快傑雪之丞 第一話 清姫編
一 島津の姫
――はっ、はっ、はっ。
自分の息の音が、やけにうるさい。
紅の着物の裾を片手でたくし上げ、娘は路地を駆けていた。背に流した長い黒髪が乱れ、汗ばんだ頬に張りついている。履き慣れない草履が、乾いた土の上で何度も滑りそうになる。
背後から、足音が迫っていた。
――ザッ、ザッ。
一人や二人ではない。袖を結んだ黒い着物の男たちが、弓を引くような足取りで、一歩ごとに距離を詰めてくる。
島津家の姫。
本来なら大勢の供に守られ、駕籠で行き来するはずのその人が、今、供回りも駕籠も失って、ただ一人逃げていた。
いや。一人ではなかった。
「ここは、我々が!!」
姫の両脇を、二つの影が駆け抜けた。紋付きの紺の着物。島津家の若い侍が二人、姫を背に庇うようにして、路地の真ん中で踵を返す。
「姫は、お逃げ下さい!!」
二振りの刀が、同時に抜き放たれた。
追ってきた男たちの先頭、髭面の大柄な男が、足を止めもせずに鼻で笑った。
「雑魚は、斬り捨てろ」
その一言に、若い侍の頬が、かっと朱に染まった。
「島津の武士を、舐めるな!!」
――ギィインッ!
刀と刀が、十文字に噛み合う。火花が散った。
「邪魔だ!」
「ここは、通さぬ!」
刃と刃を押し合う二人の肩越しに、紅の着物が、路地の奥へと小さく遠ざかっていく。
若い侍は、歯を食いしばって踏みとどまった。それでいい。少しでも遠くへ。少しでも、姫が逃げる時を稼げれば。
◇
路地の角を曲がったところで、姫の足が止まった。
前にも、いた。
同じ黒い着物の男たちが、通りを塞ぐように、無言で立ち並んでいる。その後ろにも、まだ何人か。初めから、こちらへ追い込むつもりだったのだ。
――!
姫は、息を呑んだ。だが、後ずさりはしなかった。
頭の片隅で、冷えた声がした。
これだけの数の刺客を雇える者。しかも今日、この刻限に、自分がこの道を通ることを知っていた者。外の敵に、そこまでは分からない。
――身内か。
強いてその想像を押し潰し、姫は前を見据えた。誰の仕業かなど、生きて帰ってから考えればいい。
先頭の男が、静かに刀の柄に手をかける。その紋付きの胸には、小さな家紋が白く染め抜かれていた。身なりこそ整えているが、その紋はどこの家のものでもない。仕える主を持たず、金で刀を売る者たち。それも、こういう仕事に慣れた者たちの、余計なものを一切持たない目をしていた。
「恨みは、ありませぬが」
丁寧ですらある口調だった。
すらりと抜かれた刃が、夏の青空へと真っ直ぐに振り上げられる。
「ご覚悟!」
姫は、動かなかった。
悲鳴も上げない。目も閉じない。ただ、身を低くし、眉間に深い皺を刻んで、振り上げられた刃を、そしてその向こうの男の顔を、まっすぐに睨みつけていた。
こんなところで、死んでたまるものか。
その褐色の瞳は、そう言っていた。
――ザシュッ!!
刃は、振り下ろされなかった。
頬に、何か温かいものが、ぱたりと跳ねた。
姫は、瞬きもしなかった。眉間に深い皺を刻んだまま、目の前で起きたことを、ただ見据えていた。鼻筋を伝って落ちていくそれが、自分の血ではないことだけは分かった。
「うぉぉぉ……」
刀を振りかぶっていた男が、呻き声を上げて膝を折る。振り上げていたはずの両の腕から、赤いものがだらだらと袖を濡らしていた。刀は、もう男の手にはない。
そして。
姫と男の間に、いつの間にか、桜色の背中が立っていた。
淡い紅の地に、花びらを散らした小袖。緋色の帯。高く結い上げた黒髪が、夏の風に揺れている。右手に下げた抜き身の刀から、細い雫が一つ、地面に落ちた。
「街中で刀を振り回したら」
呆れたような、のんびりとした声だった。
「危ないじゃない?」
◇
路地に、ざわりと動揺が走った。
刺客たちの足が止まる。後ろで若侍たちと斬り結んでいた者たちまで、思わず手を止めてこちらを振り返っていた。
桜色の着物は、そんな視線などまるで気にも留めず、ぐるりと男たちを見回した。そして、花がほころぶように微笑む。
「あたしも、混ぜて貰えないかしら?」
刀の峰で、とん、と自分の肩を叩く。
「丁度、退屈しのぎに悪党斬り捨てたいと思っていたのよね」
刺客たちの中で、髭面の大柄な男が、目を細めた。
桜色の着物。腰の刀。高く結った黒髪。
この江戸で、その姿を知らぬ町人はいない。瓦版が毎日のように書き立て、娘たちが黄色い声で噂し、ごろつきどもが青い顔で道を譲る、あの姿だ。
男の隣にいた浪人が、ごくりと唾を呑んだ。
「頭……奴は……」
声が、かすれていた。
「雪之丞です」
――血の一月。
ほんの数か月前、江戸中の一家が束になってかかり、ことごとく斬り伏せられた、あの春の話を知らぬ者も、この裏稼業にはいない。
髭面の男の判断は、早かった。
「撤収だ!!」
その一声で、黒い着物の男たちが一斉に踵を返した。腕を斬られた仲間を両脇から抱え上げ、路地の奥へ、塀の向こうへと、蜘蛛の子を散らすように消えていく。
金で動く者は、命までは懸けない。それが、この稼業の掟だった。
あっという間に、路地には静けさが戻った。
「あら」
桜色の着物が、拍子抜けしたように首を傾げる。
「つまらないわね」
◇
刀を軽く払い、鞘に納める。それからようやく、くるりと振り返った。
「怪我はなかったかしら?」
姫は、答えなかった。
ふう、と一つ、長い息を吐く。頬についた血を、袖口で静かに拭った。それだけだった。礼を言うでもなく、取り乱すでもなく。たった今、目の前で人が斬られたことなど、何でもないことのように。
――と。
桜色の着物は、その姫の横を、するりと素通りした。
向かった先は、ようやく駆けつけてきた島津家の若侍の一人だった。斬り合いで乱れた髪。汗の浮いた額。まだ二十にもならないであろう、凛々しい顔立ち。
雪之丞は、その目の前に立つと、うっとりと目を細め、そっと手を差し伸べた。
「そこの可愛い……」
語尾が、とろけるように甘くなる。
「お兄さん♥」
「は……?」
若侍の顔が、引きつった。
刀を握ったまま、半歩、後ずさる。命の恩人に手を差し伸べられているはずなのに、その目は、さっき刺客に囲まれた時よりも、よほど怯えていた。
姫は、腕を組んだまま、その光景を冷ややかに眺めていた。
――何なの、この女。
刺客の両腕を一瞬で斬っておいて、助けた姫には目もくれず、供の若侍に色目を使う。強いのか、頭がおかしいのか。たぶん両方だろう、と姫は思った。どこぞの武家の娘が、剣術かぶれで町をうろついているのか。その程度にしか、考えていなかった。
「誰か知らないけれど」
姫は、つんと顎を上げた。
「礼を言うわ」
「困ったイケメンに、手を貸しただけ」
桜色の着物は、若侍から目を離しもせずに、ひらひらと手を振った。
「礼なら、いらないわ」
困っていたのは自分の方だ、とは、姫は言わなかった。言う気にもなれなかった。
二人の若侍が、急いで姫の前に進み出て、深々と頭を下げる。
「姫、ご無事で何よりでございます」
「我々の力不足で、申し訳ございませぬ」
姫は、二人を見下ろした。どちらの着物も、ところどころ裂け、腕には浅い傷が走っている。たった二人で、あの数を食い止めようとしたのだ。
「いいえ」
声は、少しだけ柔らかかった。
「よく、やってくれたわ」
それから姫は、若侍たちの肩越しに、路地の奥を見やった。刺客たちが消えていった方角だ。
「まさか白昼堂々、仕掛けてくるとは。油断していたわ……」
小さく、舌打ちするように呟く。それから、ようやく桜色の着物の方へと向き直った。
「あの数を二人では、流石に手に余る。正直、助かったわ……」
「でしょう?」
桜色の着物は、得意げに胸を張った。
「そこの二人で心もとないなら、屋敷まで護衛してあげてもいいわよ。これでもあたしは、そこそこ強いのよ」
◇
「――姫」
若侍の一人が、小声で姫に耳打ちした。
さっき「可愛いお兄さん」と手を差し伸べられた、あの若侍だ。名を、平十郎という。島津家の家臣としては、いささか顔立ちが整いすぎている男である。
「某、あの者を存じております」
「へえ?」
「名を長瀬雪之丞。江戸一の剣豪でございます」
平十郎は、やけにすらすらと続けた。
「剣法は不明。なれど剣を抜けば無敗。江戸中の一家を相手取り、たった一人でことごとく打ち破ったと。住まいは不定、酒好きで、甲斐性も無いとか……」
もう一人の若侍、忠光が、ちらりと平十郎の横顔を見た。生真面目を絵に描いたような男だ。なぜお前がそんなに詳しいのだ、と、その目が言っていたが、口には出さなかった。
姫は、「ふうん……」と鼻を鳴らし、雪之丞を、頭の先から足の先まで眺め回した。
細い肩。細い腰。白い首筋。どこをどう見ても、剣豪という言葉からは程遠い。
「刺客の腕を斬ったあの一撃は、見事だったけれど」
小さく首を傾げる。
「こんなにか細い、ただの女が江戸一の剣豪とは、にわかには信じがたいわね」
「いえ……」
平十郎が、なぜか目を逸らしながら口を挟んだ。
「女では、ございませぬ……」
「……ん?」
姫の動きが、止まった。
――と。
いつの間にか、雪之丞が平十郎のすぐ真横に立っていた。笑顔だった。先ほどと寸分違わぬ、花がほころぶような笑顔だった。
ただ、その声だけが、底冷えするほど低かった。
「余計な事言うと、殺すぞ坊主」
「姫に、偽りは言えませぬ」
平十郎は、額に脂汗を浮かべながら、それでも引かなかった。島津の武士としての意地なのか、単に嘘がつけない性分なのか。そのどちらなのかは、本人にも分かっていなさそうだった。
姫の頭の中で、ばらばらだったものが、ようやく一つに繋がった。
馬鹿みたいに強い。女ではない。そして、助けた姫を放っておいて、若い男に色目を使う。
――あ。
こいつ、男色だ。
