たとえ傾国の美姫であれ、真実なき情など塵芥に等しい
古典歌劇場の威容をほぼそのまま模して築かれた、巨大な階段教室。
深色の革で覆われた重厚な両開き扉を押し開けると、広大な空間に呑み込まれるような、ひんやりとした空気が肌を撫でる。
講堂全体は半円形の扇形ドーム構造を成し、数十段に及ぶ石段が幾重もの波のように高みから低みへと弧を描いて傾斜していた。
黒胡桃材で設えられた弧状の長い長机が幾重にも重なって両翼へと伸び、最下段の中央に位置する講壇をぎゅっと抱き込むように取り囲んでいる。
最上層の後方端から見下ろせば、まるで歌劇場の最上階ロッジアに身を置いたかのような、奇妙な浮遊感と眩暈を覚える。
底の講壇に立つ者の姿は距離によって小さく圧縮されながらも、空間全体が集約する構造ゆえに、否応なく視線の唯一の錨となるのだ。
ドーム天井に嵌め込まれた長大なステンドグラスは、自然光と隠された仄かな魔導灯の光を受け、暗赤色の絨毯と黒ずんだ手すりの上に冷ややかな光の斑紋を落としていた。
この教室は、生まれながらにして比類なき審判の気配と劇的な緊迫感を孕んでいる。
段々に連なる座席は沈黙する観覧席そのものであり、そこに居並ぶ学生の一人ひとりが聴衆であると同時に、舞台を見下ろす傍観者に他ならない。
そして最下部の円形講壇に立つ者が発する声は、たとえどれほど微かなものであろうと、精緻な半球壁に集められて増幅され、上から降り注ぐ数百の視線の中に晒し出されるのだ。
その半円形ドームの天蓋の下、歌劇場の観客席のように円環状に連なる黒胡桃の机に囲まれ、マリーズは中後方の視界の開けた、それでいて人目を引かぬ一角にただ一人腰を下ろしていた。
その指先は、全体が透き通るような白磁の光沢を帯びた一節の薬草を、気のない様子で弄んでいる。
万年人参。
前世の地球において、人類が文字による文明の記録を刻み始めてからの歳月はおよそ五千年ないし一万年。
沈黙を保つこの細い根茎は、歳月の重みという観点において、人類が石器の集落から宇宙へと踏み出すまでの果てしない興亡史そのものを掌に収めているに等しい。
その希少さと価値の重さを、彼女は誰よりも冷徹に弁えていた。
朝の光に満ちた回廊での対峙は、残酷でありながらも体裁を保った形で幕を下ろした。
あの高嶺の花たる公爵令嬢が、屈辱を呑んでまであのような熱烈な求愛を演じてみせたのは、抗いようのない力関係に追い詰められたゆえの足掻きに過ぎない。
他人の不運に付け込むことを嫌うマリーズに、火事場泥棒のようにその芝居に乗っかり、色恋沙汰へと押し流される気など毛頭なかった。
詰まるところ、演習場で軽薄な口を利いて相手をからかったのは、己の落ち度である。
だが、心に微かな疚しさがあるからといって、本来己のものではないこの華奢な身体を、かつて慈しむことすらしなかった女への代償として差し出す謂れなどどこにもない。
マリーズの冷淡さと頑なさは、拍子抜けするほど純粋な理由に基づいていた。
――この身体は、自分のものではない。
たとえ発端は、あの絶望したちっちゃなハムスターのような少女に身代わりとして引きずり込まれた運命であったとしても。
この因果を引き受けた以上、彼女はこの肉体の本来の主に対して責任を果たさねばならない。
理不尽な虐げと侮蔑の果てに、死こそが唯一の救いであると思い詰めさせられたあの気弱な少女の尊厳を、守り通してやりたいのだ。
だからこそ、この身分階級の厳しい帝国学院において、打算と虚飾に満ちた好意のすべてに対して、断固として「否」を突きつけることができる。
