀を、右手にだらりと下げたまま。

 着物には、乱れ一つなかった。袖も裾も、結い上げた黒髪も。袖の端を、返り血がわずかに汚しているだけだった。

 そしてその瞳が、まだ、紅い。

「怪我どころか、無傷だと……」

 源助は、呻くように呟いた。

 この五日間。江戸中の任侠と無法者が、たった一人を狙って押し寄せたのだ。その数が寺の境内を埋め尽くすほどだったという噂は、源助の耳にも入っていた。

「あの数を相手に……たった一人で……」

 喧嘩では無敗だった。十人で囲まれようが、刀を抜かれようが、最後に立っているのはいつも自分だった。だがそんなものは、今目の前にあるものと比べれば、子供の喧嘩と変わらない。

「全員、斬ったのか……」

    ◇

 桜色の着物は、まっすぐに歩いてきた。

 源助の立つ、その方へと。

 ――ザッ、ザッ。

 足音が近づいてくる。一歩ごとに、源助の心の臓が、勝手に響きを増していく。

 何か、言うべきことがあるはずだった。

 これは何だ、と怒鳴るべきだったのか。もうやめろ、と肩を掴むべきだったのか。それとも――生きていてよかった、と。

 どの言葉も、喉まで出かかっては、そこで崩れていった。

 すれ違う。

 黒髪が、左の肩先をかすめていく。ただそれだけだった。

 雪之丞は、一度もこちらを見なかった。紅い瞳は、まっすぐに前だけを見ていた。そこに自分がいることに、気づいていないのか。気づいていて、見ないのか。それすら、分からなかった。

 足音が、背中の向こうへ遠ざかっていく。

 源助は、振り返らなかった。

 振り返れなかった。

 大きな拳が、袖の影で、白くなるほど握りしめられていた。胸の奥で、穏やかなはずの心が、わけの分からないものでぐちゃぐちゃにかき回されている。

 これだけの人を斬った奴が、生きていた。

 そのことに、安堵している自分がいる。

 それが、何よりも許せなかった。

 源助は、ただ、きつく目を閉じた。


七 伊丹勝弼


 満月の夜だった。

 初めて源助が、行き倒れのあいつを拾った夜と、同じような月だった。

 人気の絶えた通りを、桜色の着物が一人で歩いていく。抜き身の刀を右手に下げたまま。石灯籠の灯りが、その刃を細く青白く光らせていた。

 足取りは、変わらず静かだった。だが、よく見れば、その歩みがほんのわずかに重い。

「うらああああ!」

 軒の陰から、刀を振りかぶった男が飛び出した。

 雪之丞は、振り向きもしなかった。

 ただ、腕が動いた。刃が月光を一度だけ弾く。紅い瞳が、男の姿を、まるで最初からそこにあると知っていたように捉えていた。

 駆け込んできた男の勢いが、そのままふつりと途切れる。その首筋から、黒々としたものが夜気に噴き上がり、男は前のめりに崩れ落ちた。

 雪之丞は、刀を軽く払っただけで、また歩き出した。

    ◇

 その一部始終を、離れた家の陰から見ている者がいた。

 源助である。

 あの日、すれ違ってから、源助は雪之丞の後を追うようになっていた。声はかけない。姿も見せない。ただ、遠くから見ている。

 自分でも、何をしているのか分からなかった。

 雪之丞は、通りを少し行った先の、空き家の濡れ縁に腰を下ろした。刀を傍らに置き、柱に背を預ける。

 そのまま、目を閉じた。

 しばらくして、その肩が、ゆっくりと上下し始める。

(流石に、あいつも限界か……)

 源助は、腕を組んだまま、その姿を見つめていた。

(もうこれで、十日目……)

 十日。抗争が始まってから、昼も夜もなかった。どこにいても狙われ、どこへ行っても刃が向けられる。まともに眠れてなど、いないだろう。

 月明かりに浮かぶ寝顔は、ひどく幼く見えた。昼間、紅い瞳で人を斬っていた者と、同じ顔とは思えないほどに。

(もう何人斬ったかも、分からない……)

 化け物じみた強さだ。それは、この十日で嫌というほど思い知らされた。

 だが、だからこそ分からないことがある。

(何故、家臣が助けに来ない……)

 紀伊家所縁の武家。噂が本当なら、江戸には屋敷もあるはずだ。

(騒動は、もう幕府の耳にも届いているだろう……紀伊の血族なら、兵士の百や二百は軽く集められる筈だ……)

 それなのに。

(あいつは、ずっと一人で……何百人もの相手を、斬り捨ててきた……)

 誰も来ない。誰も助けない。

 そして、もう一つ。

(あれだけ派手に暴れたなら、揉み消す以前の問題だ……)

 江戸の真ん中で、十日の間に何百人という人間が斬られている。いくら紀伊家の威光があろうと、これを見過ごせる道理はない。

(だが、幕府は頑なに沈黙している……)

 まるで、何かを待っているかのように。あるいは、何かを恐れているかのように。

 源助は、組んだ腕に力を込めた。

(あいつが悪だと確信したら――)

 ずっと、そう決めていた。

(その時は、俺があいつを殺すつもりだった)

 自分が拾った。自分が飯を食わせた。自分が「悪党退治をやらないか」と誘った。あいつの剣が人を斬るための剣だと分かっていながら、その剣を町へ連れ出したのは、他ならぬ自分だ。

(悪党退治に巻き込んだ、俺のけじめとして……)

 喧嘩で、勝てる相手ではないことは分かっている。それでも、刺し違えてでも止める。その覚悟だけは、あの日から胸の奥に据えてあった。

 ――けれど。

 源助は、柱にもたれて眠る姿を見つめた。

(俺には、わからない……)

 あの日の光景が、また瞼の裏に浮かぶ。

 人を斬ることを、何でもないことのように語った、あの時。

「今までも……これからも……」

 平然と、真っ直ぐにこちらを見上げていた、あの顔。

 あの時、源助の目に映ったもの。

 ――それは、今にも泣き出しそうな、迷子の子供のような顔だった。

 唇が、何かを言いかけて震えていた。見開いた瞳が、涙で揺れていた。人を斬ることを当然のように語ったその口で、その目で、あいつは、助けを求めるような顔をしていたのだ。

 ほんの一瞬。本人すら気づかぬうちに浮かび、すぐに消えた顔。

(あの時、何故……あいつが、あんな顔をしたのか……)