江戸中の娘たちが黄色い声を上げ、瓦版が毎日のように書き立てている剣士だということを、この姫は知らない。幕閣の誰が誰と結んだの、どこの藩の借財がいくらになったの、そういう話なら、江戸の誰よりも早く耳に入れている。だが町の噂など、島津の金にも島津の明日にも関わりがない。そんなものに割く暇は、一刻たりともなかったのだ。
だからこれは、ただ目の前のことだけを繋げた、姫自身の結論だった。
姫は、しばらく二人のやり取りを眺めていた。それから、腕を組み、事もなげに言い放った。
「男でも女でも、どっちでもいいわよ」
雪之丞が、きょとんと振り返る。
「アンタが強くて綺麗なのは、何も変わらないでしょ」
一瞬の間があった。
それから、雪之丞は、ぱぁっと顔を輝かせた。
「ちょっと、姫様良いこと言ってくれたから」
うんうんと頷きながら、腰の刀に手をかける。
「さっきの連中、全員斬り殺してきてあげる」
「よしなさい」
姫は、眉一つ動かさずに制した。
「私を狙った連中は、金で雇われただけの小悪党よ。あいつら何人斬ったところで、何も変わりはしないわ」
雇った者がいる限り、斬れば斬っただけ、また新しい刀が買われてくるだけだ。金の流れを読むことにかけては、この姫は誰よりもよく分かっていた。
「ま、そうでしょうね」
雪之丞は、あっさりと刀から手を離した。そして、ふっと目を細める。さっきまでのふざけた空気が、すっと引いた。
「あんた、その美貌なのに、あいつらは問答無用で殺そうとした」
攫う気も、嬲る気もない。ただ殺せと、そう命じられていた者たちの動きだった。
「それにあんた、殺されかけたのも初めてじゃないでしょ? 死にかけたってのに、堂々とし過ぎなのよ」
頬の返り血を、何でもないように袖で拭ったあの仕草。悲鳴一つ上げず、振り上げられた刃を睨み返していたあの目。一度や二度の修羅場で、身につくものではない。
「その胆力から見ても、大名家のお姫様でしょ?」
にっこりと、探るような笑み。
「大方、何処ぞの藩のお家騒動ってところかしら?」
忠光の手が、思わず刀の柄に伸びかけた。
だが、姫は、ゆっくりと目を閉じただけだった。しばしの沈黙の後、腕を組んだまま、胸を張る。
「そうよ」
路地に、凛とした声が響いた。
「私の名は清。薩摩藩藩主、島津斉興の娘よ」
島津の清姫。花の江戸で、「三大美人」の一人に数えられる、その人だった。
「姫、失礼ながら……」
忠光が、血相を変えて口を挟んだ。
「このような者に名乗るのは……」
「問題ないわよ」
清姫は、忠光の方を見もせずに答えた。
「こいつは最初から、私が誰なのか知っていて助けたのよ」
大名家の姫、と言い当てただけではない。二人の若侍の紋付きを、この剣士は最初に一瞥しただけで、もう一度も確かめようとはしていない。丸に十字の紋の意味を、とうに分かっているのだ。
それに。
「恐らく、かなりの名家の人間ね。節々に、その雰囲気を感じるのよ」
刀を納める手つき。立ち姿の重心。ふざけた口を利きながら、一度も崩れない背筋。幼い頃から茶や花や作法を叩き込まれてきた清姫には、その一つ一つが、座敷の奥で育った者のそれだと分かるのだ。
「……あれが、ですか?」
忠光が、何とも言えない顔で雪之丞を見た。
清姫も、同じ顔でそちらを見た。
「あれが……なのよ」
「マジで斬るぞコラ……」
◇
「それより」
清姫は、何事もなかったように話を戻した。
「私は、江戸屋敷には戻らないわ」
若侍たちが、息を呑んだ。
「敵は身内なのよ。屋敷に戻れば、毒殺されかねないからね……」
自分が今日、この刻限にこの道を通ると知っていた者。それが誰なのかは、まだ分からない。だが、屋敷の中にいることだけは確かだった。であれば、膳に上がる椀一つ、信用できない。
「知り合いの旗本を、頼るとするわ」
「なら、あたしが丁度良い人を紹介してあげる」
雪之丞が、ひょいと話に割り込んだ。
「付いてきなさいな」
「お前の様な者に、わが姫様が付いていくわけが……」
忠光が言い終えるより早く、清姫が口を開いていた。
「いいわ。紹介して頂戴」
「姫!?」
「私の伝手だと、敵にも予測できるけど」
清姫は、涼しい顔で続けた。
「あなたの紹介なら、奴らも予想できないでしょ」
幕閣にも、旗本にも、伝手は山ほどある。だが、その伝手のどれもこれも、屋敷の者なら調べがつく。町で拾った男色の剣士の、そのもう一つ先。そこまでは、さすがに誰の読みも届かない。
「姫……お戯れを……」
「大丈夫よ」
清姫は、ふっと口の端を上げた。その日初めて見せた、笑みらしきものだった。
「味方に裏切られて殺されるよりも、男色に騙された方が華があるってものよ」
「悪いようにはしないわよ」
雪之丞が、清姫の肩に、なれなれしく手を置いた。そして、そっと耳元で囁く。
「その代わり、全て上手くいった暁には、薩摩藩の美男子を何人か紹介して頂戴」
清姫は、眉一つ動かさなかった。むしろ、その口元が、もう少しだけ緩んだ。
客が欲しいものを、ただではない値で売る。それは、この姫が日頃から幕閣相手にやっていることと、何も変わらない。
「承知したわ」
いかにも商い上手な笑みで、清姫は頷いた。
「薩摩の美男子を百人集めて、選ばせてあげるわよ」
雪之丞が、にかっと歯を見せて、親指を立ててみせる。
「契約成立ね」
忠光が、天を仰いだ。
二 水野屋敷
雪之丞に連れられて、半刻ほど歩いただろうか。
町家の並ぶ通りを抜け、武家屋敷の塀が続く一角に入る。屋敷の構えは、進むほどに大きくなっていった。そして、その中でもひときわ重厚な門の前で、雪之丞はようやく足を止めた。
「着いたわよ」
清姫は、その門を見上げた。
黒塗りの大きな扉。片側に掛けられた、古びた木札。そこに墨で書かれた、たった二文字。
「こ……ここが?」
島津家の姫の声が、生まれて初めて上ずったかもしれなかった。
「おいおい……ちょっと待て……」
平十郎が、木札を凝視したまま固まっていた。
「み……水野って……」
この江戸で、水野の名の付く屋敷は一つではない。だが、この構えで、この場所で、この門となれば、答えは一つしかなかった。
「筆頭老中、水野忠邦様の屋敷じゃないか!」
天保の改革を推し進め、幕府の実権をその手に握る男。大名ですら、その名を聞けば背筋を正す。
「あたしの古い知り合いだから、大丈夫よ」
雪之丞は、水でも飲みに来たような顔で、さらりと言った。
「そういう問題じゃねぇ……」
平十郎の口から、島津家中の家臣らしからぬ言葉がこぼれた。
清姫は、腕を組んだ。その眉間に、深い皺が刻まれている。
「私はね、兄の島津斉彬の派閥なのよ」
島津家は今、二つに割れている。嫡男の斉彬を推す者たちと、それを快く思わない者たちとに。そして、江戸での政の風向きは、そのどちらにも大きく影を落とす。
「水野様は、反斉彬側。お家騒動なんて知れたら、兄の立場が危ういのよ」
よりによって、この屋敷なのだ。島津の姫が身内に命を狙われ、屋敷にも戻れずに逃げ込んだ――そんな話を、よりによってこの男に握られたら。
だが、雪之丞は、それを聞いても少しも動じなかった。むしろ、ようやく話が通じたとでも言いたげに、にんまりと口の端を上げた。
「だから、貴方たちをここに連れてきたのよ」
敵の屋敷に、味方は探しに来ない。島津の内に潜む者がいくら頭をひねっても、姫が自ら反斉彬派の首魁の懐に飛び込んだなどとは、思いもよらないだろう。
もっとも、それは、懐の主が姫を握り潰さなければの話だ。
「……やはり、貴様……」
忠光が、柄に手をかけたまま低く唸った。姫を敵に売り渡すつもりではないか。その目は、そう言っていた。
雪之丞は、その視線を浴びながら、不敵な笑みを浮かべて、夏の空を見上げた。
「イケメンの為なら、地獄の閻魔も飼いならすだけよ」
そして、ちらりと平十郎に流し目をくれる。平十郎の背筋が、びくりと伸びた。
「任せておきなさい。あのオッサンの事は、良く知っているのよ」
筆頭老中を、オッサン。
忠光は、もう何も言う気になれなかった。
◇
それから先のことは、二人の若侍には悪い夢のようにしか思えなかった。
雪之丞は、門番に「忠邦に会いに来たわ」とだけ告げた。筆頭老中を、呼び捨てで。
門番は顔色を変えて奥へと駆け込んだ。そして戻ってきた時には、一行は丁重に中へと招き入れられていた。刀を預けろとも、名乗れとも、誰一人言わなかった。
清姫と二人の若侍は、屋敷の奥まった一室に通された。雪之丞だけが、さらにその奥へと消えていった。
しんと静まり返った座敷で、清姫は背筋を伸ばし、目を閉じて座っていた。その後ろに、平十郎と忠光が、刀の在りかを確かめるように立ち尽くしている。
「まさか……本当に通されるとは……」
忠光が、唾を飲み込むように呟いた。
「肝が冷えましたよ……」
平十郎の額には、まだ汗が浮いていた。
「あいつは、いったい何なんだ……」
忠光は、もう一度、本人が消えていった襖の方を睨んだ。
「老中の家臣にまであの態度。更に、帯刀したままだぞ。あり得ない」
筆頭老中の屋敷に、刀を差したまま上がり込む。それが許される者など、御三家でもそうはいない。それを、町で拾った男色の剣士が、何でもない顔でやってのけたのだ。
清姫は、目を閉じたまま口を開いた。
「平十郎。お前は、アイツの事を知っているのよね? 話しなさい」
「はっ。……噂だけですが」
平十郎は、顎に手を当て、記憶を辿るように続けた。
「数か月前に、江戸にフラっと現れたようで。用心棒とか、悪党退治をしているようです」
たった数か月で、噂というものはここまで膨らむらしい。
「江戸の悪党の半分は、雪之丞が始末したとか……」
指を一本ずつ、折っていく。
「金がないから、熊を斬って食ったとか……」
「……熊」
「紀伊徳川の兵を、百人斬り捨てたとか……」
「眉唾にも、程があるだろ……」
