影抜き
美咲の体に、冷たい何かが這う。
それはただの風じゃない。空気が、彼女の肌を押し込むように絡みつく。
振り向くと、あの少女――“影の子”は、にこりと笑って立っていた。
「さあ……もう準備はできた?」
声は甘く、だがどこか機械的で人間味が薄い。
目の奥の闇が深く、光を吸い込むように沈んでいた。
「影を……返すの?」
美咲の声はかすれ、膝が震える。
少女は静かに首を横に振る。
「ちがうよ。
わたしが“外”に出るために、あなたの影をもらうの」
突然、周囲の空気がねじれるように揺れ、畳の影が長く伸びる。
壁や柱が波打つように歪み、部屋全体が“生き物”のように呼吸し始めた。
「いや……やめて……!」
叫ぶ美咲を押さえつけるように、影が床から伸び、足首を締め上げる。
逃げようとしても、足はまったく動かない。
少女の手が顔を覆い、暗闇が美咲を包み込む。
その瞬間、幼い頃の自分と向き合うような錯覚に襲われる。
――“私も、あの子も、同じなの?”
視界がぐにゃりと曲がり、床も天井も消える。
ただ、黒く沈む目が二つ、美咲を見つめる。
「さあ……交代の時間よ」
囁きが耳の奥で反響する。
そのとき、ふと小さな光が、祠の奥から差し込んだ。
祖母が生前に残した日記の紙片が、光を反射してきらりと光る。
「影を返すには……真実を認めるしかない」
美咲は気づく。
この家に潜む“過去の事件”――隠された秘密を、目を背けずに受け止めなければ、影は解放されない。
少女は一歩近づく。
美咲は深く息を吸い、光に手を伸ばす。
影の子の黒い瞳と、自分の瞳が交わる瞬間。
――時間が止まったかのように静まり返る。
影の子は、ふっと後ろに退く。
長い髪が揺れ、影が溶けるように消えた。
空気の重さが一気に軽くなる。
「……終わったの?」
美咲は震える手で日記を抱え、呼吸を整える。
祠の中は静かになり、鈴の音も止んだ。
外の風が差し込み、薄暗い朝の光が差し込む。
だが、美咲は知っていた。
この家に潜む過去の影は、完全に消えたわけではない。
ただ――自分と向き合い、受け入れる覚悟を持った者にだけ、微かに姿を現すのだ。
小さく息をつき、美咲は立ち上がった。
影の子の存在が消えたわけではない。
それでも、少なくとも今は――、逃げずに生き延びられたのだ。