 悪党が、あんな顔をするものか。

 だが、悪党でないというなら、何故あれほどの人を斬れる。

 助けてやりたい、と思う自分がいる。だが、それが本当に正しいことなのか。あいつの剣を止めることが正しいのか、あいつの隣に立つことが正しいのか。その答えが、どうしても出なかった。

 だから、ただ、見ていることしかできない。

 ――と。

「む……」

 源助の眉が、わずかに動いた。

 通りの向こうから、小さな足音が近づいてくる。

 草履の音。それも、刀を持つ男のものではない。ゆっくりとした、迷いのない、女の足取りだった。

 月明かりの中に、一人の娘が姿を現した。

 藤色の着物に、闇に溶けるような長い黒髪。年の頃は十七、八といったところか。濃い紫の帯には、細やかな花の模様が染め抜かれている。ひと目で、並の家の娘ではないと分かる身なりだった。

 こんな夜更けに。それも、この十日、江戸で最も危うい場所となったこの界隈に。

 だが源助は、娘の背後の闇に、いくつかの気配を感じ取っていた。物陰に、塀の向こうに。息を殺し、娘の一挙手一投足を見守っている者たちがいる。それも、相当に腕の立つ者たちだ。

 娘は、濡れ縁で眠る桜色の着物の前で、静かに足を止めた。

 そして、その寝顔を見下ろして、ほっと息を吐く。

「やっと……」

 鈴を転がすような、澄んだ声だった。

「見つけました……」

    ◇

 同じ月が、別の屋敷の庭も照らしていた。

 とある大身旗本の、隠居屋敷。手入れの行き届いた松と、苔むした石灯籠。奥座敷に、一人の男が通されていた。

 鬼五郎一家の、当代の頭である。

 品川の宿場に根を張る一家である。江戸中の一家に号令がかかったあの時、先代の病を理由に、ただ一つ加わらなかった。束になって挑んだ一家が次々と潰れていく今、江戸の裏で看板を保っているのは、もうこの一家ぐらいのものだった。

 顔から胸にかけて走る幾筋もの刀傷は、その看板を、この男が身一つで守ってきた証だった。だが、それもいつまで保つか分からない。残った看板が次に狙われるのは、時間の問題だった。

 だからこそ、その男が今、畳に両手をつき、深々と頭を下げている。

「拝謁……恐悦至極に存じます」

 上座に座しているのは、白髪を結い上げた老武士だった。

 痩せてはいるが、背筋は少しも曲がっていない。紋付の羽織に、胸元の白い房。深く刻まれた皺の奥で、薄い色の目が、値踏みするように男を見下ろしていた。

 かつて大目付として、諸大名の動向に目を光らせていた男である。家督を譲り、職も退いて久しいが、その名を聞けば、今なお顔色を変える者は少なくない。

「良い」

 短く、乾いた声だった。

「先代は、息災か?」

「いえ……」

 男は、わずかに目を伏せた。

「病で、長くは……」

「左様か」

 老人の声には、何の感情も籠っていなかった。

「今回は先代に代わり、ご相談がございまして、参上いたしました」

「申してみよ」

    ◇

 男の話は、長くはかからなかった。

 紀伊家所縁を名乗る、桜色の着物の剣士。江戸中の一家が束になってかかって、この十日、ただの一度も手傷を負わせられずにいること。斬られた者の数は、もう誰にも分からないこと。

「成程な」

 老人は、扇子の先で、膝をとん、と叩いた。

「紀伊家を名乗る不埒者に、手を焼いていると」

「は……」

「だが、わしも紀伊家にそんな人間は、聞いたこともない」

 大目付であった男が、知らないと言う。それが何を意味するのか、頭の男にもすぐに分かった。

「そもそも紀伊家は、先の将軍の跡目争いで、すっかり力を失っているとも聞いておる」

 老人の口元が、薄く歪んだ。

「水野に比べれば、厄介な相手でもない」

 当代随一の権勢を誇る老中の名を、この男は呼び捨てにした。

 しばしの沈黙の後、老人は扇子をぱちりと閉じた。

「良いだろう。先代への義理も、あるからのぅ」

 その義理が何であったのかを、頭の男は知っている。先代が、この屋敷の主のために、表に出せぬ仕事をいくつも請け負ってきたことを。

「わしの私兵も、貸してやろう」

「……ありがたき幸せ」

 男が再び頭を下げる。

 その頭上で、老人の顔に、ゆっくりと笑みが広がっていった。

 品の良い老武士の顔ではなかった。皺だらけの頬を引きつらせ、黄ばんだ歯を剥き出しにした、ひどく醜い笑みだった。

「しかも……わしに恥をかかせた、あの町人の子倅もおるのだろう?」

 頭の男が、思わず顔を上げる。

 老人が誰のことを言っているのか、男には分かった。あの剣士の傍らに、一時期いたという大男。寺で孤児を養っているという、あの坊主。

「ついでだ……」

 老人は、愉しげに目を細めた。

「親と同じく、始末してくれる」

    ◇

 濡れ縁の上で、長い睫毛が、かすかに震えた。

 ゆっくりと目を開けた桜色の着物の前に、藤色の着物の娘が立っていた。

 月明かりの中で、二人の視線が交わる。驚いた様子はなかった。ただ、どこか諦めたような、困ったような顔で、雪之丞は娘を見上げていた。

 娘は、静かに膝をついた。

「雪乃様……」

 その名を、そっと口にする。

 家の陰で、源助はその声を聞いていた。

(雪乃……?)