忠光が、心底呆れたという顔で、平十郎を見た。
「そうね……」
清姫も、ゆっくりと目を開けた。
「どう考えても、眉唾ね」
熊を食った。悪党の半分を始末した。どれも町の者が酒の席で膨らませた、取るに足らない与太話だ。町の噂など、清姫にとっては、もとよりその程度のものでしかない。
だが……。
一つだけ。
紀伊徳川。
その名だけが、清姫の耳の奥で、別の何かとかすかに擦れ合った。町の噂ではない。幕府の奥の、もっと暗いところで、かつて囁かれていた何かと。
(何かが……引っかかる……)
清姫は、襖の向こうへと目をやった。
あの剣士が消えていった、屋敷の更に奥。筆頭老中が、待っているはずの場所。
「今頃……何を話しているのかしらね……」
◇
屋敷の最も奥まった一室は、昼でも薄暗かった。
障子を立て切ったその座敷に、一人の男が座していた。
白いものの混じり始めた髪を、きつく結い上げている。顎には無精髭。太い眉の下の目は、何も読ませない。幕府の影と光の両方を、その広い肩一つで担っている男だった。
筆頭老中、水野忠邦。
その男が、向かいに座った雪之丞を、じっと見据えていた。笑いもしなければ、怒りもしない。ただ、古い剣を鞘の上から確かめるような、そんな目だった。
「貴殿が、わしに目通りとは珍しい……」
低く、重い声。
「このわしの首を取りにでも、来たのか?」
そして、この屋敷の中で、ただ一人その名を知る男は、それを口にした。
「――雪乃殿……」
雪之丞は、笑いもしなかった。
町で見せていた花のような笑みも、平十郎に向けた甘い声も、この座敷にはどこにもない。ただ、片膝を立てたまま、冷えた目で忠邦を見返していた。
「清姫が狙われてね……偶然助けたのよ」
前置きも、挨拶もない。
「アンタ、島津のお家騒動に首突っ込んでたでしょ」
「偶然……ですか……」
忠邦は、その一語を転がすように繰り返した。この剣士の前に、何かが偶然転がり込んでくることなど、一度もなかったように。
「しかしながら、某には何の事やら、存じませぬな……」
筆頭老中が、自らを「某」と称している。その奇妙さに気づく者は、この座敷にはいない。
雪之丞は、少しだけ目を伏せた。
「そう。なら、一つだけ聞いておくわ」
前髪の影から、瞳が忠邦を射抜く。
「今回の首謀者がアンタなら、まとめて斬り捨てるつもりだけど、良い?」
座敷の空気が、ひやりと冷えた。
筆頭老中の屋敷で、筆頭老中に向かって、その首を斬ると言う。それも、刀を差したままで。
だが忠邦は、眉一つ動かさなかった。
「構いませぬよ」
淀みのない声だった。
「少なくとも、わしは関わってはおりませぬ。ご自由になさればよかろう」
そして、少しだけ声を落として、付け加える。
「もとより、女子供を狙うなど武士の恥。その考えは、今も昔も変わらぬよ」
今も、昔も。
その一言が何を指しているのか。それを知るのは、この座敷にいる二人だけだった。
「それを聞いて、安心したわ」
雪之丞は、ゆっくりと立ち上がった。
「これで心置きなく、全員始末できる」
腰の刀の位置を、さりげなく直す。その仕草だけで、言葉の意味は十分だった。
「邪魔しないでよね」
「……貴殿は、何故」
忠邦が、その背中に声をかけた。
「斉彬側に肩入れをする? 何の得もあらぬだろうに」
雪之丞は、縁側へと続く障子の前で、足を止めた。
閉ざされた障子越しに、夏の光が白く滲んでいる。その光を背にしたその横顔は、忠邦の座る場所からは、よく見えなかった。
「肩入れなんてしないわ」
少しだけ、声が低くなった。
「ただ、厭な事を思い出して、ムカついたからよ……」
権力を争う者たちが、邪魔になった人間を、刺客を差し向けて消そうとする。それは、かつてこの身に起きたことと、何一つ変わらなかった。狙われたのは自分で、そしてそのために、一人の男が、何もかも変わってしまった。
あの路地で、振り上げられた刃を睨み返していた紅の着物の姫に、何を重ねたのか。それを、雪之丞は口にしなかった。
「じゃあ、またね」
障子が開き、そして閉じた。
「……」
忠邦は、しばらく無言で、その障子を見つめていた。
◇
「――十兵衛」
薄暗い座敷に、忠邦の声が落ちた。
「聞いていたな?」
「はい……」
座敷の奥、襖の影から、一人の男が音もなく姿を現した。いつからそこにいたのか。筆頭老中と雪之丞のやり取りの間、ずっと、そこで息を殺していたのだ。
忠邦の懐刀とも言うべき、護衛の男だった。
「手の者を、全員引き上げさせろ」
忠邦は、男の方を見もせずに命じた。
「この件から、手を引く」
関わってはおらぬ、と言った口で。
「宜しいのですか?」
十兵衛と呼ばれた男の声には、わずかな温度があった。
「某が、あの者を排除も出来ますが」
「不要だ」
忠邦の答えは、短かった。
「お前でも、奴には勝てぬ」
筆頭老中の懐刀。それがどれほどの腕を意味するかを、忠邦は誰よりも知っている。その上で、なお勝てぬと、言い切った。
「あれは、紛う方なき……」
忠邦は、一度だけ言葉を切った。
五年前。あの騒動の後に、この屋敷に身を寄せていたあの者を、そしてその前にあの者が何をしてきたのかを、この男は、他の誰よりも近くで見てきたのだ。
「化け物だ」
忠邦は、ようやく十兵衛の方へと顔を向けた。
「くれぐれも、余計な事をしてくれるなよ」
十兵衛は、深く頭を下げた。
その顔が、襖の影に沈む。額から頬へと走る、幾筋もの古い刀傷。その下で、口元だけが、ゆっくりと、歯を剥くように引きつっていく。
筆頭老中が、化け物と呼ぶ剣士。
自分では勝てぬ、とまで言われた相手。
島津のお家騒動など、この男にはどうでもよかった。ただ、強い者と斬り結びたい。それだけを求めて、これまで生きてきたのだ。
「御意……」
その声は、主に従う者の声にしては、あまりにも愉しそうだった。
◇
「忠邦と会って、話付けてきたわよ」
襖を開けるなり、雪之丞はあっけらかんと言った。さっきまでの冷えた目は、もうどこにもない。
「何も関わってないから、ご自由にだってさ」
筆頭老中を、また呼び捨て。忠光が、頭を抱えた。
清姫は、座ったまま、雪之丞を見上げた。
筆頭老中が、何も関わっていない。そんな話を信じるほど、この姫はお人好しではない。島津の内輪揉めは、反斉彬派の頭目であるこの男にとって、この上ない好機のはずだ。黙って見ているだけなどということが、あるはずがない。
だが。
「忠邦様が、関わってないわけないのだけれどね」
清姫は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「関わっていない」と、あの男は言った。筆頭老中の口から出たその一言は、幕閣の言葉で翻訳すれば、ただ一つの意味にしかならない。
「……手を引いて下さると言うことかしら?」
「さぁね……」
雪之丞は、肩をすくめただけだった。
「どちらにしても、ご自由にさせて頂くだけよ」
「お前、いったい何を企んでいるんだ?」
忠光が、苛立ちを隠しもせずに詰め寄った。筆頭老中の屋敷に姫を連れ込み、当の老中を呼び捨てにし、何食わぬ顔で戻ってくる。何を考えているのか、まるで分からない。
雪之丞は、その忠光に向かって、にっこりと微笑んだ。
「今回の首謀者を、全員排除するのよ」
花のような笑顔で口にするには、あまりにも物騒な言葉だった。
「どうやって、首謀者を特定するのかしら?」
清姫が、静かに口を挟んだ。
「私にも分からないわよ?」
島津の内情に、誰よりも通じているのはこの姫だ。その姫が、屋敷の中の誰が自分を狙ったのか、まだ絞り切れていない。斉彬を快く思わない者は、一人や二人ではないのだ。
雪之丞は、くるりと清姫の方へ振り返った。
その口元が、楽しげに弧を描く。笑っている。だが、その目の奥に、ちらりと冷たいものが渡った。
「餌を撒いて、集めたところで」
高く結った黒髪が、ふわりと揺れる。
「全員まとめて、ぶった斬る!」
沈黙が落ちた。
忠光は、口を開けたまま固まっていた。平十郎は、額に脂汗を浮かべたまま、気配を消すように壁際へ一歩下がっていた。
餌。
それが何を指しているのか。この座敷で、狙われているのはただ一人しかいない。
清姫は、しばらく雪之丞の笑顔を見つめていた。それから、深々と、長い息を吐いた。
「……とてつもなく、嫌な予感がするのだけれど」
そう言いながらも、姫は止めなかった。止めたところで、他に手があるわけでもない。それに。筆頭老中に「手を引かせた」この剣士なら、あるいは、とも思えてしまうのだ。
「まあ、好きにしなさいな」
三 餌
――ざわ……ざわ……。
大通りに出た途端、町の空気が変わった。
茶屋の床几で団子をつまんでいた娘が、小間物屋で簪を選んでいた娘が、水を打っていた商家のお内儀が。一人、また一人と、通りの真ん中を歩いてくる二つの人影に気づいて、動きを止めていく。
桜色の着物。腰の刀。高く結った黒髪。
――キャー、キャー。
「雪之丞様ああああん!」
黄色い声が、大通りに響き渡った。
雪之丞は、その声の方へ、にこやかに微笑みを向けてやる。たったそれだけで、娘たちの間から悲鳴にも似た歓声が上がった。胸の前で両手を合わせ、うっとりと天を仰ぐ娘までいる。
「雪之丞様……今日も素敵ね……」
「珍しい……」
娘の一人が、その隣を歩く紅の着物に気づいて、目を丸くした。
「隣に、凄い美人を連れていらっしゃる……」
「何方かしら……お武家様の姫君かな……」
噂は、風よりも速い。
江戸中の娘が焦がれる男色の剣士が、見知らぬ美しい姫を連れて、町を歩いている。その話は、日が暮れるより早く、江戸の町を一周するだろう。そして、誰かを探している者の耳にも、必ず届く。
――これが、餌だった。
◇
「アンタ、桁違いにモテるのね」
