プロローグ
雨が降っていた。ぼたぼたぼたっと、大きな音を立てながら降っていた。
知世は目蓋を開くのと同時に握りこぶしで太ももを殴りつけた。遠くにいってしまいそうな意識をなんとか引き止めようとしたのだ。そうでもしなければ今すぐにでも眠ってしまいそうだった。
フロントガラスはひび割れていたけれどガードレールが見える。最終的にガードレールに突っ込んで車が止まったらしい。
全身に強烈な痛みが走る。が、この状況は理解できていた。
名前は野村知世、大学生の二十一歳。ちゃんと記憶はあるし頭は働いている。
土曜日の夜、大学の帰り道で姉の灯花が車で拾ってくれた。家に向かって走っている最中のことだったのを覚えている。
「おねえ、ちゃん……」
運転席を見ればハンドルにもたれ掛かる姉がいた。
ぼやけた頭で状況を確認する。人通りが少ない産業道路の大きなカーブだった。センターラインをはみ出してきた車と衝突し、その際に灯花がハンドルを左に切ったのがわかった。知世をかばうために右側を盾にしたのだ。そして対向車が運転席側の後部席を直撃、車は回転しながら前進を続けてフロントからガードレールに突っ込んだ。
車内を見渡すと運転席側の後部座席のドアが強烈に凹んでいた。運転席を直撃したわけではないのが幸いだった。
シートベルトを外して灯花の首筋に左手を当ててみる。
「よかった……」
まだ生きていることに安堵した。これで死なれたりなんかしたら一生悔やみ続けそうだ。
体を倒して腕を伸ばす。一挙一動に対して全身の痛みが強くなっていく。それでも腕を目一杯伸ばして灯花のシートベルトを無理矢理外した。
痛みのせいか涙が勝手に出てきてしまう。口の中が塩気と鉄の味でいっぱいだった。その味をすべて噛み殺してでも体を動かさざるを得なかった。
『お姉ちゃんを助けなきゃ』
ただ、それだけだった。
おそらく運転席のドアは動かない。車のフロントはガードレールに当たり、後部席は対向車に突っ込まれたからだ。
助手席のロックを外してドアハンドルを引くと、少しばかりの抵抗を伴いながらもドアが開いた。助手席側からならば出られる。
深く長く息を吐いた。人ひとり分の体重を支えるだけの力が残っているかどうかなど、誰がみてもわかることだ。傷だらけで満身創痍。今すぐにでもこの場で眠ってしまいたい。
大きく深呼吸をしてから「よし」と気合いを入れた。右手で灯花の首と頭を支え、左手を膝裏に差し込んだ。腰と背中に激痛が走る。間違いなく骨に異常がある。そっとしていなければならないんだろうがそうは言っていられない。これだけの事故だ。燃料も漏れ出しているだろうし、いつ爆発が起きてもおかしくはない。
外に左足を出してから灯花を抱き寄せた。大きく息を吸い込んでから呼吸を止め、灯花を抱いたまま外へと飛び出した。
よろけて地面へと真っ逆さまに落ちていく。右足を出して踏みとどまったが、先程よりもずっと痛みが増しているような気がしていた。
そこを山場にして少しずつ痛みがなくなっていった。まるで無敵になったかのような気分だった。
今まで人を抱き上げたことなどなかった。火事場の馬鹿力というものが本当にあるんだと痛感しながら、車から少し離れた場所までやってきた。灯花をそっと降ろし、自分の上着とそのへんにあった大きな石で首が動かないように固定した。
灯花の頬に右手を当てて、そっと、優しく、何度も撫でた。すると灯花がゆっくりと目を開けた。
「とも、よ……?」
「うん、そうだよ」
「事故っちゃった?」
「お姉ちゃんのせいじゃないよ」
「助けてくれたの?」
「そうだよ。偉いでしょ」
そこまで言って、急に力が抜けてしまう。ドサッと、灯花の胸に顔を埋める形になった。
「ごめん、もう、私、無理みたい」
「ちょっと待ってよ」
「良かった、助けられて……」
もう目蓋を開く気力もなかった。持てる力を全て出しきったのだと自分でも理解できる。本来の自分であれば助け出すことなどできなかっただろう。
「ヤダ、ヤダよ」
愛でるように頭が撫でられた。きっとそれくらいしかできなかったんだろうなと思う。追突されたのは運転席側だ。灯花が知世と同じかそれ以上の怪我をしていてもおかしくはない。怪我をしながらも頭を撫でてくれたことがなんだか嬉しかった。
ここで人生を終えるのだろうなと悟った。しかしながら不思議なことに後悔はない。こうして愛する人を助け、そしてその胸で死ねるのだ。
十歳離れた姉の灯花。忙しい母に代わって面倒を見てくれた。毎年かかさず誕生日を祝い、月に一度は必ず一緒に買物をする。よく髪の毛を結ってくれたし、一緒に旅行に行くことも多い。友人がほとんどいない知世とっては母親であり、姉であり、友達でもあった。喧嘩もしたが、毎回ちゃんと仲直りできた。そんな姉だから、自分の命を投げ売ってでも助けたかった。
目蓋を閉じていても思い出される優しい笑顔。自分とは違って明るく社交的だった。知世が引きこもりに近い生活をしていても文句を言うことなどなかった。おそらく知世のことを一番よくわかっており、わかろうとしてきた。
「ごめんね、ごめん……」
謝りながらも意識が遠のいていくのを感じる。
心音が小さくなっていく。
同時に、妙な達成感があった。
知世は無神論者だったが、今このとき初めて神に祈った。
「あねを、をたすけてください……」
意識が切れる直前に灯花の悲痛な叫びを聞いた。
大丈夫。大丈夫だよ。そう言ったつもりだったが唇はもう動かなかった。
姉が生き残ってくれればそれでいい。そんなことを思いながら、ゆっくりとその人生が閉ざされていった。