 雪之丞を、雪乃と。

 親しい間柄の者だけが使う、呼び名なのだろう。こんな夜更けに、護衛まで連れて探しに来るほどの仲だ。そういう呼び方をしても、おかしくはない。

 源助は、それ以上深くは考えなかった。

「屋敷へ、お戻りください」

 雪之丞は、すぐには答えなかった。目を閉じ、柱にもたれたまま、小さく息をつく。

「ここは危ないわよ」

 突き放すような口調だった。だが、その声は、どこか疲れていた。

「先代将軍も死んだし……私はもう、用無しでしょ……」

 自嘲するように、口の端がわずかに歪む。

「早く帰りなさい……」

 娘は、引かなかった。

 真っ直ぐな紫の瞳で、雪之丞を見つめる。その目には、怯えも、迷いもなかった。

「鬼五郎一家の頭が、元大目付と接触したのを確認しています」

 淡々と、事実だけを告げる声。

 ――元大目付。

 その一言が、なぜか源助の耳に、小骨のように引っかかった。

「武家が動くのなら、当家も放置出来ませぬ」

 ――その瞬間。

 閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。

 前髪の影の奥で、瞳が、紅く光る。

 眠りの名残は、もうどこにもなかった。

「……武家?」

 紅い瞳を向けられても、藤色の着物の娘は、眉一つ動かさなかった。

「伊丹勝弼……」

 その名が、夜気の中に静かに落ちた。

「元大目付で、裏の組織と繋がりがあります。恐らく鬼五郎一家と協力して、雪乃様を襲うつもりかと」

 ――伊丹。

 家の陰で、源助の息が止まった。

 忘れようとして、忘れられるはずのない名だった。

 二十年前。伊丹家の屋敷に出入りしていた父は、そこで見てはならないものを見た。そして、それを町方に訴え出た。真っ正直な人だった。正しいことをすれば、お上はきっと分かってくださる。そう信じていた。

 それから、ひと月も経たぬうちのことだ。

 往来で伊丹の一行と行き会った父と母は、「無礼を働いた」として、その場で斬り捨てられた。幼い源助の、目の前で。

 地面に倒れた父と母。刀を拭いながら、何事もなかったように立ち去っていく侍たちの背中。訴えは握り潰され、すべては武士の無礼打ちとして片付けられた。誰一人、裁かれはしなかった。

「伊丹はかつて、己の悪事を告発した者を無礼打ちにした上に、権力で揉み消したこともある、卑劣な人間です」

 娘の淡々とした声が、源助の記憶を、そのまま言葉にしていた。

 組んでいた腕が、知らず解けていた。

 拳が、震えている。

 だが源助は、その拳を、ゆっくりと開いた。

 殺してやりたい、とは思わなかった。思えなかった。この二十年、仏の前で手を合わせ、親を失った子供たちを育ててきた。憎しみで人を斬れば、自分の親を斬った連中と何が違う。それだけは、ずっと自分に言い聞かせてきたことだった。

 ただ、胸の奥で、古い古い傷口が、もう一度静かに口を開けていた。

「相手が武家であるなら、斬り捨て御免では通用しませんよ」

 娘の声が、わずかに硬くなる。

 だが、濡れ縁の上の雪之丞は、膝の上に肘をつき、目を閉じたまま、小さく息をついただけだった。

「悪いけど、相手が誰とか興味ないわ」

 投げやりにも聞こえる声だった。

「誰であれ、斬るだけよ……」

 娘は、何も言わなかった。ただ、その紫の瞳が、ほんのわずかに曇った。

    ◇

 雪之丞が、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、迷いなく、源助の潜む家の陰へと顔を向けた。

「源助、そこにいるんでしょ?」

 源助の肩が、びくりと跳ねた。

 いつから。そう思いかけて、すぐに気づいた。最初からだ。あの日すれ違ってから、ずっと後をつけていたことも。物陰から、斬り合いを見ていたことも。こいつは、全部知っていた。

 源助は、観念して陰から歩み出た。

 娘の背後の闇で、いくつかの気配がわずかに動く。だが娘自身は、驚いた様子もなく、静かに源助を見ていた。こちらもまた、とうに気づいていたのだろう。

「悪いけど、この子を屋敷に送り届けて頂戴」

 雪之丞は、顎で娘を示した。

「老中の娘で、こんな所にいちゃいけないの」

 老中。

 今、その名を聞いて震え上がらぬ者は、江戸にいない。その娘が、護衛を連れて、夜更けにこの人斬りを探しに来た。

(こいつは……一体、何者なんだ……)

 問いが喉まで出かかった。だがそれより早く、雪之丞が源助の方へ向き直った。

 紅い瞳が、真っ直ぐに源助を射抜く。

「アンタが望むなら」

 静かな声だった。

「いつでも、相手をしてあげるから」

 源助は、言葉を失った。

 悪だと確信したら、刺し違えてでも止める。誰にも言わず、胸の奥にしまってきたはずのその覚悟まで、こいつは見抜いていたのだ。

 そしてその上で、いつでも受けて立つ、と言っている。

 怒るでも、責めるでもなく。まるで、それが当然のことであるかのように。

 雪之丞は、もう源助を見ていなかった。夜空を見上げている。満月の周りに、春の星が散っていた。

「その前に……」

 白い横顔が、月明かりに浮かぶ。

「やることが、できたわ」


八 朧月


 翌朝。

 北町奉行所の奥の一室で、雪之丞は再び遠山景元と向き合っていた。

 二人の間の畳には、古びた帳面が何冊も広げられている。奉行所の蔵の奥から、景元が夜明け前に自ら運び出させたものだった。黄ばんだ紙の上に、二十年分の届け出が、墨の色も褪せかけた文字で並んでいる。

 雪之丞は、その一行を、指先でそっとなぞった。

「間違い……ないのね」

「間違いございませぬ」

 景元は、重々しく頷いた。

「伊丹家による無礼打ちの届け出は、この二十年で七件。いずれも、斬られる少し前に、伊丹家の不正を訴え出ていた者たちにござります」

 そして、一度言葉を切ってから、続けた。

「斬られた者の中に、源助の両親もおりまする」

 俺の両親は、武家に殺されてな。

 あの夜、行灯の下で、源助が何でもないことのように口にした言葉。それを、雪之丞は忘れていなかった。

 雪之丞は、しばらく黙って帳面を見下ろしていた。

 その横顔からは、何の感情も読み取れなかった。

「当主を退いたとは言え……」

 ぽつりと、呟く。

「流石に、大身の旗本相手に無礼打ちは無理よね」

 景元の眉が、ぴくりと動いた。

 無理だ、と言っている。だがその声は、諦めた者の声ではなかった。

 では、どうするつもりなのか。それを問う勇気は、江戸の名奉行にも、すぐには出てこなかった。

 景元は、慎重に言葉を選んだ。

「下級の家来なら兎も角、当主の刃傷沙汰ともなれば、家臣達も黙ってはおりますまい」

 隠居とはいえ、数千石を食む大身旗本の先代である。それを斬れば、伊丹家の家臣すべてが敵に回る。いや、それだけでは済まない。直参の旗本が斬られたとなれば、幕府も、この件を見過ごすわけにはいかなくなる。