清姫は、腕を組んだまま、周りの娘たちを呆れたように眺めていた。どこを歩いても、この調子なのだ。
「女にモテても、嬉しくないのよ」
雪之丞は、心底つまらなそうに、ふいとそっぽを向いた。
「贅沢な悩みだこと」
「アンタだって、江戸三大美人の一角でしょうが」
清姫は、少しだけ目を伏せた。
「私は、末席なのよ。残りの二人には、敵わないわ」
謙遜でも、拗ねているのでもない。ただ、そう思っている者の声だった。
「特に一人は……」
姫の目が、どこか遠くを見た。
「私の憧れなのよ……」
十年近く前、茶会の席で何度か目にした人がいた。その立ち居振る舞いも、物怖じしない目も、幼い清姫には、まるで別の世の人のように見えた。あんな風になりたいと、心の底から思った。
だが、その人は、ある時ふっつりと姿を消した。病で伏せっているとも、もうこの世にはいないとも噂された。それでも江戸の人々は、三大美人を数える時、今もその名を真っ先に挙げる。
雪之丞は、一瞬だけ、何も言わなかった。その横顔が、ほんのわずかに、引きつったようにも見えた。
「……全員、ポンコツだと思うけど」
それから、いたずらっぽく笑って、清姫の顔を覗き込んだ。
「あんた、全然清くない清姫様って言われているけど」
金策のためには手段を選ばない、島津の悪女。その噂だけは、町にもちゃんと届いているらしい。
「一番素敵だと思うわよ」
「……ありがと」
清姫は、素っ気なく答えた。だが、その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
「何でもやってきたからね……」
視線が、足元に落ちる。
「それこそ、人殺し以外は」
◇
少しの間、二人は黙って歩いた。
供は、雪之丞ただ一人だった。娘たちの黄色い声が、通りを曲がるたびに遠ざかっては、また新しく湧き起こる。
「今の島津はね……」
ふいに、清姫が口を開いた。
「先代の浪費癖のせいで、内部はボロボロなのよ」
薩摩七十七万石。その看板の裏で、借財は山のように積み上がっている。外からは大藩の威光しか見えない。だが内側にいれば、その柱が一本ずつ腐りかけているのが、嫌でも分かる。
「私は、それを立て直したくてね……」
組んだ腕に、少しだけ力がこもる。
「彼是工作していたら、方々から恨まれてしまったみたい……」
金を集めれば、その金で生きていた者が恨む。無駄を削れば、削られた者が恨む。兄のために動けば、兄を快く思わない者が恨む。そうやって積み重なった恨みが、今日、刃の形をして自分に向けられたのだ。
「……良いの?」
雪之丞が、少しだけ振り返った。
「そんなことを、私に話して」
「ダメなんだろうけれど……」
清姫は、わずかに目を逸らした。
「愚痴ぐらい、言いたくもなるのよ」
愚痴。
その言葉に、雪之丞の足が、ほんの一瞬だけ緩んだ。いつかの月のない夜、大きな拳を握ったまま、「愚痴ぐらいは聞いてやる」と言った男の声が、耳の奥でふと蘇った。
今度は、自分が聞く番らしい。
「何故かしらね」
清姫は、不思議そうに小さく首を傾げた。
「貴方なら、私のことを理解してくれる気がするのよ……」
会って、まだ半日も経っていない。それも、男色の、得体の知れない剣士だ。それなのに、家臣にも、兄にも言えなかった言葉が、するりと口からこぼれていく。
「そんな雰囲気があるから、貴方が女性にモテるのかも知れないわね」
雪之丞は、腕を組んで目を閉じた。心底、納得がいかないという顔だった。
「何故、全ての男達が、その思考に至らないのか?」
「女心ではないからでしょ」
清姫は、一切の容赦なく切り捨てた。
雪之丞は、何か言い返したそうに口を開きかけ、そして閉じた。それから、ゆったりと、大通りの先へと顔を向ける。
「さあ、あと少し街を回ったら、帰りましょうか」
夕暮れが近づいていた。
餌は、もう十分に撒いた。
四 蘭姫
「お帰りなさいませ、清姫様」
水野屋敷の一室に戻ると、平十郎と忠光が、待ちかねたように頭を下げた。
二人とも、屋敷に置いていかれたのだ。
「あの者が、何か失礼なことをしておりませぬか?」
忠光が、ちらりと廊下の方を睨む。その頬には、まだうっすらと青い痣が残っていた。
「案外、楽しかったわよ」
清姫は、何でもないことのように答えた。
「人気のお団子も、食べたしね」
「囮を自ら引き受け……」
忠光の声が、低くなる。
「その上、たった一人の護衛で街を歩くなど、危険すぎます」
「行くときにも、そう言って」
清姫は、ちらりと忠光の頬の痣に目をやった。
「雪之丞にボコボコにされたのは、誰だったかしら?」
出かける前のことだ。姫を囮にするなど許せぬと、刀の柄に手をかけて立ちはだかった忠光は、次の瞬間には畳の上に転がっていた。何をされたのか、本人にも分かっていない。分かっているのは、相手が刀を抜きもしなかったことだけだった。
「それは……一生の不覚にございます……」
忠光は、歯を食いしばってうなだれた。
「あんまり、思い詰めないで頂戴」
清姫は、小さく息をついた。
「実際、至極安全だったわよ。私を襲った悪党と鉢合わせしたけれど、慌てて逃げていったわ」
大通りの角で、一度だけ。見覚えのある黒い着物の男が、こちらに気づいて顔色を変え、人混みの中へ転がるように消えていった。それだけのことだった。
「今、江戸の町で」
鈴を転がすような声が、座敷の入り口から割って入った。
「雪之丞様に逆らう悪党など、おりませんよ」
◇
藤色の着物に、闇に溶けるような長い黒髪。切り揃えた前髪の下で、紫がかった瞳が、穏やかに微笑んでいる。
虫一匹殺せそうにない、清楚な佇まいだった。白い指先も、伏せがちな睫毛も、小首を傾げるその角度ひとつまでが、絵に描いたような淑やかさで出来ている。
それなのに、その姫が敷居をまたいだ途端、座敷の気配が、すっと塗り替わった。声を張ったわけでもない。ただそこに立っているだけで、誰もが、その姫から目を離せなくなる。
そして、その微笑みは、恐ろしく優しかった。
優しすぎるのだ。一分の翳りもなく、一分の綻びもない。どれほど目を凝らしても、その笑みの縁に、継ぎ目ひとつ見当たらない。完璧であればあるほど、背筋の奥が、ひやりと冷えていく。
清姫は、知っていた。この柔らかな笑みの奥に、何か研ぎ澄まされたものが潜んでいることを。
「そう言う輩は、みんな斬られちゃいましたから」
にこやかに、物騒なことを言う。
水野忠邦の娘、蘭姫。
江戸三大美人の一人。穏やかで清楚な見た目とは裏腹に、父親の忠邦ですら一目置くほどの策士だと、知る人ぞ知る姫である。
「ご機嫌麗しゅうございます、蘭姫様」
平十郎と忠光が、慌てて深々と頭を下げた。
清姫も、静かに手をついた。三大美人の末席として、同じく名を連ねる姫に礼を尽くす。その所作には、一分の乱れもなかった。
「お久しゅうございます、蘭姫様。此度は、突然押しかけてしまい……」
「お気になさらず」
蘭姫は、ふわりと首を振った。
「雪乃様のお友達なら、大歓迎ですよ」
雪乃様。
清姫は、その呼び方を、雪之丞の名を親しげに崩したものだと受け取った。この姫が、あの剣士をそう呼ぶほどの仲なのだ、と。
「忠邦様だけでなく、貴方も雪之丞の知り合いだったのね」
「ええ」
蘭姫は、嬉しそうに目を細めた。
「雪乃様を父上に引き合わせたのは、私ですから」
清姫は、その微笑みを黙って見返した。
筆頭老中の表の顔も、裏の顔も、この姫は知り尽くしている。父の政に影のように寄り添い、その裏で動く糸を、幾本もその白い指に絡めている。策を巡らせることにかけては、自分など足元にも及ばない。それを清姫は、幼い頃から肌で知っていた。
その蘭姫が、あの剣士を父に引き合わせたのだという。ならば、筆頭老中を呼び捨てにするあの不遜も、刀を差したまま奥へ通されるあの破格の扱いも、この姫の手の内のどこかに繋がっているのかもしれない。
だが、蘭姫の顔からは、何一つ読み取れなかった。ただ、嬉しそうな笑みがあるだけだ。作り物だと分かっていてさえ、作り物には見えない笑みが。
蘭姫は、すっと清姫の前に膝をついた。藤色の袖から、ほのかに香が匂う。
「清姫様は、どうぞ私と共に奥の方へ」
穏やかで、それでいて有無を言わせぬ声だった。
「久しぶりにお会いしたのですから、積もる話でもいたしましょう」
「……はい」
◇
日が傾き、水野屋敷の石灯籠に、灯りが入った。
奥の座敷で、二人の姫が向かい合って座っていた。藤色と紅。対になるような二つの着物が、行灯の光に淡く浮かんでいる。
「清姫様とこうしてお話するのは、何年ぶりでしょう」
「昔は、良く茶会でお会いしていたわよね」
清姫は、少しだけ目を細めた。
「家の立場もあって、疎遠になってしまったけれど」
島津と水野。兄を推す者と、それを快く思わない老中。幼い頃には無邪気に茶を点て合った二人も、いつしか、家の暗い影を背負うようになっていた。
「清姫様は、とても器用で。私は羨ましかったです」
「模範がいたからね……」
清姫は、遠い日を思い出すように、ふっと視線を落とした。
「貴方も、知っているでしょ?」
「ええ。よく、存じておりますわ」
蘭姫は、微笑んだ。ただそれだけの、上品な微笑みだった。
「ところで……」
清姫は、話を切り替えるように顎を上げた。
「雪之丞は、どうしたのかしら? 彼の屋敷に戻ったの?」
「ご自分の長屋の方に、お戻りになりましたよ」
蘭姫は、何でもないことのように答えた。
「今は、そちらに住んでおりますので」
「なっ……!」
清姫の目が、大きく見開かれた。
筆頭老中を呼び捨てにし、刀を差したまま屋敷に上がり込む剣士が。町の、長屋に。
「あいつは、私の政敵に狙われているのよ!」
思わず、声が荒くなっていた。
餌を撒いたのは、清姫だけではない。島津の姫を連れて町を歩いたあの剣士もまた、今や敵にとっては消すべき邪魔者のはずだった。