「心から純粋に自分だけを愛してくれる者としか、生涯を共にする気はない」と告げられた時、誇り高きイリノーの唇には、ただ痛々しく砕けた自嘲の笑みが浮かぶのみであった。
公爵令嬢には反論の資格も、引き留める余地もなかった。
かつての長きにわたる年月において、彼女は傲慢に背を向け、回廊の片隅で怯えて震える影を幾度となく打ち捨ててきたのだから。
今さら風向きが変わったからと真心を装ったところで、己自身すら欺けず、周囲の悪意ある傍観者たちにすら、その手詰まりの苦渋と打算を見透かされるだけである。
窒息しそうな沈黙の末、イリノーは縋り付くようにして、この万年人参を受け取ってほしいと懇願した。
背後に控える絶対の脅迫者に対し、「ヴァレンシュタイン家の令嬢を歓待すべく全力を尽くした」という体裁の証を立てねば、公爵家が即座に血祭りに上げられる危機を免れ得ないからだ。
マリーズもまた、相手の瞳に宿る剥き出しの生存本能を察し、無下に突き返すような無粋な真似はしなかった。
互いの腹の内を読み切ったのであれば、表向きだけでも相手に逃げ道を遺してやるのが、成熟した大人の分別というものだ。
彼女は人参を受け取り、そして決定的な境界線を引いた。
(本当に、呆れるほどに広い世界ね……)
マリーズは指先に微かに力を込め、机の影でずっしりと重い霊薬の重みを確かめながら、ぼんやりと物思いに耽っていた。
昨夜、寝台の毛布の中で、ドウバオはその濁りのない拙い言葉でこの異世界の輪郭を語ってくれた。この世界もまた丸い球体でありながら、総体積は地球の優に二十倍に及ぶ。
五つの大陸と広漠たる大洋が半々に分かち合い、絶望的なまでに広大な大地には、前世の知見を遥かに凌駕する生態系と、無尽蔵の凶虐なる魔獣が蠢いているのだと。
そのように壮大にして過酷な世界において、一万年の天脈を吸い上げたこの薬草は、紛れもなく血で血を洗う争奪を巻き起こす至宝に違いない。
これを受け取ることは、公爵家との間に奇妙な「不可侵の暗黙」を結ぶことを意味していた。
だが、理性がどれほど納得していようと、マリーズの胸の奥には、失恋にも似た淡い寂寥が燻っていた。
傾国の美姫を前にして、誰が初めから心を閉ざし切れようか。
前世の鈴木八重は孤独のまま果てた男であり、今世で得たこの端麗な器にあっても、愛そのものを拒絶するつもりなど毛頭なかった。
フェイのような野の白百合のごとき凛とした冷涼さであれ、イリノーのような気高くも棘を持つ黒薔薇であれ、もしどちらかの想いが打算なき純粋なものであり、歳月をかけて花開くものだったなら、彼女はすべての警戒を解き、全霊をもってその者だけを愛しただろう。
だが、その一途な情愛を差し出すための前提条件は、いつの世もただ一つ。
――相手の心にもまた、己一人しか存在してはならない。
彼女が欲するのは一切の打算を排した「唯一」であり、利害を天秤にかけた妥協ではない。この精神的な潔癖さこそが、謀略渦巻くこの学園において、彼女を徹底して異端たらしめているのだ。
「……ゆえに、魔力の奔流とは術式法則への理解に根差すものであり、才能の限界というものは、先天的な魔核の優劣のみで結論づけられるものではございません。この点について……いかがお考えかしら、ヴァレンシュタイン伯爵令嬢?」
穏やかで重みのある、敬意と斟酌を滲ませた問いかけが、階段講堂の精緻な集音構造を伝って、頭上へと明瞭に響き渡った。
マリーズは我に返った。
習慣的に伏せていた視線を上げ、扇形に広がる幾層もの机の列を越えて、真下の円形講壇に立つ老教授を見下ろす。