「まあ、私が罰を受ければ良いだけだから」

 雪之丞は、帳面に目を落としたまま、事もなげに言った。

「どうせなら、全員まとめて葬ってやるけれどね」

「それは、おやめ下され」

 景元の声が、わずかに強くなった。膝の上の拳が、きつく握られている。

「貴殿の御命は、あのような賤しき者とは釣り合いませぬ」

 雪之丞は、すぐには答えなかった。

 障子越しの朝の光が、畳の上に白く落ちている。その光の中で、伏せた睫毛が、かすかに揺れた。

「どうかしらね……」

 小さな声だった。

「これまで何人斬ったか、分からないし……」

 紅くない瞳が、どこも見ていなかった。

「結局のところ、私は生き延びただけで……何もできなかった……」

 生き延びただけ。

 守れなかったものがある。止められなかった人がいる。そのために磨いたはずの剣で、返り討ちにした者の数だけが、積み重なっていく。

 五年前のあの騒動から、ずっとその後ろ姿を見てきた景元には、その一言の重さが分かった。分かるからこそ、返す言葉が、すぐには見つからなかった。

「御身を、大切にしてくだされ」

 ようやく、それだけを絞り出す。

「某が必ず、何か手を考えまする……それまで、軽率な行動はお控えいただきますよう……」

 しばらくの沈黙の後、雪之丞は小さく頷いた。

「わかったわ……」

 そして、ふっと肩の力を抜く。

「少し、ここで休んでも良いかしら?」

「我が屋敷をお使いくだされ」

 景元は、即座に答えた。

「風呂も用意させます。ご無理はなさらぬよう……」

 十日もの間、まともに眠らず、返り血を浴び続けてきたのだ。せめて一日だけでも、体を休めてほしい。奉行としてではなく、ただそう願う者の声だった。

「ありがとう……」

 雪之丞は、立ち上がりながら、ほんのわずかに口元を緩めた。

「いつも、悪いわね……」

「……」

 景元は、何も言わずにその背中を見送った。

 閉じた襖を見つめたまま、景元は、深く息を吐いた。

「やれやれ……」

 口髭の端が、わずかに歪む。

「某も、腹を切る時が来たようだ……」

 膝の上で、拳が、ゆっくりと握り直される。

「死なせはしませぬぞ……」

    ◇

 その夜も、月は明るかった。

 少しだけ欠け始めた月が、寺の屋根の上に掛かっている。通りの両側では、盛りを過ぎかけた桜が、月明かりに白く枝を広げていた。風が渡るたびに、花びらが音もなく舞い落ちる。

 湯を使い、着物を改めた桜色の姿が、人気のない通りを歩いていた。腰には、一振りの刀。結い上げた黒髪が、夜風にわずかに揺れている。

 その足が、ふと止まった。

 通りの先、塀の影に、黒い壁が立ち塞がっていた。

 ――いや、壁ではない。人である。

 初めて会ったあの日と、同じように。

 黒い着物の大男が、腕を組んだまま、そこに立っていた。

「何処へ行くつもりだ?」

 源助だった。

 雪之丞は、驚いた様子もなく、その顔を見上げた。

「ただの散歩よ」

 源助は、動かなかった。通りの奥へと、ちらりと目をやる。

「この先は、伊丹勝弼の屋敷だな……」

「そうなの……?」

 雪之丞は、小さく首を傾げた。

「知らなかったわ……」

 しらじらしいにもほどがあった。屋敷の場所なら、今朝、奉行所で景元から聞いたばかりなのだ。

「あの老中の娘から、言われた……」

 源助は、組んだ腕を解かないまま言った。

 昨夜、娘を屋敷まで送り届けた帰り際。門の前で娘は振り返り、静かにそう告げたのだ。

「お前なら必ず、一人で斬りに向かうだろうとな」

 夜風が、二人の間を吹き抜けていった。

 源助は、組んだ腕を解かないまま、真っ直ぐに雪之丞を見下ろした。

「お前のことだ。奴が俺の親の敵だと、知っているんだろ?」

 雪之丞は、答えなかった。

 ただ、その目が、わずかに細められた。

「自分で殺すから、手を出すな……とでも言うのかしら?」

 冷ややかな声だった。親の敵を討つ機会を奪われた男が、それを取り返しに来た。そう受け取ったのだろう。

「いいや……」

 源助は、ゆっくりと首を横に振った。

「あの娘にも確認したが……お前は常に、自分の命を狙ったものだけを斬ってきた」

 昨夜、屋敷の門の前で、源助はそれを尋ねた。あいつが斬った者の中に、向こうから仕掛けてこなかった者は一人でもいたのか、と。

 娘の答えは、短かった。

 ――一人も、おりません。

「だが、今回は違う……」

 源助の声が、低くなる。

「先に仕掛けて奴を斬れば、それはお前にとっての一線を越える……」

 自分を殺しに来た者を斬る。それが、こいつが自分に許してきた、ただ一つの理屈だった。だが、屋敷の奥で息を潜めている隠居を、こちらから討ちに行くのは違う。それは、もう返り討ちではない。

「お前は最初から、何も揉み消す気もなかった……」

 この十日。江戸の真ん中で、あれだけ派手に斬り続けた。顔も隠さず、名も隠さず、桜色の着物で。

 揉み消すつもりなら、もっと上手くやれたはずだ。こいつには、それだけの頭も、後ろ盾もある。

「旗本を斬れば、流石のお前も咎めを受けるだろう……」

 源助は、一歩、前に出た。

「最初から、裁かれるのも覚悟の上で、派手に暴れていたんだろ」

 雪之丞の肩が、ほんのわずかに動いた。

「むしろ……それが目的か?」

 返事はなかった。

 雪之丞は、目を逸らしていた。月から、源助から、自分の足元からさえも。その横顔に、初めて会った日の、あの花のような笑みはなかった。紅い瞳の冷たさもなかった。ただ、何かを言い当てられた子供のように、唇を固く結んでいる。

 それが、答えだった。

 居酒屋で寝落ちる前に、「あの日までは」と言いかけた声。

 「今までも、これからも」と、平然と言ってのけた時の、あの泣き出しそうな顔。

 「私はもう、用無しでしょ」。昨夜、あの娘にそう言った、疲れ切った声。

 全部、繋がった。

 こいつは、死に場所を探していたのだ。

 悪党のために死ぬのではない。誰かを守るための、意味のある咎めを受けて、それで終わりにしたかった。源助の親の敵を斬って、その罪を背負って、裁かれる。それなら、少しは誰かの役に立って死ねる。