「長屋でなんて寝ていたら……」
「何も、心配……ございませんよ……」
蘭姫は、そっと目を閉じた。
そして、ゆっくりと開く。
紫がかった瞳が、行灯の火を映して、ひどく暗く光ったように見えた。
「あのお方を殺せる者など……」
口元は、微笑んだままだった。
「この世には、存在いたしませぬ……」
清姫は、思わず口をつぐんだ。
信頼ではない。ただの事実を述べている、そんな声だった。そしてその声の奥に、この穏やかな姫には似つかわしくない、何かひどく重たいものが沈んでいた。
◇
「清姫様は、お優しいのですね」
蘭姫は、ふっと、いつもの柔らかな笑みに戻った。
「でも、本当に雪乃様はお強いのですよ。かつてひと月にも及んで、江戸の賊との抗争があって。挙句、全員斬り捨ててしまいましたから」
「その噂は、聞いたわ」
清姫は、昼間に平十郎が並べ立てた話を思い出していた。
「眉唾だと思っていたけれど、本当だったのね……」
「大変だったのですよ。本人は無礼討ちだと言って、奉行所も対処に困り果てて……」
蘭姫は、少しだけ困ったように小首を傾げた。
「最終的には、幕府から緘口令が出てしまいました」
「緘口令って……」
清姫の眉が、ぴくりと動いた。
町の噂ならともかく、幕府の奥の話なら、江戸の誰よりも早く耳に入れてきたつもりだった。その自分が、幕府が口を封じたというその一件を、何一つ知らない。それはつまり、その口を封じた手が、島津の姫の耳すら届かぬほど高いところにある、ということだ。
「やはりあいつは、かなりの名家の人間なのね」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「私が知らないのは、少し不思議だけれど……」
「私は、口止めされておりますので」
蘭姫は、そっと目を伏せて微笑んだ。
「何とも……」
答えになっていない答えだった。だが、老中の娘が口止めされている、それ自体が、何より雄弁な答えでもあった。
◇
「ただ、くれぐれも清姫様はお気をつけを」
蘭姫の声が、少しだけ引き締まった。穏やかな姫の顔の下から、老中の娘の顔が覗く。
「父が、幕府に清姫様の保護を報告しております。当然、薩摩藩にも伝わります」
清姫は、息を飲んだ。
筆頭老中が、島津の姫を屋敷に匿っている。それを、自ら公にしたのだ。
「父と貴方の交流を、反斉彬派は絶対に阻止したい筈です」
斉彬を快く思わない者たちにとって、それは悪夢のような報せのはずだ。自分たちが頼みにしていた老中が、よりによって斉彬の妹を庇っている。その二人が何を話し、何を結ぶのか。放っておけるはずがない。
「近いうちに、必ず敵は動きだすでしょう」
「……雪之丞の思惑通りね」
清姫は、小さく息を吐いた。
町に撒いた餌だけではない。筆頭老中の屋敷に逃げ込んだことそのものが、島津の内に潜む者たちを燻り出すための、もう一つの餌だったのだ。あの男色は、そこまで読んでいたのか。
「後は、忠邦様が敵でない事を願うばかりだわ」
「その時は」
蘭姫は、うっとりと目を細めた。
「父上も、雪乃様に斬り捨てられちゃいますね」
実の父のことを、まるで明日の天気でも話すように。
清姫は、笑うべきなのかどうか分からず、ただ黙って蘭姫の顔を見つめていた。
五 心当たり
その夜。
水野屋敷の客間の縁先で、清姫は一人、腕を組んで庭を眺めていた。
湯を使い、薄い浴衣に着替えた肩を、夏の夜風がゆるく撫でていく。庭木の向こうには、まん丸い月が掛かっていた。
眠れなかった。
命を狙われたことも、屋敷に戻れぬことも、今は頭の片隅にある。それよりも、もっと引っかかっているものがあった。
あの剣士のことだ。
(人間関係や、幕府の隠蔽を考えて……)
筆頭老中を呼び捨てにし、その屋敷に刀を差したまま上がり込む。老中の娘が「様」を付けて呼ぶ。そして、島津の姫の耳さえ届かぬ高さから、緘口令が敷かれている。
(雪之丞は、かなりの名家の人間に間違いない)
だが、それはどこの家なのか。
平十郎が並べた眉唾の噂の中で、ただ一つ、耳に残った名がある。
紀伊徳川。
紀伊家の精鋭を、百人斬り捨てた。
町の者にはただの与太話だろう。だが、幕府の奥の話に通じた者なら、その話によく似た出来事を、一つだけ知っている。
(心当たりは……ある)
斬丸だ。紀伊の、斬丸。
五年前、将軍家の跡目をめぐる争いの影で、騒乱を起こした男。紀伊家の精鋭を皆殺しにし、そのまま姿を消したと囁かれる。表向きには、何一つ起きなかったことになっている。
(紀伊家の精鋭を斬った、という噂は、確かに重なる。だが……)
清姫は、小さく首を振った。
(雪之丞は、斬丸ではないだろう)
斬丸なら、一度だけ見たことがある。まだそんな異名で呼ばれる前、幼名で通っていた頃のことだ。紀伊家との縁組の話が、かつて自分にも持ち上がったことがあるのだ。彼の家の主だった者たちの顔は、一通り目にしている。あの男は、もっと背が高かった。あの剣士とは、体つきからしてまるで違う。
それに、紀伊家には、他にそれらしい人物がいない。
清姫は、頭の中で、一つずつ名を並べていった。幕閣と大名家の系図なら、この姫には帳面を繰るよりも早く思い浮かぶ。
水戸の斉昭様は、年齢が違う。尾張にも、御三卿にも、それらしい人物はいない。公家なら、そもそも帯刀などしない。
それらしい人間など、一人も知らない。そんな人間は存在しない。
(そもそも、あれだけの才能があるなら、当時から……騒がれて……)
そうだ。騒がれていたはずだ。あれだけの才能があったなら。
いや……、知っている。一人だけ、記憶の中に存在している。自分では絶対に追いつくことすらできないと思わされた、あの人物……。その人の、ほのかに微笑んだ口元が思い浮かぶ。
(あれだけの……才能……)
月の光の下で、清姫は組んだ腕に力をこめた。
眉間の皺が、深くなる。
◇
「それじゃあ、今日も元気に、首謀者釣りに出かけましょうか」
翌朝。水野屋敷の門前で、雪之丞は心地よさそうに伸びをした。長屋で一夜を過ごしたとは思えぬほど、その顔は晴れやかだった。
清姫は、腕を組んだまま、その横顔をじっと見つめていた。
前髪の形。頬の線。長い睫毛。十年という歳月を、一つずつ剥がしていくように。
「どうしたの?」
雪之丞が、くるりと振り返った。いたずらっぽく、口の端を上げる。
「あたしの顔を見つめて。そんなに綺麗?」
「そうね」
清姫は、あっさりと頷いた。
そして、ふっと、頬を緩める。昨日一日、この姫が一度も見せなかった、どこか楽しげな笑みだった。
「イケメンで、最強の上、名家の出身でしょ。私の夫にするなら、最適じゃない?」
名家の出身。
その一言に、雪之丞の眉が、ほんのわずかに動いたような気がした。だが、次の瞬間には、いつもの花のような笑顔が戻っている。
「アンタってば、美形な上に、肝も据わっている」
うんうんと、大げさに頷いてみせる。
「あたしのタイプだから、女で無ければ、惚れていたわよ」
「ふふふ……ありがとう」
清姫は、声を立てて笑った。
男色の剣士が、女は好みではないと言う。何もおかしくない言葉だ。だがそれが、今の清姫には、まるで別の意味に聞こえる。
確かめるつもりはなかった。
もし、本当にあの方だったとしても。今は、それを暴くより、こうして隣で軽口を叩き合っていたかった。
島津の屋敷の奥では、ついぞ味わったことのない時間だった。命を狙われている最中だというのに、胸の奥が、妙に浮き立っている。今はただ、この人と共にいられることが、何より楽しかった。
「婿に来る気になったら、いつでも私のもとへ来て頂戴ね」
「じゃあ……」
雪之丞は、夏の青空を見上げて、にっこりと微笑んだ。
「敵が仕掛けてくるまで、逢引でもしましょうか」
◇
その日も、大通りは人で賑わっていた。
娘たちの噂話。商家の呼び込み。行き交う町人や、浪人や、武家の中間たち。
その雑踏の中で、何人かの視線が、桜色と紅の二つの着物を、そっと追い始めていた。
六 示現流
「今日はどこに行くの?」
人波の中を並んで歩きながら、清姫は隣に顔を向けた。
「美味しいものを食べたいのだけれど」
昨日と違って、その声にはどこか弾むような響きがある。茶屋の幟、団子を焼く煙、威勢のいい呼び込み。島津の屋敷の奥にいては、決して触れることのない町の匂いだった。
「そうしたいところだけれど」
雪之丞は、前を向いたまま、柔らかく笑った。笑ったまま、声だけを落とす。
「清姫、私の傍に寄って頂戴……」
清姫の足が、一瞬止まりかけた。
雪之丞の目は、もう笑っていなかった。店先を眺めるふりをしながら、その視線は、雑踏の切れ目を一つずつなぞっていく。
「五人……」
小さく呟いて、すぐに首を振る。
「いや……その倍かしら」
清姫は、振り返りたくなる衝動を、奥歯で噛み殺した。ここで振り向けば、こちらが気づいたと教えるようなものだ。
「ここは人が多いから、場所を変えるわ」
言うが早いか、雪之丞は清姫の手を取り、大通りから横道へと折れた。
早足。それが、すぐに小走りになる。草履が石畳を叩く音が、狭い路地に跳ね返った。背後で、幾つもの足音が、同じ拍子で追ってくる。
角を一つ。二つ。
三つ目を曲がった先で、清姫は思わず声を上げた。
「行き止まり!?」
正面には、固く閉ざされた屋敷の門。左右は板塀と石垣。逃げ道は、今来た路地しかない。
「良いのよ」
雪之丞は、乱れた前髪を軽く払い、くるりと路地の入口へ向き直った。
「ここで、全員迎え撃つ。清姫は下がっていて」
この狭さなら、敵は横に広がれない。町の者を巻き込むこともない。追い込まれたのではない。ここへ誘い込んだのだ――清姫がそう気づいたのは、目の前の背中が、あまりにも落ち着いて見えたからだった。