紫金の複雑な紋様が織り込まれた導師服を纏うその老学徒は、わずかに首を傾げ、数十段の階段を隔てた彼方から、慈愛にも似た、明らかな歓心と期待を込めた温かな眼差しで彼女を捉えていた。
その瞬間、周囲に座す数百名もの生徒たちの視線が、見えない糸に引かれたかのように一斉にマリーズの座す一角へと集中した。
値踏み、詮索、嫉妬、畏怖……複雑怪奇な視線が編み目を成して降り注ぐ。
マリーズの胸中は鏡のように澄んでいた。
過去の数年間、怯えるばかりのちっちゃなハムスターであったリリがこの教室の片隅に小さくなっていた時、講壇の導師たちはただの一瞥すら恵もうとはしなかった。
それが今や、学会に重きをなすこの老教授が、居並ぶ貴族と平民のすべてを前にして、教義の趨勢を決する発言権を直々に彼女の掌へと差し出してきたのだ。
これは単なる諮問ではない。学園内部の派閥による、公然たる「旗幟の表明」であった。
演習場においてフリードを一撃のもとに沈めた圧倒的な武威、そして背後に控えるヴァレンシュタイン家の【十二枚の免罪金牌】。政治の狭間に喘ぐ中立派の学者たちが、ついに彼女と結ぶ利を見出したのだ。
帝都魔法学院に身を置いて以来、権力の中枢に座す教授からこれほど明確に認められ、引き抜きの手を差し伸べられたのは、マリーズにとってこれが初めてのことであった。
羽ペンが羊皮紙を走る微かな擦過音すら聞き取れるほど、場内は静まり返っている。
誰もが固唾を呑み、悪名高きあの苛烈にして不遜な伯爵令嬢が、いかなる傲慢な舌鋒をもって、旧弊な貴族たちが金科玉条とする「血統魔核論」を嘲弄し、叩き壊すのかを見届えようとしていた。
全方位からの視線を一身に浴びながら、マリーズは手元に開かれていた魔導書を優雅に閉じた。多くの者が期待したであろう若気の至りの破壊論を振りかざすことなく、彼女は薄い唇を静かに開いた。
その声音は清らかで温かく、伯爵令嬢としての非の打ち所のない気品と分別を湛えている。
「教授のただいまの高見、まことに蒙を啓かれる思いでございますわ。
私の浅学なる身から愚見を述べさせていただけるのであれば……魔核の天賦がもたらす優劣は、修練の初途において築かれる壁としても恩寵としても、決して軽視し得ぬ厳然たる事実にございます。
ゆえに、劣悪な魔核が戦士の行く手に少からぬ桎梏をもたらすという点までは、私も否定いたしません。
……されど、ただ先天の魔核の品階のみをもって、戦場における個の勝敗や生死のすべてを断ずるというのは、少々短慮に過ぎる見解ではないかしら」
淀みなく紡ぎ出された言葉は、春の風のように静かに講堂を満たしていった。
演習場で見せた「弱者が強者を屠る」戦果に酔い痴れて大言壮語を吐くこともなく、伝統貴族の矜持を踏みにじることもない。それでいて、平民や持たざる者たちへ新たな活路を開こうとする老教授の学究の志をも、決して無にしてはいない。
彼女は差し出された歓心の糸を穏やかに手繰り寄せ、相手の論を立てつつも、両派閥の尖鋭な対立の狭間に、たおやかな緩衝地帯をあつらえてみせたのだ。
百戦錬磨の老獪な学者たちが最も恐れるのは、引き入れた盟友が周囲に見境なく噛みつく狂犬に過ぎないことである。
もしマリーズが先刻の問いに乗じて自説を振りかざし、白黒を極端に断じていたならば、留飲を下げることはできても、老教授を保守派貴族の槍玉に挙げ、四面楚歌の窮地へと追い込んでいたはずだ。
しかるに、この水も漏らさぬ手綱捌きと気配りこそが、結果として老教授の身を庇う盾となって機能していた。
円形講壇の上で、幾重の風霜を刻んだ老学者の双眸が、驚嘆に光を宿した。目尻に深く刻まれた皺が、歓喜のあまり微かに緩む。