 ――ふざけるな。

 腹の底から、熱いものがせり上がってきた。

「お前の過去に、何があったのかは知らん」

 源助は、組んでいた腕を、ゆっくりと解いた。

「だが、俺から見れば……」

 何十人もの孤児を見てきた。親を斬られた子。捨てられた子。飢えて道端に転がっていた子。どの子も、最初は皆同じ目をしていた。自分なんて、どうなってもいい。そう言いたげな目を。

 今、目の前にいる剣士は、その目をしていた。

「お前は、ただのクソガキだ」

 大きな拳が、ぎゅっと握りしめられる。

 喧嘩で無敗だった拳。一度は、この相手に触れることすらできなかった拳。

 源助は、腰を落とし、構えた。

「お前は、俺が止める……」

 十日の間、ずっと答えが出なかった。あいつは悪党なのか。助けることが正しいのか、止めることが正しいのか。

 だが、今ならはっきりと分かる。

 悪党かどうかなど、関係なかった。

「自暴自棄の、哀れなクソガキは……」

 拳が、きしむほどに力を帯びる。

「俺が一発ぶん殴って、止めてやる」

    ◇

 雪之丞の目が、ゆっくりとこちらへ戻ってきた。

 前髪の影の奥で、瞳が、紅く光る。

「一度、私に手も足も出なかった奴が……」

 すらり、と鞘が鳴った。

 抜き放たれた刃が、月の光を一筋、細く弾く。

「何言っているのよ」

 刀を構えたその姿に、迷いは一つもなかった。だが、それは、十日間、何百という男たちを斬り伏せてきた、あの冷たい構えではなかった。すっと伸びた背筋。月の光を受けて、真っ直ぐに立つ刀身。夜桜の下で、その立ち姿は、ひどく凛として、美しかった。人を殺すための剣ではない。何があろうと、己の意志だけは貫き通す。そういう者の構えだった。

 その切っ先が、源助の喉元へと、真っ直ぐに向けられる。

「一撃で、葬ってあげるわ」

 春の夜気が、ぴんと張り詰めた。舞い落ちる花びらが一枚、二人の間で、止まったように見えた。

 刃が返されているのかどうか。月明かりの中では、源助の目にはそれすら見えなかった。

 だが、構わなかった。

 源助は、地を蹴った。

 巨体が、闇を割って一直線に突っ込んでいく。拳を振りかぶり、腹の底から、声を張り上げて。

「行くぞっ! 雪之丞!!」

 紅い瞳が、近づいてくる巨体を捉えていた。

 刀が、頭上に振り上げられる。左の掌が、弓を引くように前へと差し伸べられる。凛としたその立ち姿が、そのまま一張りの弓へと変わっていく。

「華月天心流……」

 もう一つの剣。

 命を奪うための剣ではない。間合いを測り、相手を見定め、ただ己の意志を通すための剣だった。

 刀が、頭上で一筋に寝かされる。両の手が、柄を握り直す。低く沈んだ身体が、弓のようにしなる。

「――朧月」

    ◇

 光が、走った。

 源助には、そうとしか見えなかった。

 月の光をそのまま押し固めたような、淡く白い弧が、闇を横一文字に裂く。宙を舞っていた花びらが、その弧に触れて、音もなく二つに割れた。その弧の先端が、突っ込んでくる巨体の脇腹へ、吸い込まれるように消えた。

 ――ドッ!!

 重い音が、身体の内側から響いた。

 大木槌で杭を打ち抜かれたような衝撃だった。息が、喉の奥で止まる。目の前が、一瞬、白く飛んだ。

 だが。

 ――メリ……メリ……。

 脇腹に食い込んだものが、肋を一本ずつ押し潰していく。その音を、源助は自分の骨で聞いていた。

 着物は、裂けていなかった。

 血も、一滴も流れていない。

 刃は、返されていた。

 一撃で葬ると言った。その言葉に、嘘はなかったのかもしれない。だが、刀を振り下ろすその一瞬に、雪之丞の手は、本人も知らぬうちに刃を返していた。

 そして、そのような迷いを抱えた一太刀は、何百人を斬ってきたあの剣より、ほんのわずかに、浅かった。

 いや。迷いは、もっと前から始まっていた。

 この十日、雪之丞が振るってきたのは、天殺夷心流だけだった。一人に一筋、必要なだけ深く。四方から、いかなる手で向かってこようと、そのことごとくを迎え撃ち、斬り伏せる剣。それを振るっていれば、たとえ刃を返していようと、この巨体でさえ、立ってはいられなかっただろう。