ザッ、ザッ。
揃った足音が、路地に満ちる。
現れたのは、浪人ではなかった。
黒や紺の着物に、揃いの紋。月代をきれいに剃り上げ、腰の大小も拵えの良いものばかり。昨日の雇われ浪人とは、まるで格が違う。先頭に立つ男たちの目は、獲物を前にした獣のように据わっていた。
その顔ぶれを見て、清姫の顔から血の気が引いた。
「雪之丞、気を付けてね……」
腕を組み、ぐっと唇を引き結ぶ。島津の娘として、幼い頃から嫌というほど見てきた男たちだった。
「あれは薩摩示現流。強いわよ」
一の太刀を疑わず、二の太刀は要らぬ。初太刀にすべてを懸けて打ち下ろす、薩摩の剛剣。受けた刀ごと、相手を叩き斬るとまで言われる。
「何処の手の者か、わかる?」
雪之丞は、振り返らずに訊いた。
「ええ」
清姫は、男たちの顔を一人ずつ確かめた。見覚えのある顔が、幾つもあった。
「家老の立花大膳の配下。反斉彬派の筆頭ね」
斉彬の家督相続を阻もうとする者たちの、その頭目。もはや雇われ浪人を間に挟む気すらない。これは、本丸から放たれた刺客だった。
「相手は一人だ」
胸元をはだけた大柄な男が、低く言い放った。
「一気に押し切るぞ」
男たちが、一斉に刀を抜いた。右肩の上に高く刀を立てる、独特の構え。示現流の、蜻蛉。
雪之丞は、すっと目を細めた。
「なら、生かしておく必要もないわね」
その声から、いつもの甘ったるい響きが、きれいに消えていた。
「全員、斬り捨ててあげる」
左手の親指が、鯉口を切る。
鍔が、小さく鳴った。
◇
「キィエエエエエッ!」
猿叫が、路地の空気を裂いた。
先頭の二人が、地を蹴る。示現流の踏み込みは速い。間合いが、瞬く間に消える。打ち下ろされれば、受けた刀ごと、頭から叩き割られる。
だが、その刀は、振り下ろされなかった。
桜色の袖が、二人の間をすり抜けた。
抜き打ちの一閃が右の男の胴を薙ぎ、返す刀が、左の男の腕を斬り上げる。二振りの刀は、雪之丞が一瞬前までいた場所に、ただ空しく落ちた。
清姫は、目を見開いた。
見えなかった。
抜いたところも、斬ったところも。気がつけば、二人が崩れ落ち、雪之丞が刀を振り抜いた姿で、そこに立っていた。
残る男たちは、それでもひるまずに押し寄せた。それが薩摩の兵だった。仲間が倒れても、足を止めない。次々に猿叫を上げ、蜻蛉の構えから、捨て身の初太刀を叩きつけてくる。
雪之丞は、そのどれ一つとして、受けなかった。
受ける必要がなかった。刀が振り下ろされるより、ほんの一瞬だけ早く、相手の懐に入っている。踏み込み。一閃。すれ違いざまに桜色の袖がひるがえるたび、男が一人、膝から崩れる。
狭い路地は、数の利を殺す。横に並べるのは、せいぜい二人。その二人を、雪之丞は一呼吸で斬り伏せ、次の二人を待つ。まるで、最初から決められた手順をなぞるように。
(確かに、桁違いね……)
清姫は、塀に背を預けたまま、息をするのも忘れていた。
(彼らは、島津の強者たち。それを、いともたやすく……)
島津の娘として、家中の剣術の上覧も、武芸の大会も、幾度となく見てきた。薩摩の剛の者がどれほどのものか、誰よりも知っているつもりだった。
(私も、武芸の大会はよく見ているけれど……)
あんな剣は、見たことがない。
(あんなに強い人間は、いない……)
◇
最後の一人が、地に伏した。
路地に、静けさが戻る。
雪之丞は、刀を下げたまま、天を仰いだ。
「フゥー……」
長く、細く、息を吐く。結い上げた髪が、夏の風にかすかに揺れた。目を閉じたその横顔は、今しがた十人を斬り伏せたとは思えぬほど、静かだった。
清姫は、その横顔を見つめた。
(何が、貴方をそんなに強くしたの……)
昨夜、月の下で思い浮かべた、あの口元が、ふと重なりかける。清姫は、それを振り払うように、小さく息をついた。
「貴方と心中するのも悪くない、と思っていたけれど」
腕を組み、わざと素っ気なく言う。
「どうやら、杞憂だったみたいね」
雪之丞は、すぐには答えなかった。
足元に伏した男たちを一瞥し、血を払う。それから、ゆっくりと顔を上げた。その視線は、倒れた男たちの、さらに向こう――路地の暗がりの奥へと、向けられていた。
口の端が、ほんのわずかに上がる。
「まだよ……」
刀身が、夏の日を弾いて光った。
「奥に、もう一人いるわ……」
◇
暗がりから、一人の男が歩み出てきた。
急ぐでもなく、足音を殺すでもない。散歩でもするような足取りで、倒れ伏した男たちの間を抜けてくる。
大柄な体に、着流しの黒。だらしなくはだけた胸元から、鍛え抜かれた体と、幾筋もの古い刀傷が覗いていた。額にも、頬にも、斬られた跡が走っている。無造作に束ねた髪が、夏の風に揺れた。
清姫の背筋が、ひやりと冷えた。
さっきまでの十人とは、まるで違う。立っているだけで、路地の空気が重くなる。
「お初にお目にかかる」
男は、雪之丞の前で足を止めた。
「雪之丞殿」
「お初ではないわね」
雪之丞は、刀を下げたまま、にこりと笑った。
「アンタ、忠邦の屋敷にいたでしょ」
清姫には、見覚えのない顔だった。水野屋敷に身を寄せてはいるものの、屋敷の主である忠邦とさえ、まだ顔を合わせてはいない。その傍らに、こんな男が控えていたとは、知る由もなかった。
「忠邦様は、無関係でござる」
男は、表情一つ変えずに言った。
「某の独断で、お前を斬りに来た」
薩摩の刺客と、示し合わせたわけではないのだろう。ただ、雪之丞が刀を抜くこの時を、どこかでじっと待っていた。そういう目だった。
「拙者は、柳生宗近」
男は、ゆっくりと袖をまくり上げた。太い腕に、白く盛り上がった傷跡が、幾重にも刻まれている。
「十兵衛の名を継ぎ、幕府の暗部を担ってきた。そして百戦、一度も剣技で負けたことがござらぬ」
柳生。将軍家の剣術指南役の家。その裏で、表に出せぬ汚れ仕事を引き受ける者がいる――清姫も、噂だけは耳にしたことがあった。
十兵衛は、雪之丞の足元に転がる男たちを、つまらなそうに一瞥した。
「確かに、貴殿はそこそこ強いようだが」
その目が、雪之丞へと戻る。
「単に、間合いに長けた、偽りの剣技。殺し合いの上に磨いた某の剣技には、遠く及ばぬ」
鯉口が、切られた。
すらりと抜き放たれた刀身が、真夏の日差しを弾いてぎらりと光る。
「故に、某はお前を斬って」
低い声が、路地に響いた。
「最強を、証明する!」
雪之丞は、すぐには答えなかった。
ほんの一瞬、視線を落とす。長い睫毛の影が、白い頬に落ちた。
「そうね……」
その声は、ひどく静かだった。
「その通りかも、ね……」
清姫は、思わず雪之丞の横顔を見た。
軽口でも、挑発でもない。まるで、ずっと前から自分でもそう思っていた、とでも言うような声だった。
そのことが、なぜだか無性に腹立たしかった。
「最強だなんて、くだらない」
清姫は腕を組み、十兵衛を真正面から睨みつけた。
「およしなさいな」
十兵衛は、清姫に目をくれもしなかった。
「女は黙っていろ」
吐き捨てるような声だった。
「これは、男の戦いなのだ。終わったら、斬り捨ててやる」
「あたしも女なんだけれど……」
雪之丞が、ぽつりと言った。
ふっと顔を上げ、空を見上げる。その口元には、いつもの、どこか人を食ったような笑みが戻っていた。
清姫の胸が、小さく跳ねた。
だが、十兵衛は、鼻で笑っただけだった。
「男色風情が、何を言う」
刀を高く掲げ、柄を握り直す。袖口から覗く腕の傷が、生き物のようにうねった。
「ついでに、化けの皮もはがしてやろう」
清姫は、知らず息を詰めていた。
化けの皮。この男は、ただの冗談としか受け取っていない。それでいい。それでいいはずなのに、その言葉だけが、妙に耳に残った。
十兵衛が、低く腰を落とした。
刀を肩に担ぐように構え、傷だらけの顔に、獣のような笑みが浮かぶ。百の死線をくぐり抜けてきた男の、それが、喜びの顔だった。
「いざ――」
路地を渡る風が、ぴたりと止んだ。
「尋常に、勝負!」
「仕方ないわね……」
雪之丞は、小さく肩をすくめた。それから、ゆったりと十兵衛に向き直る。刀は、右手に提げたままだ。構えらしい構えも、取らない。
「参る!」
十兵衛の体が、沈んだ。
次の瞬間には、もう間合いの内にいた。あの巨体からは信じられぬ速さだった。薩摩の十人とは、踏み込みの鋭さからして違う。
ザッ。
二つの影が、すれ違う。
清姫には、何が起きたのか分からなかった。ただ、振り抜いた十兵衛の刀が空を切り、雪之丞は、何事もなかったような顔で、そこに立っていた。
十兵衛の頬に、一筋。
古傷をなぞるように、新しい赤い線が走っていた。じわりと、血が滲む。
十兵衛は、指先でその血を拭った。驚きは、なかった。むしろ、どこか感心したような目で、雪之丞の手元を見つめる。
「成程、そう言うからくりか……」
その視線の先にあるのは、雪之丞の刀だった。
「お前のその刀は、通常より長い。故に、同じ間合いで斬り合えば、お前の刀だけが届く……」
言われて、清姫も気づいた。桜色の袖から伸びる刀身は、確かに常の打刀よりも、拳一つ分ほど長い。華奢な体つきには、あまりに不釣り合いな代物だった。
「仕掛けさえ分かってしまえば、お前の勝利はもうない」
十兵衛が、刀を頭上に構え直す。頬の血が、顔の古傷を伝って、一滴落ちた。
雪之丞は、初めて刀を身体の前に立てた。刀身が、夏の日を弾く。
「そう思うなら」
その目が、すっと細められた。
「試してみればいいわ」
◇
キン、と鋭い音が、路地に跳ねた。
十兵衛は、間合いを捨てていた。長い刀に先を取られるなら、その内側へ飛び込めばいい。刀を合わせ、弾き、さらに踏み込む。百の殺し合いで磨いた、影の剣だ。正面から、斜めから、足元から。息つく間もなく、刀が飛ぶ。
雪之丞は、その一つ一つを、受けもせず、ただ外していく。
(何だ……?)