彼は遥か高みに座す、灰白色の髪の平然たる令嬢をじっと見つめ、胸の底から静かに感嘆の息を吐き出した。言い知れぬ安堵と戦慄が、その身を震わせていた。
特権と驕慢に浸りきったこの帝都学院にあって、お追従を聞き慣れた貴族の子弟など掃いて捨てるほどいる。
しかし、弱冠二十歳にして演習場を制したばかりのこの少女は、突如差し出された権力の甘美に溺れることも、傲慢に浮つくこともなく、その言葉の端々に年齢を遥かに超越した深慮と、人心を掌握する政治の知恵を宿していた。
進退は節度を保ち、切っ先は鞘深くに隠し、自らを庇い立てする者の退路すら自然に塞いでみせる。
老教授は手に握る指示杖に無意識に力を込め、胸の内で深く、深く呻嘆した。
――ヴァレンシュタイン家のあの小娘が、無能の落ちこぼれなどと誰が言ったのだ。
あれは、柔弱なる小動物の皮を被り、やがてこの帝国に未曾有の地殻変動をもたらす、深淵の怪物ではないか。
未知なる異形の知識、そして骨の髄まで冷徹な戦闘の直感。
宮廷に連なる老練の導師として、教授はマリーズの宿す先天的魔核が、今なお風前の灯火のごとく微弱なものであることを見誤ってはいない。
しかし、あの演習場で見せた幾度かの交鋒を脳裏で反芻するたび、胸を突く驚愕は静まるどころか増すばかりだった。
生死の境を分かつ刹那において彼女が晒したあの戦闘の嗅覚は、あまりに異様だったのだ。
それは豊かな魔力にものを言わせる天才の「天賦」などではなく、幾千の修羅場と挫折の泥濘の中で研ぎ澄まされた、百戦錬磨の亡命者のみが宿す冷徹な覚悟そのもの。
老教授の胸の内に、解けぬ疑問が蔦のように絡みつく。
あの奇怪なる形状をした魔導短銃、そして帝国の典籍のどこにも見当たらぬ苛烈な肉弾の体術……それらはすべて、世界に追いつめられて退路を断たれた弱き魂が、凍てつく無数の夜の底で、血の涙を啜りながら自らを削り出して創り上げた「我流の闘争術」に他ならないのではないか。
まさか……長年にわたり帝都の嘲笑を一身に浴びてきたあの落ちこぼれの娘は、神ですら見落としていた規格外の偉才であったというのか。
やがて重厚な鐘の音が鳴り響き、講堂を支配していた息詰まる緊張の幕を引いた。
マリーズに、生徒たちの好奇と畏怖の視線を浴びながら無駄話に興じる気などあろうはずもなかった。
彼女は何食わぬ顔で万年人参を袖口の奥へと滑り込ませ、ドレスの裾を整えると、無数の視線が突き刺さる中を、誰とも交わることなく教室の外へと歩み去った。
今の彼女には、一人になれる静寂が必要だった。
前世の三十年の魂がいかに鋼の鎧を纏っていようと、イリノーの偽りの熱情を暴き、その奥にある剥き出しの打算を突きつけられた後の胸の鈍痛は、鉛のように重く神経に圧し掛かっていた。
欺瞞を見透かすことと、その奥にある「誰からも純粋には愛されない」という痛烈な孤独を噛み砕くこととは、まったくの別問題なのだから。
「マリーズさん?」
澄んだ柔らかな声音が、回廊の曲がり角から不意に投げかけられた。
マリーズは足を止め、流し目に振り返った。
そこに佇んでいたのはフェイだった。しかし昨夜の篝火の傍らで見せた、屈辱に唇を噛み締めながら「お、奥様……お水はいかがですか」と無理やり絞り出したあの無様さは微塵もない。
白髪の少女は静かに背筋を伸ばし、その双眸は曇りなく澄み渡り、雪嶺に咲く寒梅のごとき、毅然とした平民の俊英へと立ち戻っていた。
胸の悪くなるような媚態もなければ、あの滑稽極まりない「奥様」の響きもない。
荒波を潜り抜けてきたマリーズの怜悧な知性が、瞬時にしてその背景を組み上げる。