 だが、雪之丞は、その剣を選ばなかった。

 殺すためではなく、相手を見定めるための剣を。構えを取ったその瞬間に、もう心の奥では、答えは出ていたのだ。

「――っ!!」

 雪之丞の目が、大きく見開かれた。

 倒れない。

 脇腹に刀を食い込ませたまま、巨体が、そこに踏みとどまっていた。脂汗を流し、歯を食いしばりながら、それでも一歩も引かずに。

 雪之丞の一太刀を受けて、なお立っていた者など、これまで一人もいなかった。

「歯ァ!!」

 源助が、吐き出すように咆哮した。

 砕けた肋が、息をするたびに身体の内側を突き刺す。その痛みごと、大きな拳が振りかぶられる。

「食いしばれ!!」

 雪之丞は、動けなかった。

 後ろへ飛び退けば、たやすく躱せたはずだ。初めて会ったあの日のように。だが、足が、地面に縫いつけられたように動かない。

 雪之丞は、ぎゅっと目を閉じた。

 ――コツン……。

 頭のてっぺんに、何かが、小さく当たった。

 痛くはなかった。子供の悪戯を叱る親が、拳骨でそっと叩くような。そんな、拍子抜けするほど軽い一撃だった。

「……え?」

 雪之丞は、おそるおそる目を開いた。

 紅い光は、もう消えていた。そこにあるのは、何が起きたのか分からないという顔で、目を丸くした若者の瞳だけだった。

 初めて会ったあの日、刀の鞘尻で叩かれた頭。その仕返しにしては、あまりにも優しすぎた。

 源助は、叩いた拳をそのままに、脇腹を押さえて肩で息をしていた。それでも、その強面は、口元だけで笑っていた。

「悪い子には……」

 痛みに顔をしかめながら、それでも寺の子供たちに向けるのと同じ声で。

「お仕置きだ……」


九 愚痴


 夜風が、結い上げた黒髪を揺らしていく。枝を離れた花びらが、二人の肩に、ひとひら、またひとひらと降りかかった。

 雪之丞は、立ち尽くしていた。刃を返したままの刀を、右手にだらりと下げて。

 紅い瞳が、ゆらりと揺れた。

 そして、その縁から、ひとつ、またひとつと、滴がこぼれ落ちた。

 自分でも、なぜ泣いているのか分からない。唇を固く結んだまま、それでも涙だけが、頬を伝って止まらなかった。

「お前の負けだ、雪之丞……」

 源助の声は、穏やかだった。

 喧嘩には、負けていた。あばらを砕かれ、ただ立っているのがやっとだ。本気で刃を向けられていたら、今ここにいなかった。それは、源助自身が一番よく分かっていた。

 だが、こいつは刃を返した。

 殺せなかったのだ。自分を殺しに来た者は、誰であれ斬る。そう言い切った剣士が。

 それが分かっただけで、十分だった。

 源助は、ゆっくりと姿勢を正した。脇腹が悲鳴を上げたが、顔には出さなかった。

「何でも一人で、全部背負い込もうとするな……」

 雪之丞は、顔を伏せた。

 前髪が、その目元を隠す。だが、小さく震える肩だけは、隠しようがなかった。

「俺が、愚痴ぐらいは聞いてやる……」

 孤児の子供たちが、夜中に泣きながら起きてくるとき。源助はいつも、縁側に座って、その話を黙って聞いてきた。解けないものもある。取り返せないものもある。それでも。

「全部ぶちまければ、少しは軽くなるかもしれないぞ……」

 月は、いつの間にか雲に隠れていた。月明かりを失った闇の中で、夜桜だけが、ぼんやりと白く浮かんでいる。

 着物の裾を、一つ、また一つと、小さな雫が濡らしていく。

 刃を返したままの刀が、地面を指して、ただ静かに、月のない夜に沈んでいた。

    ◇

 その夜、寺にほど近い、あの居酒屋の小上がり。

 卓の上には、もう何本もの徳利が空になって転がっていた。

 源助の胸には、着物の下に幾重にも晒を巻いてある。息を吸うたびに脇腹が言いようのない悲鳴を上げたが、それでも盃を置くつもりはなかった。

 その向かいで、雪之丞が、頬をほんのりと染めて頬杖をついている。

 話は、長くかかった。

 何もかもを、雪之丞は話した。いつ、どこで、何があったのか。誰を失い、誰を追い、なぜここにいるのか。寺の縁側で子供たちの話を聞くように、源助はただ黙って、それを聞いていた。