十兵衛の胸の内で、何かが軋み始めた。
(何かがおかしい……俺の剣が、奴に届かない……)
理屈が合わない。奴の刀は長い。長い分だけ、重い。だから、奴の太刀行きは、決して速くはない。実際、今しがたも、俺の方が先に振っていた。
(だが……届かない……)
振るたびに、一寸だけ足りない。その一寸が、刀を合わせるたびに、二寸に、三寸にと開いていく。
(絶対的な、間合いの妙か?)
いや、違う。
十兵衛は、飛び退きながら、相手の顔を見た。
雪之丞は、こちらの刀を見ていなかった。足も、肩も、見ていない。その目は、ただじっと、十兵衛そのものを捉えていた。筋肉の弾み、息の吸い吐き、視線の動き、重心の傾き。刀を合わせるたびに、その一つ一つが、あの目の奥へ吸い込まれ、解かれていく。
まるで、天の高みから、盤上の駒でも見下ろすように。
(動きが、完全に読まれている……)
背筋を、冷たいものが駆け下りた。
奴の目には、俺の動きが、全て視えている。
ザッ。
桜色の袖が、十兵衛の脇をすり抜けた。
少し遅れて、太い二の腕に、赤い線がひらいた。古傷の上に、また一つ。だが、浅い。斬れたはずなのに、斬らなかった。そうとしか思えない傷だった。
◇
「化け物と言うのは、伊達じゃないようだな……」
十兵衛は、腕の血を振り払い、低く笑った。笑いながら、その目に、むしろ強い光が宿っていく。
「だが、やはりお前の強さは偽りだ」
十兵衛は、刀を高々と振りかぶった。せり上がった腕の筋肉に、幾重もの傷跡が浮かび上がる。
「俺に刻まれたこの傷が、俺を最強たらしめる」
一つ一つが、生き残った証だった。斬られ、それでも斬り返し、立っていたのは、いつも自分の方だった。その積み重ねが、この男の剣の、そして誇りの、すべてだった。
「力と速さと、我の全てを以って、次の一撃で貴様の首を斬り落とす」
「くだらないわね……」
雪之丞が、ふいと背を向けた。肩越しに、十兵衛を一瞥する。
「何だと……?」
十兵衛の頬の傷から、血が一筋、伝い落ちた。
「傷とか、能書きとか……」
雪之丞は、伏し目がちに、うんざりしたように吐息をついた。
「それじゃ、あたしと何も変わらないわよ」
偽りだと言うなら、お互い様だ。傷の数を数えて強さを語るのも、刀の長さで強さを測るのも、大して変わりはしない――その声は、そう言っているように聞こえた。
そして、雪之丞は、まっすぐに十兵衛を見た。
その目に、笑みはなかった。
「私はかつて、紀伊の藩士を百人まとめて斬り捨てたけれど……」
路地の空気が、凍りついた。
「傷一つ……負ったことはないわよ」
十兵衛の顔が、歪んだ。
「戯言だ!」
血の滲む頬を引きつらせ、十兵衛は吠えた。
「そんな事が出来る人間など……」
だが、その声は、終わりに向かうほど、かすれていく。
「いるわけが……」
届かない剣。全てを視る目。そして、俺の傷は、奴によって今も増え続けている。否定したい言葉のその先を、他の誰でもない十兵衛自身の体が、否定していた。
そして、もう一人。
塀際で、清姫は目を見開いていた。
紀伊の藩士を、百人。
平十郎が並べた眉唾の噂。町の者の与太話だと、昨夜、自分で切り捨てたはずの話。斬丸ではないと、背丈で否定したはずの話。
それを、本人が、今、口にした。
十兵衛の胸の内で、己の言葉だけが空しく繰り返されていた。
(いる……わけが……)
そこまで考えて、十兵衛の目が、大きく見開かれた。
知っている。
自分は、その話を、知っている。
◇
五年前。
まだ柳生の棟梁として、江戸城の奥に詰めていた頃のことだ。
薄暗い詰所の畳に、配下の者が両手をついていた。紀伊の騒ぎを探らせていた、腕利きの一人だった。その男の声が、かすかに震えていたのを、十兵衛は今でも覚えている。
「何だと……」
十兵衛は、思わず身を乗り出した。
「紀伊の手勢が三百人、全滅しただと?」
「斬丸と、もう一人」
配下は、顔を上げなかった。
「たった二名を相手に、壊滅した模様……」
「そんなバカな話があるか」
一笑に付そうとした。だが、畳についた配下の指は、白くなるほど強く、畳の目に食い込んでいた。
「事実で……ございます」
絞り出すような声だった。
「あれは……化け物でございます……」
◇
「貴様が……」
十兵衛は、呻くように言った。
「斬丸か!」
「違うわよ」
雪之丞は、あっさりと首を振った。
「あいつは、真の最強よ」
その声に、ほんのわずか、遠いものを懐かしむような響きが混じった。
「私のような、まがい物ではなくてね」
十兵衛の口元が、歪んだ。恐怖ではない。それは、笑みだった。
三百を屠った二人のうちの、一人。斬丸でなくとも、あの日、斬丸と並んで立っていた者。そういう相手が、今、目の前にいる。
「相手にとって、不足なし!」
十兵衛は、刀を握り直した。傷だらけの腕に、筋が浮き上がる。
「この命を賭して、お前を討つ!!」
雪之丞は、すっと刀を正眼に据えた。
刀身が、真っ直ぐに十兵衛を指す。その切っ先は、微塵も揺れなかった。
「そんなに最強を求めているのなら」
静かな声だった。
「私でも、その片鱗ぐらいは見せてあげられるわ」
桜色の着物の内で、何かが切り替わる。清姫には、それが分かった。空気の色が、変わったのだ。
「斬丸の強さの真髄。あいつが極めた――天殺夷心流の剣技をね」
◇
(一撃に、全てを賭ける……)
十兵衛は、刀を肩口に引きつけた。
小細工は、もういらない。読まれるなら、読まれてもかまわない。読まれた上で、なお避けきれぬ一撃を叩き込めばいい。
(力と速さは、俺が上。相打ちであれ、奴の首を落とす!)
その時、塀際で、清姫は息を呑んでいた。
雪之丞の構えが、変わっていた。さっきまでの、どこかしなやかな剣とは違う。もっと低く、もっと鋭く、まるで別の誰かが乗り移ったかのような構え。
(他人の剣を、まるで己のもののように……)
清姫の胸の奥で、何かが、かちりと音を立てた。
(そんな芸当ができる天才を、私は一人だけ知っている……)
茶も、花も、舞も。師匠が手本を示した、その一度きりで、何もかもをやってのけてしまった人。
ダッ。
十兵衛が、地を蹴った。
巨体が、弾丸のように路地を駆ける。踏み込みの一歩ごとに、乾いた地面が爆ぜた。全身の力を、ただ一振りの刃に込めて。
「屠った!!」
振り下ろす。その刹那。
「天殺夷心流……」
低い声が、十兵衛の耳元を、かすめた。
――一閃。
◇
空が、見えた。
抜けるような、夏の青。瓦屋根の端に、白い雲が千切れて浮かんでいる。
(何が……起きた……?)