――先刻の回廊において、己がイリノーへ突きつけた冷徹な拒絶の言葉を、この白百合は余すところなく立ち聞きしていたのだ。
フェイは極めて聡明な娘である。マリーズが仮面を被った欺瞞を何より嫌悪することを見抜くや否や、即座にあの拙い色仕掛けをかなぐり捨て、最も警戒されにくく、最も自然な己の原点へと立ち戻ってみせたのだ。
持たざる者が生き残るための適応の早さには、舌を巻くべきものがある。
だが、マリーズがその機転に内心の評価を下す暇もなく、フェイの湖水のごとき淡青の瞳が、マリーズの手元にあった万年人参の輪郭を捉えた刹那、極めて微かに、しかし確かに強張った。
その揺らぎは瞬きよりも短く消え去ったが、マリーズの目を逃れることは叶わなかった。
マリーズは表情を微塵も崩さず、口元の角度一つ変えることなく、左手に持っていた人参を右手に持ち替え、何気ない仕草で制服のゆったりとしたポケットへと滑り込ませた。
そのわずか一秒に満たぬ動作の間、フェイの視線は見えない糸で縫い止められたかのように、マリーズの手首の動きを追って左から右へと綺麗な弧を描き、純白の薬草が布地の奥へと完全に消え去って初めて、その長い睫毛を震わせて視線をマリーズの双眸へと引き戻したのだ。
その所作は至極自然であり、常人であれば見過ごすほどの完璧な繕いだった。
普段であれば、その冷静さを褒め称えたかもしれない。だが、イリノーから無情な現実を突きつけられたばかりのマリーズの心には、すでに堅固な防壁が張り巡らされていた。
自嘲を帯びた冷え冷えとした微笑が、胸の奥深くに滲み出していく。
(……そういうことね。)
力を渇望し、すべてを賭けて足掻く平民の俊英が、肉体の限界を打ち破り魔脈を再編し得る至宝の霊薬を目の当たりにしたのだ。
この世界に、打算なき偶然や敬意など、初めから転がっているはずもない。
「免罪金牌」を狙う公爵令嬢を追い払ったかと思えば、今度はこの孤高の平民の花が、運命を変え得るこの至宝を掠め取らんと、己の周りに蜘蛛の巣を張り巡らせ始めるというわけか。
今のマリーズを支配していたのは、骨の髄にまで染み渡るような、深い深い疲労感だった。
求めていたものは、あまりにささやかで、あまりに単純なはずだったのだ――利害も、打算も、この精巧な器の背後にぶら下がる付加価値のすべてを削ぎ落とし、ただ純粋に「自分」という魂だけを見つめ、無条件の愛を注いでくれる誰かがいてほしかった。
それなのに……前世の三十年の日々がそうであったように、次元を越えてこの異界に流れ着いてなお、己の周りに群がり、吸血の羽音を立ててすがりついてくるのは、計算と欲望に塗れた亡者ばかり。
一族の免罪符を求め、誇りを投げ打って膝を屈する者がいれば、
力の限界を打破せんとして、ただの一茎の薬草に瞳を奪われる者がいる。
(……吐き気がするわ。)
マリーズは静かに瞼を伏せ、苦汁を呑み下すかのような冷ややかな嘲笑を胸の内で漏らした。
いつ魔獣の軍勢に踏みにじられ、命が塵芥のように散りかねないこの過酷な異界において、生き延びるためには知謀も、権術も、暴力も必要不可欠なのだろう。
だが、いつ終わりが訪れてもおかしくない終末の狂瀾の中だからこそ、いかなる条件も交えぬ無垢な真心こそが、どれほど尊く、どれほど贅沢なものであるか。
哀しいかな、見渡す限り、視界を埋め尽くすのは仮面を張り付けた博徒ばかり。
誰も自らの胸を裂いて真心を晒そうとはせず、他人の骨肉に値をつけ、己が生き延びるための最後の一滴の油を絞り取ることしか考えてはいないのだ。