 聞き終えた時、源助の酔いは、半分ほどどこかへ飛んでいた。

「お前……それ、マジで言ってんのか?」

「冗談でこんな事、言わないわよ」

 雪之丞は、笑った。重い荷を下ろした後のような、どこか軽やかな笑い方だった。

「ぜーんぶ、本当の昔話」

 源助は、しばらく黙って盃を見つめていた。それから、ふと大事なことに気づいたように顔を上げる。

「……お前を本気で殴っていたら、俺の首、飛んでいたろ……」

 今さらながら、背筋が冷えた。

 こいつがこれまで切り抜けてきたものを聞いた後では、あの夜の自分が、どれほど無謀な真似をしたのかがよく分かる。

「その前に、私が峰打ちしてなかったら」

 雪之丞は、盃を口元に運びながら、さらりと言った。

「あんたの胴体、真っ二つだけどね」

「あれが峰打ちとか、どんだけ破壊力あんだよ」

 源助は、頬杖をついて渋い顔をした。晒の下で、肋がずきりと疼く。

「肋骨数本折れたっつーの。俺じゃなければ即死だぞ、間違いなく」

「凄いでしょ?」

 雪之丞は、目を閉じて、どこか得意げに微笑んだ。

「幕府の刺客にだって、負けなかったんだから」

「……こんな事を話しちまって、良かったのか?」

 源助は、思わず声を潜めた。小上がりの外の喧騒に、耳をそばだてる。

「俺まで命狙われるんじゃないだろうな」

「大丈夫よ」

 雪之丞は、ひらひらと手を振った。

「大半の刺客はあたしが斬り捨てたし。そもそも黒幕は、もう殺されたしね」

 あたし。

 この十日、ずっと「私」だった。それがいつの間にか、初めて会った頃の呼び方に戻っている。そのことに、源助は気づいていたが、口には出さなかった。

「黒幕ってのは……」

 源助は、飲みかけた盃を止めた。

「先代の将軍になるのか? 病死だと聞いているが……」

「表向きにはね……」

 雪之丞は、頬杖をついたまま、目を細めた。

「色々あったのよ。今の上様とも、確執あったからね……」

「色々ってお前……!」

 源助の声が、裏返った。小上がりの外で、仲居がちらりとこちらを見た。

「それ、俺が聞いたらダメな奴だろ!」

「何をいまさら」

 雪之丞は、涼しい顔で盃を傾けた。

「愚痴を聞いてくれるって言ったの、アンタでしょ」

「俺はせいぜい、御目見旗本のお遊びだと思っていたんだよ……」

 どこぞの旗本の跡取りが、家を飛び出して暴れている。せいぜいその程度の愚痴だと、高を括っていた。それが、蓋を開けてみればこれだ。

 源助は、頭を抱えた。それから、観念したように、口の端で笑った。

「墓場までもってく真実だぞ、それ……」

    ◇

 しばらく、二人は黙って盃を重ねた。

 やがて、源助は卓に肘をつき、静かに口を開いた。

「しかし、今後どうしたものか」

 酔いの下から、少しだけ真面目な顔が覗く。

「組や伊丹の刺客は、お前を狙ってくる。雑魚をいくら斬り捨てたとしても、無尽蔵に湧いてくるぞ」

 もう、一人で斬りに行かせるつもりはない。かといって、このまま狙われ続けるのを黙って見ているわけにもいかない。

「金ちゃんが、何か手を考えてくれるって言ってたから」

 雪之丞は、とろんとした目で笑った。

「任せようかな」

「……金ちゃん?」

「いつもお酒奢ってくれる、あたしのお財布の」

 ことん、と雪之丞の頭が卓に落ちた。組んだ腕の上に頬を載せ、幸せそうに目を細める。

「遠山の金ちゃん」

 源助の動きが、止まった。

 遠山。

 この江戸で、その名を持ち、しかも「金さん」と呼ばれる男を、源助は一人しか知らない。

「金ちゃんって……まさか、遠山奉行じゃないだろうな……」

 返事はなかった。

 ――スー、スー……。

 卓に突っ伏した雪之丞は、もう寝息を立てていた。

 紅く染まった頬。緩んだ口元。初めてこの居酒屋で寝落ちたあの夜とは、もう違う寝顔だった。睫毛は震えていない。何かに怯えるような影も、もうない。

 子供のような、安らかな寝顔だった。

 源助は、壁に背を預け、その寝顔を眺めた。

 肋は痛む。将軍家の秘密まで背負い込んだ。おまけに、この後の勘定も、どうせ自分持ちになるのだろう。

 それでも、強面の口元が、ゆっくりと緩んでいった。

    ◇

 同じ頃。

 江戸の外れの、とある屋敷の庭に、異様な数の男たちが集められていた。

 着流しのやくざではない。揃いの紋付きに身を包んだ、武家の男たちだった。その腰には、いずれも二振りの刀が差されている。その言葉を待つ顔に、やくざたちのような荒々しさはない。ただ、命じられたことを、命じられた通りにやる者たちの、冷たい静けさがあった。