十兵衛は、自分が仰向けに倒れていることに、遅れて気づいた。
刀を振り下ろしたはずだった。確かに、奴の首を捉えたはずだった。だが、その手応えが、どこにもない。あるのは、身体のどこかから、熱いものが静かに流れ出ていく感覚だけだった。
(俺は……斬られたのか……)
視界の端で、桜色の裾が揺れた。
雪之丞は、刀を下げたまま、静かにこちらを見下ろしていた。その着物には、返り血ひとつ、ついていない。
(剣先が、触れる事すら……叶わなかった……)
百の死線。百の勝利。その身に刻んだ傷の、一つ一つ。それらすべてを懸けた一撃が、相手の袖にさえ届かなかった。
(最初から……勝ち目など、なかった……)
不思議と、悔しさはなかった。
ただ、あの日、詰所で震えていた配下の声が、ようやく腑に落ちただけだった。
(嗚呼……これが……紛う事なき……)
視界が、ゆっくりと暗くなっていく。
(化け物か……)
◇
路地に、蝉の声が戻ってきた。
雪之丞は、刀身を一振りして血を払い、静かに鞘へ納めた。かちり、と鍔が鳴る。
そして、ふっと目を閉じ、いつもの花のような笑みを浮かべた。
「さて……全部片付いたし……」
清姫は、まだ動けずにいた。目の前の光景と、胸の奥で鳴った音とが、うまく一つにならない。
その手を、雪之丞がぐいと掴んだ。
「後処理、面倒だから」
「え?」
「逃げるわよ!」
「ええっ?!」
問い返す間もなく、清姫の身体は、桜色の背中に引っ張られて走り出していた。死屍累々の路地を背に、真夏の江戸の町へ。
握られた手は、刀を振るっていたとは思えぬほど、細く、柔らかかった。
◇
幾つもの角を曲がり、ようやく足を止めたのは、人通りの絶えた武家地の裏通りだった。
清姫は、弾む息を整えながら、塀に手をついた。隣では、あれだけの斬り合いをしたばかりの剣士が、息一つ乱さずに、屋根の向こうの夏空を眺めている。
「後は、親玉である家老の立花ってのを排除するだけだけれど」
雪之丞は、まるで市の使いでも頼まれたような軽い口調で言った。
「どうする? 斬り捨ててくる?」
「必要ないわ」
清姫は、腕を組んで、ふんと鼻を鳴らした。その口元には、不敵な笑みが浮かんでいる。
「家老の一人や二人。私と兄上で、叩き潰してやるわよ」
刺客の出どころさえ分かれば、後は島津の家中の話だ。剣ではなく、筆と証拠とで追い詰める。幕府の奥を知る姫にとっては、むしろそちらが本領だった。
「それより」
清姫は、ふと眉をひそめた。
「忠邦様の配下を斬り捨てたのは問題ね。大丈夫なの?」
筆頭老中の懐刀を、あれだけ派手に斬り捨てたのだ。いくら十兵衛の独断だったとはいえ、ただで済むとは思えない。
「それは大丈夫」
雪之丞は、あっけらかんと笑った。
「あのオッサンは、あたしには逆らえないのよ。昔、色々あってね」
清姫は、答えなかった。
筆頭老中が、逆らえない。
将軍の下で幕政の一切を取り仕切る男が、頭が上がらない相手。そんな人間が、この江戸に、一体何人いるだろう。
縁先で重ねた考えが、一つずつ戸を開けていく。
筆頭老中を「オッサン」と呼ぶ口。屋敷の奥まで差したまま上がり込む刀。島津の耳にさえ届かぬ高さから敷かれた、緘口令。水野の姫が口にした、あの呼び名。紀伊の藩士を百人。斬丸と並んで立っていた、もう一人。
どれか一つなら、偶然でもよかった。
だが、これだけのものが、ただ一人の人間の上に、形を成して重なっている。
「色々……ねぇ……」
清姫は、低く、そう繰り返した。
もう、疑いではなかった。
十年近く前、茶会の席で、ずっと目で追いかけていた人。ある日ふっつりと姿を消し、病とも、もうこの世にはいないとも噂された人。
その人が、今、目の前で笑っている。
胸の奥から、何かがこみ上げてきた。それが何なのか、清姫には名付けようがなかった。ただ、気がつけば、身体が勝手に動いていた。
清姫は、雪之丞の胸に、突っ込むようにして抱きついていた。
桜色の肩口に、額を押しつける。その背中に回した腕に、ぐっと力がこもる。目を閉じると、瞼の裏が、熱くなった。
「貴方が……」
声が、震えた。
「生きていて、本当に良かった……」
名は、呼ばなかった。
呼んではいけないのだと、分かっていた。名を捨て、姿を変えてまで、この人が守ってきたものがある。それを、自分の一言で壊してしまうわけにはいかない。だから、ただそれだけを言った。
十年分の、それだけを。
一瞬の間があって、そっと、後ろ頭に手が置かれた。
「どうしたの?」
すぐそばで聞こえる声は、いつものように軽やかで、それでいて、ひどく柔らかかった。長い黒髪を、細い指がゆっくりと、幼子をあやすように撫でていく。
「あたしが負けるわけないでしょ」
小さな笑いが、その声に混じる。
「相変わらず、清姫は……」
その言葉の続きは、声にはならなかった。
◇
――相変わらず。
自分の口からこぼれたその一言に、雪之丞は気づいただろうか。
清姫は、抱きとめられた腕の中で、そっと目を閉じた。髪を撫でる指の、そのゆったりとした拍子に、覚えがあった。
どこだったか……。
十年近くも前の、どこかの座敷。幼い自分は、礼を欠いた大人がどうしても許せなくて、幕府の役人に食ってかかった。小娘に意見された男の顔が、みるみる赤くなっていく。振り上げられた、大きな手。立ちすくんだまま、動けなかった。
その前に、一人の人が身体ごと割って入った。
自分と、そう年も変わらないはずなのに。その人は、自分の倍もある大人を、あっという間に追い払ってしまった。そして、張り詰めた糸が切れたように泣きじゃくる自分を、何も言わずに抱きしめてくれた。ちょうど今のように、ゆっくりと、髪を撫でながら。
その記憶が、鮮やかによみがえり、今と重なった。
「優しい子ね……」
同じ声が、耳元で聞こえた。
七 黒幕
数日後。
島津家の中屋敷の奥座敷に、清姫の姿があった。
水野屋敷での仮住まいも、昨日で終わった。久方ぶりに袖を通した紅の着物は、やはり身体によく馴染む。開け放った障子の向こうから、夏の終わりの風が、ゆるく吹き込んでいた。
「清姫様」
廊下に、平十郎が膝をついた。
「藩邸より伝令が。斉彬様が立花を問いつめたところ、全てを認めて、腹を切ったとの由にございます」
清姫は、しばらく黙っていた。
家老の一人が、腹を切った。それで、全てに片がつく。島津の内側で燻っていた火種は、これでひとまず消えたことになる。
「そう……」
小さく、息をつく。
「これで本当に、今回の騒動は、やっと終わりに……」
そこで、言葉が途切れた。
「……と、言いたかったのだけれど」
清姫は、ゆっくりと平十郎へ目を向けた。
「私は、今回の黒幕に、気付いてしまったのよね」
平十郎の眉が、わずかに動いた。
「お言葉ながら」
背筋を正したまま、平十郎は慎重に言葉を選ぶ。
「今回の首謀者は、立花一味で間違いないかと……」
「そっちじゃないわ」
清姫は、ぴしゃりと言った。
「私はね、男色に騙されるなら、それはそれで良かったの」
腕を組み、すっと目を細める。
「だけどね。信頼している腹心に騙されるのは、如何なものかしら」
平十郎の顔から、さっと血の気が引いた。額に、じわりと汗が浮かぶ。
「平十郎。お前は最初から、雪之丞と面識があったわよね」
沈黙は、一瞬だった。
平十郎は、がばりと畳に両手をつき、額を擦りつけた。
「申し訳ございませぬ! 腹を切って、お詫びをっ!」
「切らんでいい」
清姫は、にべもなく言った。
「おかしいと思っていたのよ。あの時、貴方は雪之丞の言うことに、何一つ異を唱えなかったし」
姫の身を預ける相手を、それも、得体の知れぬ男色の剣士を、護衛役が一言の反対もなく受け入れる。あの平十郎が、だ。思い返せば、あの時から、どこか引っかかっていた。
「やっぱり、繋がっていたのね」
平十郎は、畳に額をつけたまま、観念したように口を開いた。
「実は……」
◇
二週間前。
とある料理屋の座敷の隅で、平十郎は、一人で徳利を傾けていた。
「くそっ……」
猪口を握る手に、力がこもる。
「私の力不足で……姫に、危険が……」
藩の内紛。日に日に濃くなる、姫を狙う気配。だが、表立って動ける者は限られている。守りきれるのか。自分一人の腕で。酒は、少しも旨くなかった。
その時だった。
「イケメン発見〜!」
弾むような声が、頭の上から降ってきた。
顔を上げると、桜色の着物の誰かが、両手に猪口を掲げて、満面の笑みで立っていた。頬はすでにほんのりと赤く、目は糸のように細くなっている。
「あたしらと、飲まない?」
その後ろでは、無精髭を生やした恰幅のいい男が、すっかり出来上がった顔で笑っていた。
「金は、任せろー!」
「よっしゃ〜!」
桜色の袖が、勢いよく振り上げられる。
「忠邦、お前の金で、朝まで飲むぞ!」
平十郎は、ぼんやりとその顔を見上げた。酔いの回った目には、行灯の明かりの中で笑うその顔が、ひどく美しく見えた。
「こんな美人と飲めるなら……」
気がつけば、猪口を差し出していた。
「大歓迎で、ござる」
◇
「……で」
清姫は、目を閉じたまま、こめかみを押さえた。
「泥酔した挙句に、藩の内情を全て愚痴ってしまったと……」
「腹を切って、お詫びを……」
「切らんでいい」
平十郎は、畳に額を擦りつけたまま、ぎりりと歯を食いしばった。
「酔っておりました故……あれが、美女に見えてしまい……」
絞り出すような声だった。
「一生の、不覚にございます……」
「お前が反省すべきは、そこではないわ」
清姫は、深々と溜息をついた。
つまりは、こういうことだ。島津の内紛も、姫を狙う刺客の動きも、全ては二週間前のあの夜、酒の席で筒抜けになっていた。だからこそ雪之丞は、あの日、あの場所に、あれほど都合よく現れた。水野屋敷へ乗り込んだのも、餌を撒いて一網打尽にするという筋書きも、何もかも。
そして、その酒代を払っていたのは。
「……もういいわ」
清姫は、組んでいた腕をほどいた。
「全て、丸く収まったわけだし」
幕府に島津の姫の保護を届け出たのも。緘口令を敷いたのも。屋敷に匿い、何食わぬ顔で一つ屋根の下に置いたのも。あの筆頭老中は、最初から、全てを承知の上で動いていたのだ。
「最初から、忠邦様も、全て存じていたのね」
清姫は、障子の向こうの空を見上げた。
「食えないお人だわ……」
◇
「さて、平十郎」
清姫は、居住まいを正した。その声に、平十郎の肩がびくりと跳ねる。
「罰として、貴方には、九十八人の美男子を、薩摩から連れてくることを命じます」
平十郎は、ぽかんと顔を上げた。
「そんな事で、宜しいので?」
腹を切れと言われるものと、覚悟していたのだろう。拍子抜けしたような顔で、平十郎は首を傾げた。
「しかし、九十八名、ですか? 後の二人は、如何する……」
「お前と忠光に、決まってるじゃない」
清姫は、さらりと言った。
「腕はともかく、顔だけは良いんだから」
「なっ!」
平十郎の顔が、見る見る赤く、それから青くなった。
「厭なら、自分より美男子を連れて来ることね」
清姫は、すっと立ち上がった。紅の裾が、さらりと畳を撫でる。
「ちょ……ちょっと、お待ちを……」
「これから茶道の稽古なの。後は、よろしくね」
軽やかな足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
残された平十郎の悲鳴が、夏の終わりの屋敷に、虚しく響き渡った。
「姫……姫様ぁ!!」
◇
同じ頃。
本所の裏長屋の路地を、桜色の着物が、軽い足取りで歩いていた。
「雪之丞さん、お出かけですか?」
井戸端から声をかけてきたのは、同じ長屋に住む若者だった。
「いい稼ぎ口を見つけたのよ。行ってくるわ」
「良かったですね」
若者は、人の好さそうな顔で笑った。この剣士の稼ぎ口といえば、大抵はろくでもない用心棒か、さもなくば喧嘩の助っ人と、相場が決まっている。
「今度は何ですか?」
雪之丞は、くるりと振り返った。指先を軽く立て、花のように微笑む。
「大名家のお姫様の、華道と茶道の師範!」
「へぇ……頑張っ……」
言いかけて、若者の口が、そのまま止まった。
大名家の。姫の。華道と、茶道の。
目の前で、男色の剣士が、上機嫌に桜色の袖を揺らしている。
「はぁ?!」
夏の空に、若者の素っ頓狂な声が、高く抜けていった。
(清姫編 終)