 伊丹勝弼の、私兵である。

 その前に立った一人の男が、低く、よく通る声で告げた。

「雪之丞が、ある寺の茶室に潜伏しているという情報を得た」

 男たちの間に、緊張が走る。

「ここに集結した百五十名の兵で」

 幾つもの手が、刀の柄にかかった。

「今日こそ、雪之丞の首を獲る!」


十 上意


 江戸の外れ、木立に囲まれた古寺の境内を、紋付きの男たちが埋め尽くしていた。

 山門にも、裏の木戸にも、塀の切れ目にも。人の壁が、何重にも立ちはだかっている。

「出口を全て塞げ。敵は一人だ、絶対に逃すな」

 頭分らしい男の低い声に、男たちが無言で散っていく。その動きには、この十日、雪之丞に挑んでは散っていったやくざたちのような、浮ついたところがない。

「今日は伊丹様の精鋭もいる! 必ず勝てる!」

 誰かが、自分に言い聞かせるように叫んだ。

 境内の奥、竹藪に囲まれた一隅に、小さな茶室がある。障子は閉ざされ、内側からは何の物音もしない。

 頭分の男は、その前に仁王立ちになり、腹の底から声を張り上げた。

「雪之丞! いるのは分かっている!」

 竹の葉が、風にそよいだ。

「潔く出てこい!」

    ◇

 しばしの沈黙の後。

 茶室の障子が、音もなく開いた。

 現れたのは、桜色の着物だった。

 腰に刀は差している。だが、その手は柄にも触れていない。百五十もの刀を前にして、ただ静かに、どこか退屈そうな顔で、男たちを見回している。

 頭分の男は、口の端を歪めた。

「逃げずに出てくるとは、度胸だけは褒めて……」

 その言葉は、最後まで続かなかった。

「何事であるか。騒々しい……」

 雪之丞の背後、茶室の奥から、もう一人の男が、ゆったりと姿を現したのだ。

 紺の紋付きに、整えられた口髭。胸元には、白い房が下がっている。居並ぶ男たちを前にしても、その立ち姿には一分の動揺もなかった。

 頭分の男は、眉をひそめた。どこかで見たような顔だ。だが、すぐには思い出せない。

「何だお前は……」

 腕を組んだまま、尊大に言い放つ。

「我々は雪之丞に用がある。邪魔者は帰られよ」

 ――ス……。

 その時だった。

 雪之丞が、音もなく腰を落とした。竹藪の前、縁先の土に、整った動作で、片膝をつく。親しい者の前で寛ぐような自然さで、しかしそれでいて、一分の隙もない。

 刀を抜くための構えではなかった。

 それは、誰かの前で礼を尽くす、そのための姿勢だった。

 口髭の男の声が、境内に響き渡った。

「黙れ! 無礼者どもが」

 その一喝に、男たちの何人かが、思わず身をすくめた。

「ここが誰の御前か、弁えよ」

    ◇

 茶室の奥で、衝立が静かに引かれた。

 もう一人、男が座していた。

 その顔は、庇の影に隠れてよく見えない。だが、身に纏った白い羽織の紋付きには、金糸の房が揺れ、その胸元には、金色の紋が、まばゆい光を放っていた。

 三つの葉が、円の中で向かい合う、その形。

「余は久々に、雪之丞と茶を楽しんでおったのだが……」

 穏やかで、それでいて、よく通る声だった。竹のそよぎも、男たちの息遣いも、その声の前では、一瞬で消えたように感じられた。

「随分と、無粋な者がおるようじゃ……」

 頭分の男は、何が起きているのか分からずに、ただ立ち尽くしていた。

 紋は、目に入っている。入っているはずなのに、頭がそれを認めようとしない。こんなところに、こんな方がいるはずがない。

 口髭の男は、男たちをゆっくりと見回した。

「武装しておるようですな」

 百五十の刀。山門も裏木戸も塞がれた境内。その全てが、茶室に向けられている。

「これは、謀反であるか」

 謀反。

 その一語が、男たちの間を、冷たい風のように吹き抜けた。

「いったい……何の話をしているのだ……」

 頭分の男の声が、わずかに上ずった。

 口髭の男――北町奉行、遠山景元は、その男を正面から見据えた。

「上様の御前である」

 境内が、水を打ったように静まり返った。

 そして次の瞬間、景元の大喝が、雷のように落ちた。

「頭が高い!!」

 竹藪が、ざわりと鳴った。

「控えおろう!!」

「なっ……!!」

 男たちの顔から、一斉に血の気が引いていった。

 雪之丞がこの寺の茶室に潜伏している。

 その情報を、一体誰が、何のために流したのか。それを考える余裕は、もう、ここにいる誰にも残されていなかった。

 茶室の奥で、白い羽織の人が、頬杖をついたまま小さく息をついた。

「やれやれ、景元……謀反とは、困ったものだな」

 困っているようには、少しも聞こえない声だった。

 その目が、縁先で片膝をつく桜色の着物へと向けられる。

「雪之丞よ。余はまた、お前に助けてもらわねばならぬようだ……」

 白い羽織の人は、姿勢を正した。それだけで、境内の空気が、また一段と張り詰めた。

「長瀬雪之丞」

 雪之丞が、深く頭を下げる。

「是、余の上意なり。賊徒どもを、成敗いたせ」

 上意。

 将軍自らの、命。

「余と其方の命を狙う者あらば、身分の上下にかかわらず、常に斬り捨てる事を、余が赦す」

 男たちの間に、声にならないどよめきが走った。

 その人は、そこで少しだけ、声を落とした。縁先の雪之丞にだけ届くほどの、小さな声で。

「余には、これ位の事しかしてやれぬが……」

 庇の影から、その顔が、ようやく光の中へと現れた。

 大きな権力を背負う者とは思えないほど、穏やかな顔だった。その目元が、実の妹でも見るように、柔らかく緩んでいる。

「良いか、雪乃……」

 その名は、竹のそよぎに紛れて、他の誰の耳にも届かなかった。

「さあ、好きなように暴れておいで」

 雪之丞は、伏せていた顔を上げた。

 そこにあったのは、十日間のどの夜にも見せなかった、穏やかな笑みだった。

「勿体なきお言葉でございます、家慶様」

 そして、ゆっくりと立ち上がる。腰の刀に、白い指が触れる。

「この雪之丞にお任せを」

 すらり、と鞘が鳴った。

「私の刀の錆にしてみせましょう!」

    ◇

「ま……待て……!」

 頭分の男が、裏返った声で叫んだ。

「俺たちの狙いは、雪之丞で……!」

 将軍に刃を向けるつもりなど、あるはずもない。だが、百五十の刀でこの茶室を取り囲んだという事実は、もうどうやっても消せない。

「残念!」

 桜色の袖が、ひらりと舞った。

「あたし狙った悪党は、斬り捨て御免よ!」

 その声は、初めて源助に喧嘩を売ったあの日と同じ、弾むような響きをしていた。

「謀反だなんて、冗談じゃねぇ……!」

 紋付きの男の一人が、刀の柄を握ったまま踵を返した。

「俺は降りるぞ!」

 山門へと駆け出したその足が、ふいに止まった。

 山門の下に、黒い壁が立ち塞がっていた。

 ――いや、壁ではない。人である。

 着物の下には、まだ晒が幾重にも巻かれているはずだった。だが、その巨体は、痛みなどどこ吹く風という顔で、拳をごきりと鳴らしていた。

「おうおう。逃がすと思ってんのか、てめぇら」

 源助だった。

 境内の奥と、山門と。桜色の着物と、黒い着物と。百五十の男たちを挟んで、二人の視線が、一瞬だけ交わった。

 源助が、両の拳を構える。

 雪之丞が、刀を肩に担ぐ。

 そして、二人の声が、境内に重なった。

「さあ、祭りだ!」

    ◇

 そこから先のことを、後に寺の小僧は、「大風が吹き抜けていったようだった」と語った。

 山門の方からは、男たちが米俵のように宙を舞い、境内の方からは、風の鳴る音がするたびに、誰かが膝を折って崩れ落ちた。百五十の男たちが、山門と茶室の間で、挟み撃ちにされていく。

 誰一人として、逃げられなかった。

 そして、誰一人として、血を流しはしなかった。

 茶室の縁先で、景元はその光景を、口髭の奥で小さく笑いながら見守っていた。

 ――某が必ず、何か手を考えまする。

 あの朝の約束を果たすために、景元はその日のうちに登城した。そして上様の前に手をつき、額を畳にこすりつけて、ただ一つを願ったのだ。

 ――雪乃様のために、どうか。

 後は簡単だった。「雪之丞はある寺の茶室にいる」。その一言を、しかるべき筋にそっと流してやればよい。伊丹の私兵が、自ら「謀反人」になりに来てくれるのを、ただ待つだけでよかった。

 家慶は、その景元の横顔を、何も言わずに面白そうに眺めていた。

    ◇

 すべてが片付いた境内に、穏やかな昼の光が差していた。

 縛り上げられた男たちが、奉行所の役人たちに引き立てられていく。その横を、源助と雪之丞は並んで歩いていた。

「折角、斬り捨て御免の許可を貰ったってのに」

 源助は、脇腹をさすりながら首をひねった。

「何故、峰打ちにしたんだ?」

「あいつら、謀反扱いだから」

 雪之丞は、空を見上げたまま答えた。

「斬らなくても、全員打ち首確定でしょ……」

 それから、少しだけ照れたように、目を逸らす。

「それに、家慶様って優しいのよ。あの人の前に大量の生首を転がすのは、気が引けてね」

「確かに」

 源助は、大きく頷いた。

 理由は、それだけではないのだろう。だが、それを口に出して確かめる必要も、もうなかった。斬ってもよいと許されたその日に、こいつは、一人も斬らなかったのだから。

「それより」

 雪之丞が、くるりと源助を振り返った。

「今度こそ伊丹の屋敷に乗り込むけれど、あんたも来るでしょ?」

「勿論だ」

 源助は、拳を握りしめた。

「今回の件で、切腹の沙汰が出ちまったらおしまいだ。その前に、この俺が一発ぶん殴ってやる」

 殺すのではない。裁きは、お上がする。ただ、二十年分の一発だけは、この拳で届けてやる。それが、源助の出した答えだった。

「どうせ単なる腹いせだから、とりあえず全員ボコボコにするわよ」

 雪之丞は、楽しそうに指を折った。

「その後は、残ったやくざの頭を全員ボコって、賞金を頂くわ」

「はいはい。お付き合いしますよ、お姫……」

 言いかけて、源助は、にやりと笑った。

「じゃなくて……」

 厳つい顔いっぱいの笑顔で、わざとらしく言い直す。

「若様!!」

「若様ぁ!?」

 雪之丞の声が、裏返った。

「お嬢ちゃんでいいでしょ!!」

「男色なら若様だろ。それとも何だ、旦那とか?」

「だ……旦那……」

「お……まんざらでもなさそうだな」

「違ーーーうっ! 嬢ちゃんと呼べ!」

 春の青空の下、古寺の参道に、賑やかな声がいつまでも響いていた。

 天保十二年、春。

 江戸の町に、桜色の着物の剣士がいた。

 その名を、雪之丞という。


(登場編 終)


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